フリー哲学者ネコナガのブログ

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「天才」について

 「天才」とは何かといえば、歴史的経緯はともかく、今ある概念の説明としては、「何をやってもライバルがいない者」とか「多くの分野で突出したパフォーマンスをみせる者」ということになるだろう。

 

 ここで重要なのはつまり、「一つだけ」ではだめだということである。たとえば「○○の天才」という言葉は散見されるが、これがむしろ、そうして形容される者が本当には天才ではないことを示しているように思われるのは、第一に「○○の」と言っている時点で裏からみれば「特定の範囲でしか通用しない」と言っているに等しいからであり、第二に、説明せねばその「天才性」がわからないようでは、やはりとても「天才」であるなどとは思われないからである。

 その意味では「天才小学生」などというのも同じだが、むろん子どもの方が大人よりもはるかに優れたパフォーマンスを発揮する物事もあるとはいえ、つまるところ「天才」であればただ「天才」といえばよいのであり、わざわざ「小学生」とつけるというのは、小学生であるという事情を勘案しろということなのだから、やはり本当の意味では天才ではないことを裏付けていると言えるのである。

 

 要するに、「天才」はいつも「ただ天才」であり、だからこそ、たとえばフィールドを変えても「天才」なのである。ともかく何であれ「限定」がついた時点で、「天才」ではない。

 

 そもそも、さもなければ「天才」の数は、あまりにも多くなりすぎると言わねばならないだろう。このことは、あらゆる「一番」の者を集めたら、その者がたんに二番手を大きく引き離している場合などは膨大な数に上るであろうことからも明らかだが、ともあれだから「天才」たる最低限の条件としては、その才能を「多様な形で発揮する」ということを、どうも加えねばならないと思われるのである。

 むろん究極的には、個人の寿命をはじめ各種の資源は有限であって、つまり「たまたま一つだけ」という場合もありうるから、「一つだけ」の中にも「潜在的天才」はいるとは言える。しかし、たとえ一つのことでもその中ではやはり「何もかも」という印象を抱かせるのが「天才」だと思われることからして、いずれにしても「天才」とは「ただちにそうだとわかる」ものであって、少なくとも「かどうか」などという議論の余地は生じるものではないとは言えるだろう。

 

 ところで、今ひとつ軽視されるべきではない側面だが、「天才」は「個人」である必要もある。というのは、たとえば数学者のニコラ・ブルバキの業績は素朴にみれば「天才」と呼ばれてもおかしくはないと思われる一方、これは実は数学者「集団」のペンネームであるということがわかれば何かが腑に落ちるというように、「天才」は何ら限定をつけるべきではないという一方で、実はその抽象的な定義自体の中にはどうも、「個人だからこそ」という限定が確固たる形で入っていると思われるからである。

 あるいはもう一つ例を挙げれば、「哲学」という言葉をつくり、「ドレミファソラシド」の音階を世界で初めてつくり、何よりは「三平方の定理」等で有名な古代ギリシアのピタゴラスも、この場合は個人としては確かにいたにしても、それはまず宗教家であって、実は「ピタゴラスの業績」とされる数々のものはいったいピタゴラス教団に属する誰によるかわかったものではない、と知れば、ともすると「天才」に列せられたピタゴラスも急にリストから外れるというわけなのである。

 いずれにしても、われわれがある者を「天才かどうか」と判断する上ではこうして、大前提として「個人である」という認識が取り去りがたくあるように思われるのだが、それは、要するにそのような目で見れば「誰もが個人」であるということと関係しているのだろう。つまり、「天才」の「天才性」をわれわれは、根本的にはあくまでも「個人」として「自分」と比較することによっておそらく実感しているのであって、あるいはだからこそ「天才」は、時代を超えて「天才」たりうるのかもしれないとも言える。

 

 もっとも、また一方で「天才」の「天才」たる所以を、「個人」のうちにたんに「実在する」ものとみる、いいかえれば「天才」なるものがいる、「天才がいる」と考えるというのは、根本的には大きな間違いであると言えるだろう。つまり「天才」はむしろ「ある」、「天才であることができる」だけなのだと言えるのだが、それは何より「天才」が「天才」であるためには、一方で「天才である」と広く認知される必要も明らかにあるからなのである。

 つまり「天才」とはあくまでも、「個人」としてのパフォーマンスと、同時代同社会における相応の「まなざし」の合致するところに、言わば「出現する」ものなのであって、だから逆にいえば、時に後代になって「先を行き過ぎた人」として発掘されるような場合、つまりパフォーマンスの方が「突出しすぎている」ような場合には、広く「天才」と呼ばれるようにはもはやならないのであるし、またその発揮されたる「天才性」への臨場感がリアルタイムを離れるほど必然的に低下していくことからして、やはり「そこ」で呼ばれなければあとから呼ばれることはない、ということなのである。

 

 あるいはそう思えば、先の「時代を超えて天才たりうる理由」については、べつの力学がむしろ強くはたらいているのだとも言えるが、つまり「天才」は、一度そのように呼ばれ始めたら、今度は「天才である」というそのこと自体が語り継がれていくのであって、だからこそたとえばレオナルド・ダ・ヴィンチやアインシュタインのように、特定の「天才」はむしろ「典型的な天才」として、時代を超えて「天才」であるということになるとも言える。この方面からみればつまり、業績への評価はもはや無関係ですらあるのである。

 

 ともあれ、実際、「個人」だけを対象として行われるような考察、たとえば典型的には「精神障害や発達障害を持っている率が高い」といったような、「こうした共通点がある」の類が、それが研究上の手法的限界によるものであるとしても、どうしてもどこまでもナンセンスに思えるのも、ことほどさように「天才」とは実はむしろ「社会的に生み出される」という側面の方が圧倒的に強いからなのであって、つまり個人を単位にして語るのは土台無理があるからだと言えるのである。その意味では「天才」は昔でいう「聖人」の位置づけにもひょっとすると近いのかもしれないが、それならつまり、ただ現代では崇められるものが多様化したというだけなのかもしれないが。

 

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