フリー哲学者ネコナガのブログ

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カント『純粋理性批判』を読んでみよう─知りえることと知りえないこと

 気まぐれに古典の簡単な解説を書いてみているが、今回は最もそれらしい、イマニュエル・カントの『純粋理性批判』をとりあげてみよう。近代哲学史上最も重要な本の一つだとされているが、読んだ人がどれほどいるかはともかく、一般的にも「典型的な哲学書」としてよく知られているものである。

 

 本書は、何よりも「難解」だとされている。実際、何も知らずにパラパラみても意味不明なのは確かだろう。「難しい」理由については、元々の文章がうまくないとか、翻訳にまずいところがあるとか、用語が難しいとか、いろいろ言われているが、どれもそれなりに妥当ではあるのだろう。翻訳による部分はある程度は仕方がないにしても、実際にカントは当時から悪文で有名であったとされているし、造語もあれば、伝統的な言葉を再定義したりもするから、すらすら読めるというものではない。

 もっとも、難しそうである理由をいくら並べても先に進むわけではないから、結局は冷静に読み進めるしかないということになる。実際、内容自体は今日からみれば格別に難しいというわけではないし、その意味では、唯一どうしても読めない原因があるとすれば、それはたぶん興味がないからである。本書などは主題が主題だけにますます言えることだが、どう考えてもこれは書いている方が書いていることについて尋常ではない興味を持っているのであるから、読む方にもそれなりの興味がないと読めないのは道理である(この記事が興味を喚起するとすれば幸いである)。

 なお、この記事は部分部分がよくわからなくてもあまり気にせずにそのまま読み進めてほしい。もともと本書自体、順番に理解する類の本ではない(たいていの本はそうなのであるが)。それから、文献については最後に書くが、この記事での引用は岩波文庫の篠田英雄訳『純粋理性批判』(上中下)から行うことにする。訳語についても基本的には同書に従っている。

 

 では、脱意味不明を試みることにするが、まずタイトルである。「純粋理性批判」は、実はこれで一語とも言えるのだが(学問分野の名前として)、切るならば「純粋理性/批判」と切る。つまり純粋理性の批判だが、ここで「批判」とは原義のまま「弁別する」というニュアンス、つまり、よく検討する、良し悪しや正誤を吟味するという意味である(日本語では「批判」を専ら「否定」「非難」の意味にとることがあるが、建設的な側面も含むのが本来の用法である)。したがって「純粋理性批判」は、「純粋理性の吟味」などと読みかえてもさしあたりはさしつかえはない。

 では「純粋理性」とは何かであるが、ここでの「純粋」とは、簡単に言えば「経験から独立している」という意味である。したがって「純粋理性」は、「経験から離れたところで働く理性」ということになる(すぐに意味がわからなくてもかまわない)。いずれにしてもカントが本書で試みるのは、その意味での理性能力を描き出すこと、そして、われわれが根本的に何を知りえて何を知りえないのかを見極めることである。ちなみにこれは理性が理性を批判するのであるから、「理性の自己認識」ということにもなる。

 

 次に、要点の一つを大まかにイメージする意味で、しばしば「コペルニクス的転回」と形容される特徴的な発想を紹介しておこう。コペルニクス的転回とは、コペルニクスが地動説を唱えて世界観を一変させたことにちなんで「見方が180度変わる」ことを指すが、つまりカントは本書で、哲学史上における何かについての認識をひっくり返したということになる。具体的な部分を引用してみよう。

 

 「我々はこれまで、我々の認識はすべて対象に従って規定されねばならぬと考えていた。しかし......こうして我々の認識を拡張しようとする試みは、かかる前提のもとではすべて潰え去ったのである。そこで今度は、対象が我々の認識に従って規定せられねばならないというふうに想定したら、形而上学のいろいろな課題がもっとうまく解決されはしないかどうかを、ひとつ試してみたらどうだろう」(上 p.33)

 

 序文だからこうした言い方になっているが、断定的に言えば「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」となる。カントは本書でまずこのことを示すのである。「認識が対象に従う」とは、対象があってそれを認識する、つまり対象のあり方がわれわれの認識を規定するということだから、言わば「常識的な」考え方だろう。しかしカントは、それでは話が逆だと言うのである。つまり、対象はむしろ「われわれが認識する通りに現れる」。こうした視点に至るということは頭の片隅においておこう。

 ちなみに、「コペルニクス的転回」という言葉自体はカントによるのものではなく、本人は、コペルニクスが「天体が観察者の周りをまわっている」という考えでは運行法則を説明できなかったから「観察者が天体の周りをまわっている」に切り替えた、その発想とここでの発想がまったく同じなのだと述べている。したがって、本来はこれは業績の評価というよりも本人の発想法の話である。たいした問題じゃないが。

 

 ともかくカントは、われわれが物事を認識する、その「認識の仕方」にまず注目する。われわれは物事をどのように「認識する」のだろうか(ちなみに、ここで「われわれ」は「人間」の意味だが、この言葉は必須である。例えば犬には犬の認識作法があるかもしれないという具合に、人間がしている以外の認識の仕方もありえる一方で、ここで問題にしているのは人間の認識の仕方だけだからである。言いかえれば、少なくとも人間一般に共通の、人間であればそれしかとれないような認識の仕方を問題とする)。

 先にみておくと、カントによれば、人間の認識には二つの根幹がある。どちらも日本語では一般的な言葉ではないが、「感性」と「悟性」である(元のドイツ語では"Sinnlichkeit"と"Verstand"、英訳では"sensibility"と"understanding"である)。説明はいろいろ可能だが、「感性」は対象から直接的に表象を受け取る受動的な能力であり、「悟性」は論証的であって概念を適用する能動的な能力である。カントによれば、したがってこの二つは片方だけでは無意味であり、両方が働いて初めて「認識」が成立する。

 つまり、「感性」が対象から受け取った表象に「悟性」の働きが加わることで「認識」が一丁上がりとなるわけであるが、逆に言えばこれは、われわれは感性と悟性によってしか物事を認識することができないということであるから、感性や悟性が働く前にそれ自体としてあるところの物、すなわち「物自体」(Ding an sich / thing in itself)は、われわれには知りえないということになる。その意味で、われわれに関係があるのはこうして認識される「現象の世界」だけである。これについても何となくイメージしておこう。

 ともあれ、こうしてカントはまず「感性」と「悟性」の存在にこだわることになるが、もっとも、認識の構造を説明するにあたって、それがこうした二つの要素から成り立っていると言うためには、当然ながら何らかの根拠がなければならないだろう。そこで重要なのが、何よりもこれらが「アプリオリな形式を持っている」という点となる。つまりカントによれば、われわれの認識には、経験によって獲得したのではない形式がある、ということである(詳しくはあとでみる)。

 

 続いてもう一つだけ予備知識としてみておくと、本書の問題意識を理解する上でも欠かせない二つの区別というものがある。一つは先ほど出てきた「アプリオリ」と、それに対応する「アポステリオリ」の区別、もう一つは、それとも関連が深い「分析的判断」と「総合的判断」の区別である。これらは本書に限らず哲学書を読む上では基本的な概念であり、カントに独自のものというわけではない。しかし、カントはこれらの概念間の関係をあらためて整理することで、きわめて重要な指摘を行ったのである。

 まず「アプリオリ/アポステリオリ」は、一般的には「先天的/後天的」「先験的/後験的」等々と訳され、経験から独立しているか否かの区別である、と説明されるものである。ここでは訳語は使わずそのまま「アプリオリ/アポステリオリ」としておくが、ここで「経験によるか」とは、その妥当性を示すために何らかの経験的な知識を参照する必要があるか、という意味である。もっとも、これについては次第に体感的にわかると思われるので、今はひとまず言葉の上でのニュアンスをおさえておこう。

 次に「分析的判断/総合的判断」だが、まず「分析的判断」とは、一言でいえば、言葉の定義や論理の法則によって答えが決まっているような判断のことである。例えば、「独身男性は男である」ということは、実際に「独身男性」を探してきてそれが「男」であるかどうかを確認しなくともわかる。なぜなら、「男」は「独身男性」を分析すれば出てくる概念だからである。つまりここでは「述語が主語に含まれている」のだが、したがって「経験の助けを借りる必要がない」。こうした判断が「分析的判断」である。また、すなわちこれは「アプリオリな判断」と言いかえることもできる。

 一方、「総合的判断」とは分析的判断ではない判断であり、分析的判断が説明的であるのに対して、こちらは「拡張的」なものである。例えば「安倍晋三は優れた総理である」を考えてみると、これは先ほどと同じく「AはBである」という形をしているが、しかし「安倍晋三」をいくら分析しても「優れた総理」であるかはわからない。優れた総理であることは、安倍晋三の本質ではないからである。つまりここでは述語が主語に含まれないわけだが、したがって優れた総理であるかどうかは、実際に本人の言動や情勢をみて判断する、すなわち経験的知識を動員する必要があるのであり、こうしたものが「総合的な判断」となる。

 さて、こうしてみれば二つの区別には対応関係がありそうである。つまり、分析的判断はアプリオリなもの、総合的判断はアポステリオリなもの、というわけであるが、実際、カント以前ではそう考えられていた。しかし、カントはここで思考を止めなかったのである。分析的判断はすべてアプリオリなもの、これはその通りだが、総合的判断については、確かに経験に基づく場合が多いとは言え、いつもそうだとは限らないのではないか。言いかえれば、アポステリオリな判断がすべて総合的判断だからといって、総合的判断のすべてがアポステリオリな判断だとは言えないのではないか。

 実際、カントによれば「アプリオリな総合的判断」というものが確かにあるのである。ここに目をつけたのがカントのすごいところだが、カントによれば、ある種の数学的判断などがそれであるという。なぜなら、例えば「5+7=12」の「5+7」に「12」それ自体は含まれていないからである(よくわからなければ別にかまわない)。あるいは、これはあとで詳しくみるが、実は「因果関係」の観念などもそうであるという。つまりカントによれば、「すべての物事には原因がある」ということを、われわれは経験的に知ったのではない。それは言わば「はじめから知っている」。

 ともあれ、こうしてみればそもそも「アプリオリな総合的判断がありうるのはなぜか」という問いを立てることができるが、実はこれが本書のメインテーマの一つとなるものである。そうしたものがすでにある以上、あるかどうかを問う必要はない。問題は、いかにしてありえているのか、ということである。そこでまず認識能力が詳細に検討されるが、順序としては、それから理性の批判へと進むことになる。以下、カントの議論をかいつまんでみてみることにしよう。

 

 さて、すでに少しみておいたが、カントによれば認識の根幹は「感性」と「悟性」であり、これらにはそれぞれ「アプリオリな形式」があるのであった(覚える必要はないが、それぞれ「純粋直観」と「純粋悟性概念」と呼ぶ)。ではそれらを具体的にみていくが、まず「感性」である。感性の働きは対象に触発されて表象を受け取ることだが、結論から言えば、感性におけるアプリオリな形式は「空間」と「時間」となる。実際、「すべての物事はある時ある場所にある」ということは、あまりにも当然のことだろう。しかし、それはなぜか、というのがここでのポイントとなる。

 「空間」からみると、まずカントによれば、空間が存在しないと考えることは「絶対に不可能である」。例えば物事をすべて取り去るにしても、「空間」がないのであればどうやって「取り去る」のか、ということになるからである。あるいは、例えば目の前にあるディスプレイに意識を向けてみてほしいが、それは当然、あなたがいるのではない場所にある。しかし、ここで「別の場所」としてみるためには、やはり「空間」が先になければならない。つまり「空間」は、われわれの認識そのものの形式なのである。実際、もし経験的に「空間」というものを知るなら、それ以前にはいったい何がどうなっているのか、ということになる。

 次に「時間」だが、これについてもカントは「空間」とほとんど同じように説明している。つまり、ある物事が同時に存在するか、別々の時に存在するか等々が「わかる」ためには、先に「時間」という認識の形式が与えられていなければならない。というより、現にわれわれはあらゆる物事の前後関係を判定しないではいられないのであるが、それが可能となるためには、どうしても「時間」にあたるものがなければならないのである。そもそも、もし「時間」が根底になければいかなる変化も認識できないということになるが、そんな状況は、一言でいえば意味不明である。

 ともかく、したがって「空間」と「時間」は感性における「アプリオリな形式」ということになる。言いかえれば、それはむしろ経験の「条件」なのである。それらこそが経験を成り立たせる一つの不可欠な要因なのであり、あとでもう少し詳しくみるが、あらゆる物事がそれに規定されているようにみえるのは、要するにわれわれの方がそのような見方しかできないからなのである。

 

 さて、感性のアプリオリな形式については空間と時間で終わりである。次に「悟性」だが、すでにみたように、最も単純に言えば悟性の仕事は、感性が受け取った表象に「概念を適用すること」である。例えば与えられた表象に「コップ」という概念を適用する。ここで、適用するということは概念は「われわれの側から与えられる」のであるから、その意味で悟性は感性とは違って「能動的」なものとなる。「コップ」はもちろんアポステリオリな概念だが(コップの概念を知らない人もいる)、カントが言いたいのはもちろん、概念のなかにはアプリオリなものもある、ということである。

 この例のまま進むと、まず重要なのは、ある表象に対して「コップ」という概念を適用するとはどういうことか、である。ここで言う「コップ」とはまさに「概念」なのであって、「コップ一般」である。何らかの「特定のコップ」ではない。ということはつまり、実はある表象に「コップ」という概念を適用する、すなわちコップとしてみるとは、それを他のありとあらゆる「可能的コップ」の認識と結びつけるということなのである。こうして「認識を総合する」のが悟性の働きだが、別の言い方をすれば「表象を表象する」のであり、それが「表象に概念を適用する」ということの意味である。

 もっとも、悟性にはもう一つの重要な働きがある。それは、一方で概念と概念を結び付けることである。例えば「コップは物体である」とは、「コップ」が「物体」という概念に包摂される(含まれる)ということだが、こうして概念間の関係を表現するのも悟性の働きである(もっともこれは本質的には同じ働きである。先ほど表象を表象の表象のもとに置いたように、ここでは表象の表象をより高次の表象のもとに置いているということだからである)。これが本書において「判断」(Urteil / judgement)と呼ばれているものだが、したがって悟性は「判断能力」とみなすこともできる。

 要するに悟性は様々な側面から説明できるのだが、ともあれ最も根本的な部分を一言で言えば、悟性の働きとはつまり、感性からきたものか悟性自身からきたものかを問わず、様々なものを「より高いところから見渡して一つのものにする」ということになる。そこで本題だが、悟性がこうして「判断」を行うのであれば、そこには様式があるはずだろう。例えば「コップは物体である」と言うには、「コップ」と「物体」という概念だけではなく、「AはBである」という判断様式が必要である。それはどこから来るのか。

 結論から言えば、これこそが悟性におけるアプリオリな形式、すなわちカントが「カテゴリー」(=純粋悟性概念)と呼ぶものがあらねばならない理由である。こうした種々の判断様式は、この「カテゴリー」に基づいているからこそ、誰もが常に当然のように行使しているということになる。もっとも、そもそも悟性は概念を扱うのであるから、もし概念がすべて経験によって与えられるのであれば、空間や時間がない場合と同じく、どのみち認識そのものが不可能になるだろう。その意味でもカテゴリーは根本的なものなのである。

 そこでカントはまず、十二の判断様式を列挙してから対応する十二のカテゴリーを挙げている。たいていは後者だけが紹介されるのだが、わかりやすくなると思うので前者も少しみておくと、例えば「全称的判断:すべてのAはBである」「仮言的判断:AがBならばCはDである」「蓋然的判断:AはBでありえる」といったものが判断様式である。こうした判断の前提となる概念がアプリオリなものとしてあるというわけだが、したがって判断様式とカテゴリーの数は、どちらも十二でまったく対応することになる。

 ではカテゴリーをすべてみておくと、四つの項目に分けられているが、まず「分量」に関する「単一性・数多性・総体性」があり、次に「性質」についての「実在性・否定性・制限性」、さらに「関係」についての「付属性と自存性・原因性と依存性・相互性」があって、最後に「様態」に関する「可能─不可能・現実的存在─非存在・必然性─偶然性」がある(この記事を読む上では目を通すだけでかまわない)。これらが悟性における「アプリオリな形式」であるが、感性における空間と時間と同じく、これらを用いてこそ認識は可能となるということである。

 

 さて、これで感性と悟性のアプリオリな形式がすべて揃ったことになるが、ここで重要なのは、これらはあくまでも「われわれの側にある」のであって、「物自体」の世界に属するのではないということである。例えば「コップはある時ある場所にある」というのは、間違っても「コップ」というものが先にあって、しかもそれ自体が空間と時間のうちにあるということではない。そうではなく、われわれにとって常にコップがある時ある場所にあるのは、われわれが空間と時間という形式、そして概念をあてはめてそれをみるからであり、というより、あてはめないでは何もみられないからなのである。その意味で、あらゆる物事は不可避的に「われわれ仕様」となる。

 もちろん、すべての物事がアプリオリな形式に則っているからといって、それは物自体の世界で常にそうだからとも考えられるのではないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、もしわれわれが例えば「空間」を経験的に知るのであれば、それは「このコップは赤い」と同じように偶然的なもの、つまり単なる経験的な一事実ということになり、他の場合にも常にそうであるという「必然性」は担保できないのである。実際は、物事がある場所にあるというのはわれわれにとっては一般的なことなのであるから、整合性をとるためには、われわれの側に属するとみるしかないということである。

 もっとも、これも誤解されがちなところだが、一方でカントは、こうした形式が人間の心に最初から絶対的にある、と言いたいわけではない。アプリオリ、つまりあらゆる経験に先立つとは、あくまでもその妥当性を経験的な知識によって示す必要がないということである。つまり、そうした形式が実際に現れるにはやはり何かを経験することが必要となる。言いかえれば、経験してはじめてそれがあることがわかるが、それ自体は経験から得たものではない、ということである(本人の言葉では「先験的に観念的であると同時に経験的に実在的である」。ちなみにこの「先験的」は"transzendental" / "transcendental"で、他訳では「超越論的」とされることが多い)。

 

 さて、ここまでで「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」についての説明は終わりである。続いて「アプリオリな総合的判断がありうるのはなぜか」についても簡単にみておくと、例えば「全体はその部分よりも大きい」を考えるとわかりやすいが、それはアプリオリな形式である「空間」そのものの性質なのであって、だからわれわれはそれを認めないわけにはいかない、ということである。最初に挙げた「5+7=12」にしても、あるいは「二点間の最短距離は直線である」等々にしても、それは専ら空間と時間に関する話であって、だから経験的知識によらずに「わかる」ということになる。

 あるいは「カテゴリー」についても同じである。例えば「原因性」つまり「すべての物事には原因がある」ということは、アプリオリな形式の一つだからこそ、われわれは無条件にその妥当性を認めているということである。そもそも、すべての物事には原因があるということを先に知っているのでなければ、つまり「原因」と「結果」というものがあるという前提で物事をみなければ、原因も結果も「みえない」。その意味で、経験からそれを知ることはできないし、また、われわれがみるまではそこに因果関係などというものはないのである。あくまでもそれは認識の形式だということである。

 ちなみに、これは「ある種の数学はなぜ可能か」に対する答えでもあるが、同様に、実は「自然科学はなぜ可能か」に対する答えにもなる。もちろん、当時の科学者は時間や空間やカテゴリーを「物自体」に属するものとみていたという意味ではカントの考え方は自然科学とは対立するのだが、しかしこれがおもしろいところで、われわれにみえるものがすべてわれわれ仕様になっているのだとしたら、あらゆる現象の総体という意味での「自然」は、まさにわれわれの認識の形式通りに秩序立っていることになり、したがってまったく法則的である、ということになるのである。カントによってはあらゆるものが同じコインの表と裏になってしまうわけである。

 

 では、そろそろ「われわれは何を知りえて何を知りえないのか」に進もう。言いかえれば「理性の限界」についてだが、まずかけ足で「理性」(Vernunft / reason)を導入する。カントによれば、すべての「認識」は感性から悟性に進んで理性に終わるのであり、その意味では理性は最上位の認識能力である。そしてその働きは、第一に「推理」、第二にそれ自体で「概念を産出する」ということになる。もっとも、ここまでにみたところでは感性と悟性で認識が成り立つのであり、理性は何をするのかという話である。これについては、われわれの認識は誤ることがある、ということを考えればわかりやすいだろう。

 例えば、寝ているときに「夢をみる」という場合である。あなたは『純粋理性批判』の原書を読んでいるという夢をみるが、その記憶はあまりにも鮮明であり、目覚めてからも実際に読んでいたと思い込んでいるとする。もちろん次第に「夢であった」と気付くわけだが、そこでなぜ気づくかと言えば、「この部屋には『純粋理性批判』の原書はない」とか、「自分は十八世紀のドイツ語は読めない」とか、別の「判断」を参照することによってである。つまり種々の判断を整合的に組み上げているわけだが、これがまさに「理性」の働きとなる。

 要するに理性は、悟性が一つにまとめたところのものを、さらに高いところで一つにまとめるのである。悟性による判断だけでは経験は言わばバラバラであるから、理性が統一を求めてこそ体系的な認識もできるということになる。もっとも本題はここからで、こうして理性がある意味で認識を「完成」させようとするところから、おもしろい事態が生じることになる。先にこれに関連するカントのとりわけ有名な言葉を引用しておこう(これは本書第一版序文の最初、つまり本を開いて最初にある文章である)。

 

 「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せられているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである」(上 p.13)

 

 つまり、理性は自分の仕事を淡々と行う結果、必然的に手におえないものを抱え込んでしまうのである。それは本質的なことであり、カントによれば、理性が理性である以上、その状態から逃れることは絶対にできないということである。逆に言えば、理性の働きを素直に追うことでそのまま「理性の限界」がみえてくるということでもあるが、ともかくここが本書で最もおもしろい部分の一つとなる。結論から言えば、理性は放っておくと「魂」や「神」といったものを見出してしまうのである。

 

 順番に説明するが、理性が統一を志向するとは、要するに条件の条件、そのまた条件を求めるということであり、その結果、必然的に「根本的なもの」に行きつくということである。例えば「私」の問題についてみてみると、私が「ここにコップがある」と言えば、それは「ここにコップがあると私は考える」ということであり、同様に「この記事は長い」と言えば「この記事は長いと私は考える」ということであるが、つまり常に「と私は考える」を付け加えることができる。ところで、ここでそれぞれの「私」は同じ「私」ではないとまずいだろう。さもなければ認識の統一など不可能だからである。

 したがって、すべての大前提としての「確固たる私」の存在を理性は例えば考えるわけだが、こうして「行きつくところまで行きつく」ということである。これで言えば、「私の存在は確固たるものである」という根本的な「条件」を見出すということだが、それを例えば「魂」と呼ぶわけである。理性は整合性を求めないではいられないのであり、さかのぼっては絶対的なものを探そうとするが、その結果、わけのわからないものを拵えてしまうのである。こうして理性が産みだす概念を本書では「理念」("Idee" / "idea")と呼ぶが、その意味で理性は、理念をつくると同時に理念に困るということになる。

 あるいは、こうした事態が生じる理由は、ここまでの話をふまえると一言で説明することもできる。つまりそれは、理性の本性が、経験世界一般に妥当するものとしてある「カテゴリー」を経験世界を超えたところにまで拡げてしまった結果だということになるからである。例えば「魂」なるものは先にみた十二のカテゴリーのうち「実在性」を、あるいは「神」の場合は「相互性」を、それぞれ想定外の範囲にまで適用してしまった結果だということになる。あるいは先にも出てきた「原因性」の場合は、原因の原因、そのまた原因とさかのぼって「世界の始まり」を見出したりするわけである。

 もっとも問題は、そうして「理念」が見出されたからといって、それらの存在が認められるわけではないということである。「魂」にしても「神」にしても、経験世界に根拠がない以上、他の概念とは区別されるべきであり、それはどこまでいっても理性が勝手につくり出した「幻想」である。「魂」は、「コップ」のような概念と違って、経験世界には現れない。つまり、その意味では存在しないのだが、しかし一方で理性は本性上、それが存在することを「求める」。こうして理性はまさに「悩まされる」のである。このことを別の方法で描写したのが、有名な「アンチノミー」である。

 少しだけ紹介しておくと、二つの命題、例えば「世界には空間的時間的始まりがあり、したがって限界がある」と、「世界は空間的にも時間的にも無限である」がセットで与えられるのだが、これらは、互いに矛盾していながらどちらも論理的には可能であり、しかしどちらも現象の世界における事実としては示せないがゆえに、妥当性が等しい、つまりどちらを捨ててどちらをとることもできない。こうした理性の状況が「アンチノミー」であるが、カントは四つのアンチノミーにおける両方の命題を並べて証明しており、こうしてまさに「理性の限界」が描かれるわけである。ここまでがひとまず、「われわれは何を知りえて何を知りえないのか」の答えとなる。

 

 ではそろそろ終わりにするが、最後に、本書を語る上でこれだけははずせない「自由」の問題についてもみておこう。簡単に言えば、本書の立場に基づくと「自由」はどうなってしまうのかということである。まず、「すべての物事には原因がある」ということは、われわれには言わば自明なことなのであり、われわれがみる現象世界においては常に妥当するのであった。しかし、それなら「私」のありとあらゆる経験についても確固たる「原因」があることになるだろう。つまり、私が自分の意志でしているように思えることも、すべては先行する出来事に規定されていることになる。これでは「自由意志」などないことになってしまうのではないか。

 結論から言えば、「自由意志はありうる」というのがカントの回答である。「ない」と思うのは、要するに「私の行為」、もっと言えば「私の存在」について誤解しているからなのである。このことは先ほどの「魂」の存在についての論理でも同じなのだが、わかりやすいのは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」である。これは、絶対確実な知識を求める上で、まずそのことを考えている自分がいるということは疑いえないのであるから、そのことを最初の確実な知識として一歩ずつ拡げていこう、という発想であるが(詳しくは『方法序説』など)、ともかくデカルトによれば、「われ思う」から「われ」がある。

 しかしカントによれば、実はここでは二つの「私」が混同されているのである。なぜなら、すでにみたようにわれわれが「認識する」とは、あくまでもアプリオリな形式にしたがってするということだからである。それ以外はありえないのであり、「認識」されるものはすべて、われわれの認識の形式に基づいている。それなら、「私」の場合も同じなのである。つまり、認識される限りでの「私」とは、あくまでもアプリオリな形式に基づいて認識されるところの「現象」としての「私」なのであって、それは「私自身」ではありえない。言いかえれば、ここでは「私自身」は「意識」されているだけであって、「認識」されてなどいないのである。

 つまり、客体としての「私」と主体としての「私」は、明確に区別されるべきだということである。現象としての「私」は、その現象をまさに可能なものとしている「私」とは異なる。客体としての「私」は、主体としての「私」のアプリオリな形式にもとづいて認識されるところの、あくまでも認識されるものなのであって、認識するものではないのである。したがって、この論理で「われあり」と「われ」が言うことは原理的に不可能だということになる。これもコペルニクス的転回の一側面だが、ここには根本的な考え方の違いがあることがわかるだろう。

 ともかく、こうしてみれば「自由意志」の問題については、現象としての「私」は確かに、それが現象の世界に属する以上は原因と結果の法則に従わねばならないが、しかし主体としての「私」については、それが現象の世界に属するものではない以上、自由であるかどうかは「わからない」ということになる。それは、われわれの知る能力の限界を超えているのである。したがって私が自由であることは、ただ「ありうる」ということになるが、実はこれが、「第二批判書」と呼ばれる次の『実践理性批判』にそのままつながる部分となる。ということで、「批判哲学」と呼ばれるカントの哲学の紹介としてはまだ半分にも満たないが、ひとまず終わりである。

 

 あとがきとして、この記事では、言うまでもないが「ここがおかしい」というのはいっさい書いていない。哲学史はカント以前と以後に分けられるほどであるから、批判はあまりにもたくさんある。しかし、この記事はあくまでも本書を実際に読む踏み台としていただくための些細な解説である。したがって、興味を持った方はまず何よりも『純粋理性批判』を読んでみてほしい。また、この記事ではあくまでもエッセンスを描くことに注力したため、とりあげた範囲内でも説明の上でいくつかの概念を省いたり言葉を置きかえたりしているから、実際に読む上では、あらゆる知識による先入観を脇に置きつつ、本人の言葉の定義と論理展開を追ってほしい(どんな本でもそうなのであるが)。十八世紀の哲学者と対話するというのは、何度くり返してもおもしろいものである。

 

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

 
純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

 
純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

 

 『純粋理性批判』は、ここで参照した岩波文庫版では上中下の三分冊である。単純計算すると1200ページほどあるが、上巻に少しの解説、下巻に100ページほどの付録と200ページ弱の索引があるため、それらを除いたものが本文である。ここで付録とは、原書は第一版(1781)が大きく誤解されたことを受けて本質的な内容を変えずに表現を変えた第二版(1787)が出たため、第二版を底本とする本書では大幅な変更箇所について第一版の該当部分も訳出されているというものである。したがって、結局のところ一般読者がとりあえず通読するためには900ページ弱を読めばよいということになる。

 ただし、上の篠田訳は1961年と古いこともあって、他訳と比べると現在はあまり人気がない(学術志向の人には今でも手軽で便利であるが)。本書の邦訳は特にたくさん出ているが、現行のものでは、光文社古典新訳文庫の中山訳が大人気である(これはKindle版もある)。全7巻もあるが、シリーズ方針による平易な日本語への訳に加えて、解説の豊富さで有名。作品社の熊野訳はハードカバー函入り全1巻、大きく重いので取り扱いの面では不便だが、装丁の古典感、哲学書感はピカイチである。本文だけの収録なのもすっきりしている。筑摩書房の石川訳はこの中では最新のもので、ハードカバー上下、長年の研究に基づく決定版。ちくま新書のロングセラー『カント入門』の著者である。平凡社ライブラリーの原訳は上中下、過去の名訳に手を加えた再刊版。同レーベルは一般的な文庫サイズより大きいが、さらに同じ三巻でも篠田訳よりかなり分厚いため、そのあたりも好みが分かれるところである。

 訳文については、挙げた中ではおすすめできないものはない。翻訳の良し悪しというのはショパンのノクターンはどのピアニストが一番か、みたいなもので、書店に並んでいるものは技術面での最低限のクオリティはふつう担保されているから、あとは訳者の方針や文体の違い(奏者の解釈や音色の違い)であり、まったく好みの問題である。どれを読むべきか悩むくらいなら、まずどれかを読んでみるが吉だろう。訳者や出版社の特徴を知っている人はそれで選ぶのもいいし、装丁やフォント、価格、物理的な扱いやすさ、あるいはランダムでもいいだろう。目的は読むことであるということ、そして、訳書は訳書であるということを忘れないことである。

 なお、先に挙げたように本書に続く著作として『実践理性批判』があるが、さらに後続する『判断力批判』との三冊セットがカントの主著となる。『純粋』はすべての根本となるものだが、『実践』は先行する『道徳形而上学原論』とともに道徳や自由の問題を扱っており、これらは対になるものとして特に関係が深い。他方『判断力』は両批判書の立場をある意味で総合するものだが、これは美や芸術の問題を扱っているため、文芸界隈でもよく読まれているものである。ちなみに『純粋』には第一版と第二版の間に要約と補足の書である『プロレゴメナ』という副読本がある。その他のカントの著作では、打って変わってエッセイのような『啓蒙とは何か』や『永遠平和のために』なども容易に手に入るが、これらは様々な意味で最も読みやすい。前者は「あえて賢くあれ」が有名。後者は政治学でしばしば引用される。カントは常に理性的に情熱的であるが、興味を持った方はどれからでも読んでみることをおすすめする。


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