フリー哲学者ネコナガのブログ

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いはんや「読書の秋」においてをや

今週のお題「読書の秋」

 

 はてなブログの今週のお題が「読書の秋」ということであるが、これをみて思ったことから自由に書いてみることにする。ちなみに昨年はきちんとお題の目論見通りに書いた(『地球進化 46億年の物語』ロバート・ヘイゼン─「秋の夜長に楽しみたい本」)。

 

 「読書の秋」とは、簡単にいえば「人が本の世界にのめりこみやすい(集中しやすい)時期がある」という考えを、「どうせなら最もいい時期にやろう」という発想にあてはめた場合に出てくる言葉の一つである。確かに本は集中して読んだ方がいいであろうし、現代日本で相対的に寒くも暑くもなく湿気もないのを「過ごしやすい=集中しやすい」と定義するなら、それは確かに秋である。

 もっとも、現在はと言えば、天気予報をみると西日本はまだかろうじて日中は暖かい方だが、それでも沖縄を除けば朝晩は冷えるようで、全国的に言って実感としてはもう「寒い」であろう。したがって、過ごしやすくしかもそれが読書に充てられる時間である場合がどれほどあるかはもはや微妙である。その点でお題はちょっと出遅れたと言えるだろう(昨年は10月の最初にこのお題が出ている)。

 

 もちろん、一般的には11月は「秋」であるし、「秋」という語から「読書の秋」をはじめ様々な言葉を連想するのは当然だろう。これらはことわざや言い伝えと同じく、次第に覚えやすく言いやすいように落ち着いた、根拠を知らなくてもとりあえず従っておけば大きくは間違えないという類のものである(現代では単にマーケティングである場合も多いから、何であれ根拠を自分でよく考えた方がいいのは間違いないが)。

 しかし、問題は今回の「読書の秋」のように言葉が独り歩きした場合である。もはやそこで言う「秋」ではないにもかかわらず、秋は秋だからと「読書の秋」と言う。これは考え直した方がいいだろう。多少なり実用的な理由で広まった言葉なら、条件が違えばまったくのナンセンスとなるからである。こうした事態が生じるのはもちろん、定義上「秋」としている時期と、言葉としての「秋」にまつわるイメージ、あるいは実際に感じる季節感や日常風景の変化等々の、それぞれの間のずれが決して小さくはないからである。

 

 そもそも、忘れがちだが「四季」というのは一つの考え方、一つの分類方法であって、自然界に四季があるわけではない。どこまで行っても人間の世界での決め事であるから、これは地域や時代によって異なりうるものであり、日本でも十世紀ごろより前は正月と盆を境目とする「二季」であったとされる。ともかく本質はないから、何季でも便利なようにすればよいということである。

 実際、現代日本で使われることのある季節の分け方だけでもいろいろあり、例えば二十四節気では先週「立冬」が終わっているから、これによれば今はすでに「冬」である。あるいは9月から11月を「秋」とする簡便な分け方が「気象学的季節」、秋分から冬至を「秋」とするのが「天文学的季節」であるそうだが、いずれにしても目的に応じて便利な分類法を採用しているだけである。その意味では「読書の秋」のような季節名への言及というのは、どの定義によるものかを時には考えねばならないから、手軽なようで難しいところがある。今回の場合はむしろ「過ごしやすいから集中しやすい」が理由なら読書でなくてもなんでもいいではないか、という問題もあるが。

 

 ちなみに、実態と決め事とのずれをあえて気にしない極め付きは俳句でおなじみの「季語」である。これは歴史的に増減してもいるが、『古今和歌集』の時代に始まる流れを汲んで、ゲームのルールだからこそ保持されているものがある。俳句は直接には「俳諧」の発句が独立したものだが、発句はその場での「あいさつ」的性質を持つために、季語を入れるというか季語が入ることになり、俳句はそこから季語の伝統を継いだわけである。今でもあいさつは基本的に季節の移り変わりに言及するが、そう思えば本当の意味での日常的なあいさつなどこそ、常にリアルタイムでアップデートされもするし、実は季節感を最も如実に表すものなのかもしれない。


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