フリー哲学者ネコナガのブログ

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エッセイとは何か、というエッセイ

 「エッセイ」とは、今日では非常に曖昧な概念だが、近代的なそれはモンテーニュの『エセー 』"Essais"(1580年)に端を発するものである。この本は今でもよく読まれているが、最後のところに、竹馬に乗っても結局歩いているのは自分の脚であるし、玉座に登っても座っているのは自分の尻の上である、と書いてある元祖エッセイ集である。

 もっとも、元祖ということはこれを「エッセイ集」とみるのは錯誤のあることで、実際は本書でモンテーニュがとった書き方のスタイルが、現在「エッセイ」と呼ばれるようなものの原型となったということである。フランス語の「essai」は日本語にすると「試み」というほどの言葉だが、これがそのままスタイルや形式を指すようになった。

 あるいは英語の「essay」は、「知識は力なり」で有名な『ノヴム・オルガヌム』のベーコンが、モンテーニュの『エセー』に影響を受けて、つまりそのスタイルを参考にして書いた本にずばり"Essays"(1597年)という名前をつけたのが始まりである(邦訳は『随筆集』)。その意味で英語には元々ジャンル名として入ったと言えるだろう。

 もっとも、ベーコンによれば「エッセイ」は、名称は新しくとも概念自体は古くからあり、例えばセネカにもエッセイ集がある。その意味で少なくともモンテーニュの「エッセイ」とベーコンのそれは早くも違う概念なのだが、そうこうしているうち、様々な側面をそれぞれ受け継いだものすべてがエッセイと呼ばれるようになったのであろう。

 ひいては現代の英語でポピュラーな用法となっているように、日本語で「小論文」と訳されるような一定の短い論述の類を特に「エッセイ」と呼んだり、何となればほとんど短い文章一般を指すようにさえなっているわけである。もっとも、これに違和感を抱いて考えてみれば、逆に本来の「エッセイ」のニュアンスが浮き彫りになると言える。

 

 共通点からみれば、今日的な広義の「エッセイ」は、特定のテーマについて個人的な知識や体験を基に意見を述べる、という意味では、確かに元祖エッセイのテイストを踏襲している。その点に注目するなら何でもエッセイで万歳である。しかしモンテーニュを本家とするなら、やはりそこには決定的な違いがあると言わねばならないだろう。

 というのも、例えば「小論文」で言えば、数あるその書き方の本など読むと、そこでは「論理」が重要視されていたりするからである。もちろんエッセイが論理的であってはいけないわけではないし、小論文ならそうでないとまずいだろう。しかし論理への意識が先行するというのは、本来の感覚からすればずれている感は否めないと言える。

 なぜなら、モンテーニュ的なエッセイの特徴はむしろ、論理がないことにあるからである。それは本人が序文で、この本には私的な目的しかない、あなた方の役に立とうとして書いたのではない、親族や友人が読めばよろしい、と書いていることからもすでに伺える。つまり、誰かに何かを積極的意図的に伝えるような文章ではないのである。

 そうなると「小論文」との違いは明白だろう。そこに「論理」が必要なのはまさに読み手に何かを効率的に伝える必要があるからで、それは目的あってのことだからである。それなら元々のエッセイとは要するに、何かの理由でそこに発表されてはいるが、誰に向けて何のために書かれたのかよくわからない文章、とでも言えるかもしれない。

 

 実際のところモンテーニュがしていたことは、本人の言い分によってさえ諸説あるのだが、例えば、自分自身を「書物」としてそのまま描こうとした、それを通して人間一般の探求を試みたのだという。あるいは、結論を出さずに思考を自由に拡げるためにこのような書き方で書いていたともされるが、いずれにしても、ほとんど書人間である。

 要するにモンテーニュにとってのそれは、まず「書いてしまう」ものだったのだろう。書くことは、現代では他者へのアウトプットの側面が強いが、それは自分に対するアウトプットでもあるし、また書いたものは不可避的に自分自身を表現するものともなる。結果的に『エセー』は、書くことの多義性をそのまま表現するものになっている。

 その意味ではこの本は、ある種の原初的行為としての「書く」の産物なのであり、それなら形式がないのはもちろん、目的が不明確なのも当然だろう。なぜ書いたのかについての説明もおそらく後付けであろうし、モンテーニュ自身、巧みな表現だが、私は誰彼かまわずそこにいる人に語ってしまうように紙に向かって語るのだ、と言っている。

 それならエッセイとは、やはりできあがったものの形式というよりは、書く際のスタイル、姿勢なのであり、あるいは人が何の制約もなく書くとこうなるというところのものなのかもしれない。全体として多量でも一つ一つは短くなりがちなのも、「書いてしまう」一方で、こんな風ではそもそも長く書くことはできないというだけなのだろう。

 

 ところでそう思えば、ブログという発信形態はエッセイという作文作法と非常に親和性が高いと言える。ブログは一応タイトルを決めて短めの文章を自由に書くのであり、記事間の一貫性や記事数の制限もない。あるいはモンテーニュは初版以降も大幅に加筆修正を行っているが、こうした作業も明らかに本よりブログの方が向いているだろう。

 もちろんブログは一つのメディアであって使い方はいろいろであるから、全体的には何らかの目的があって書かれているブログの方が多いかもしれないが、しかしこのブログもそうであるように、単に書いてみている、という類の営為によって成り立っているものであるなら、それはモンテーニュ的なエッセイに近いものかもしれないのである。

 

エセー 6冊セット (岩波文庫)

エセー 6冊セット (岩波文庫)

 

 『エセー』は現在読むなら全訳は主に三種類あり、(1)上掲の岩波文庫版、原二郎訳全6巻か、(2)白水社、宮下志朗訳『エセー』全7巻、あるいは(3)国書刊行会、関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』全1巻(函入り)。決定版の(3)が最新。(2)にはKindle版がある。英訳はM.A.Screech訳のペンギン版が現在のスタンダード。

 

随筆集 (中公クラシックス)

随筆集 (中公クラシックス)

 

 ベーコンの『随筆集』は、現行はこの中公クラシックス版のみ。このシリーズの原シリーズにあたる『世界の名著〈20〉ベーコン (1970年)』(のち『 (中公バックス) 世界の名著〈25〉ベーコン (1979年)』)では、『学問の進歩』や『ニュー・アトランティス』も併収されている。英語原本は『エセー』と同じくペンギン・クラシックス所収。


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