フリー哲学者ネコナガのブログ

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ダーウィン進化論の何がおかしいのか─ゼロからはわからない発展的な進化論

nekonaga.hatenablog.com

 

 この記事は以前に書いた上の記事の続きであるので、少なくともその記事を読んでからお読みいただければ幸いである(記事タイトルの「ゼロからはわからない」は、前提知識なしで読まれることを想定した前回記事の「ゼロからわかる」と対になっている)。あるいは片方だけしか読まないのであれば、この記事ではなく前の記事の方を読むべきである。もちろん、ダーウィン進化論について特に誤解しておらず、一般的な知識をすでに持っている場合はこの記事単独でも読むことができるが、そういう人にはここに書いてあることも既知の事柄である可能性は高いだろう(簡単に言えばこの記事では、自然選択だけでは進化論にならないという発想を紹介している)。

 

 冒頭から長くなるが、こうして断っておくのは、ダーウィンを正当に評価するためである(ネット上には、あまりにも知的誠実性がないために、あるいはひどい金儲けのために、ダーウィンの業績を理解しないままダーウィン進化論をこきおろすような幼稚な記事が氾濫している)。そもそも、ダーウィン進化論が様々な意味で「すごい」一方で、様々な意味で「おかしい」のは、いつでもどこでも大前提である。なぜなら、ダーウィン進化論は科学的理論だからである。

 例えば前回みたところで言えば、支配的な世界観をひっくり返す形で、簡単には説明しがたい現象を説明する論理を見出したという意味で「すごい」。しかしいくらすごいからといって、ダーウィンが提唱したままの形でのダーウィン進化論が今日でも正しいと思っていたら、それはそれで一つの信仰だと見なされるだろう。これは他のことでも同じであるが、理論はある意味で生きているのであり、少なくとも科学者や哲学者は、ダーウィン進化論におかしいところがあるのは百も承知である。

 しかし問題は、一般的レベルでは、ナイーブにおかしいと言い立てている人に限ってダーウィン進化論を根本的に誤解していたり、その後の発展を全く知らないようだということである。だからこそ、何はともあれまずは基本中の基本である本来のダーウィン進化論の論理をこれでもかと広めるべきなのだ。前回の記事のあとこの記事をすぐに書かなかったのも、本来書く予定がなかったのもそのためである(「気が向いたらおかしいところについても書く」と言っていたのは、おかしいところを度外視しているのを強調しただけである)。

 ところがこのたび書くことにしたのは、逆説的なことに、おそらく似たような理由からオーソドックスでベーシックな部分しか解説しない人が多いため、結果的にそれが一般常識レベルでのダーウィン進化論原理主義的な空気を後押ししているのではないかと思ったからである。実際、進化論と言えば「ダーウィン」と「ラマルク」を対比させて(もちろんこれにはものすごい歪曲がある)、ダーウィンが正しい、ゆえにラマルクは間違い、といった教科書的な理解をし続けている人は少なくない。その意味で特にブログのような媒体では、「何がすごいのか」を発信しているからには、「何がおかしいのか」についても積極的に紹介した方がよいのではないかと思ったわけである。

 

 あるいはもう一つ言えば、前回の記事を書いてから約二年の間に驚いたのは、ダーウィン進化論の発想を広めていると、このブログでさえ、キリスト教原理主義者と思しき人から「神をなめるなよ」みたいなメールが時々来ることである。当然だが、ダーウィン進化論のすごさを書いているからと言ってそれが絶対的に正しいと流布しているわけではないし、そもそも「解説」には評価や批判は含まれない。いずれにしてもこのブログでは、神についてもダーウィン進化論についても、非難も信仰表明も、それどころかちょっとした検証さえもしたことがないわけだが、この記事を書くのはそのことを示しておく意味もある。


 さて、ではようやく本題の「ダーウィン進化論の何がおかしいのか」である。前回は当時の時代的文脈の中で「何がすごいのか」を表現するという主旨だったため、断っておいたように、「何がおかしいのか」については直後にみる一点を除いて特に触れなかった(念のために書いておくと、ここで言う「おかしい」とは好みや信仰の問題ではなく、理論の整合性、妥当性という意味である)。したがって今回は、現代的な視点も取り入れつつ、「進化」という現象を説明するものとしての「ダーウィン進化論」の「おかしいところ」をみてみることにする。

 

 最初に確認すると、前回紹介した『種の起源』において全体的な結論として明白に述べられていることは、一言で言えば、「変異があり、それが遺伝するなら、生物は徐々に進化する(自然のキャパシティーには限りがあるから)」ということであった。これが自然選択説の骨子であるわけだが、しかし前回もみたように、こうして表現される最初期のダーウィン進化論には、すでに決定的におかしいところがある。それは、「遺伝」という現象の実態が全く考慮されていないということである。

 これは時代的制約とも言えるが、ご存じのように、遺伝学さきがけのメンデルの論文は当初は評価されずに埋もれており、後の時代に再発見されて広まったという経緯がある。したがって、論文発表当時は生きていたダーウィンも当該論文は読まなかったとされており、ともかくダーウィンは、遺伝についての詳しいメカニズムは知らないままだった(推測は当然しているし、後に仮説を立ててもいるが、現代的な知識とはかなり異なる理解であった)。

 もちろん遺伝という「現象」そのものは、観察レベルではダーウィンの時代にも知られていたし、だからこそ理論に入っているわけだが(これすらもなければダーウィン進化論はそもそも成立しない)、その「メカニズム」については、当時は「両親を足して2で割る」といったような素朴なイメージでとらえられていたのである。ちょっと息抜きにもなるので、どれほど何もわかっていなかったか、ダーウィン自身の言葉をみておこう。

 

 「遺伝を司る法則についてはまったくわかっていない。同種の別個体、あるいは別種の個体間に見られるまったく同じ特徴が遺伝したりしなかったりする理由は誰にもわかっていないのだ。生まれた子の特徴が、親ではなく祖父母やさらに遠い祖先に似る、いわゆる先祖返りがしばしば生じる理由もわかっていない。片方の性に見られた特徴が両方の性に伝わったり、片方の性だけに伝わったり、それもたいていは同じ性に伝わったりする理由もわかっていない」(渡辺政隆訳『種の起源(上)』p.37-8)

 

 まさに何もわかっていなかったわけだ。だからこそ、理論化の契機となった「遺伝には単位がある」という発想が含まれていたメンデルの発見はすごかったし、それを受けて誕生した集団遺伝学の発展により遺伝現象の理解が進んだわけだが、これがひとまず最も早くから補完された「おかしいところ」だと言えるだろう(さらに言えば、もう一つダーウィン進化論に不可欠な要素であった「変異」のメカニズムの解明はさらに後代、遺伝情報がDNA塩基配列上にあることがわかって以降である)。

 ちなみに、遺伝学と結びついたダーウィン主義は「ネオ・ダーウィニズム」と呼ばれているが(特にダーウィニズム+メンデリズム+集団遺伝学を「総合説」と呼んだりもする)、以降の進化論研究は特に「進化のしかた」に力を入れて研究するような形で様々なアイデアを取り入れつつ発展している。だから現代で何の断りもなく「ダーウィン進化論」と言えば基本的には後の知見を踏まえた修正版を指しているが、それらは細かく言えば様々に区別しうるものであることに注意する必要がある(これは、資本主義の変形・修正版が何でも「資本主義」と呼ばれているのに似ている)。

 

 余談だが、したがって、「ダーウィンの考え」を説明する際に遺伝学の概念を使うのは、厳密に言えば誤りとなる。もちろん便宜的レベルでは問題ないが、歴史研究で「縄文時代の日本人」や「江戸時代の宗教」と言うのがまずいのと同じように(どちらも概念が時代錯誤である)、エピステモロジー(科学認識論)や科学史研究などではこれらは問題となるわけである。ついでに言えば、ラマルクの思想を語る際に「獲得形質の遺伝」と言うのも、当時は「形質」という概念も「遺伝」という概念もなかったからやはり厳密には誤りである。

 

 さて、では「進化論」は、こうしてダーウィン進化論を軸に細部の修正を重ねれば万々歳なのだろうか。この記事の主旨からしてもちろんそうではないわけだが、ここまでは前回の範囲とも言えるので、以下が本当の本題である。結論から言えば、実際にはダーウィン進化論だけでは進化論にはならない、ということが少なくとも言えるのだが、これについていくつかの論点に立ち寄りつつ、順番にみてみることにしたい。

 ちなみに強調しておくと、自然選択説についてはダーウィン自身、進化のメカニズムの主要なものではあるが唯一のものではない、と最初からはっきり述べていることを忘れないでおきたい。ここでは触れないが、実際ダーウィンは『人間の由来』で別種のメカニズムである「性淘汰」について論じてもいるし、ともかく、どこかの段階で「これが全てだ」と言ったことはない(その意味でも「ダーウィンVSラマルク」といった素朴な構図が数多の誤解を引き起こすのは無理からぬことである。もちろんラマルクの思想も一言で要約できるようなものではないし、そもそも用不用説や獲得形質の遺伝も、ネオダーウィニズムが斥けているだけで、ダーウィンは認めているのである)。

 

 では、「何がおかしいのか」。基本的なことから言えば、そもそも生物学においてはダーウィン進化論がどれほど説明力の高い理論であるかは絶えず議論されており、理論的整合性という意味でも、現実の現象に対する説明力という意味でも、「おかしいところ」は常に指摘されている。そして、それらを補う理論もすでにいくつもある(例えば「中立説」「遺伝子重複による進化説」「血縁淘汰説」など)。あるいは補完するよりは批判的な性格の強い「断続平衡説」が提唱されたことで起きた論争なども有名だろう(現在は下火になっているが、これについては議論そのものは継続中だと言える)。

 

 もっともここでは、そうしてすでにある程度の立ち位置を得ているものではなく、どちらかと言えば生物学外の視点からの、古くて新しい指摘をみてみることにしたい。そもそも進化論は生物学の専売特許ではないし(分野が違うとは、同じ現象に対して違ったアプローチをとるということである)、一つの議論を理解するという意味では、大きな視点の方が入りやすいからである。したがって上に挙げたような生物学内での個別的具体的な議論に興味のある人は、書店や図書館で気になった本を選んで読んでみることをおすすめする(何ともいい加減な提案に聞こえるかもしれないが、この分野では本当に本が大量にあり、不特定多数に薦める本を選ぶのは難しいのである)。

 

 では、進化論を大きな視点でとらえた時に具体的におかしいところの一つ目である。まず、少々驚かれるかもしれないが、大前提として「進化する時間は十分にあったのか」という問題がある。これは、解決したものとして前回見たはずの「時間感覚」についての議論、つまり「これまでに流れた時間はどれほどのものか」という話が息を吹き返してくるような形になるが、実は、どちらにしても地球の年齢は短すぎるのではないか、ということが後になって言われ始めたのである。

 要するに確率の問題だが、ダーウィンの時代にはこれまでに経過した時間があまりにも短くとらえられていたために何億、何十億年が相対的に長く感じられたとも言えるが、実際に計算してみると、自然選択で例えば人間のような複雑な生物が生じる確率は限りなくゼロに近く、地球の年齢どころか宇宙の年齢をふんだんに使ってもまったくありそうもない、ということなのだ。つまり放っておいてもわれわれはできないということだが、ダーウィン進化論の主張は「複雑な生物であっても、放っておけば誕生する」ということでもあるから、これは一見していいところを突いた批判だろう。

 

 ちなみに、「時間は十分あったのか」という問いは注意深く二つのものを区別する必要がある。一つは「進化するのに十分な」であり、もう一つはそもそも「生命が誕生するのに十分な」である。後者はここでは触れないが、「廃品置き場を竜巻が通るだけでボーイング747ができるくらい」というホイルの有名な言葉があるように、計算上は生命の材料一個レベルでさえできそうもないとされている(ホイル自身が提唱者の一人でもあり、近年では定説になりつつある「パンスペルミア説=生命は地球では誕生しておらず、地球外から飛来した」はこの点を説明可能にするものである。「地球で」という限定を外せば確率はもっと上がるということだ。フレッド・ホイル/チャンドラ・ウィックラマシンジ『生命は宇宙から来た―ダーウィン進化論は、ここが誤りだ』など参照)。

 

 話を戻して、ともかく地球上で、原初的な生命がすでにいたものとして、例えばわれわれ人間が自然選択で生じるのに十分な時間はあったのか。結論から言えば、この問題に答えを出すことはおそらくできない。なぜなら、時間スケールからして局所的にでさえ現象を直接観測することに無理があるのはもちろん、生物進化という現象は複雑すぎるため、モデルをつくるのにも限界があるからである(モデルは単純化するためのものであり、モデル自体を複雑にすると、些細な操作で何でも説明可能になってしまう=何も説明していないに等しくなってしまうのである)。つまりこの問題は、ある意味では水掛け論だと言えるだろう。

 もちろん、時間は十分にあったと考える側からのポピュラーな反論もある。それは、ボーイングのたとえで言えば、別に全パーツが一度に適切な場所にはまる必要はないということである(例えばジョン・メイナード=スミス『生物学のすすめ』)。つまり、完全ランダムで計算するから「ありえない」ほどの確率になるのであり、「少しずつ」その状態になればよいということだ。もちろんそのためには前の状態を継承できる必要があるが、それがDNAがあるということの意味なのだ、というわけである。もっとも、どちらにせよ先ほどの理由により説得力には限界があるわけである。

 

 ちなみにこの問題について、「確率的にありえない」という点に注目して、どれほど小さい確率でもゼロではないのだからありえるのであり、現にありえたからわれわれがいるのである、と言う人もいるが、おわかりのようにこれは話が逆である。ここで問うているのは、自然選択が働いた結果が一定時間の間にどれほどのものになりうるかということであり、自然選択で「われわれは誕生したか」ではなく、「自然選択で」われわれは誕生したか、ということだからである。

 

 さて、もっとも話はここで終わらない。実は、上で挙げた「モデルが複雑になりすぎる」という問題を避けるため、いったん現実の生物を見ることをやめてしまうという方法があるのである。つまり抽象的な生命を扱うことで、純粋に論理だけを検証してみるのだ。こうした視点からグレゴリー・チャイティンが始めた「メタ生物学」という分野があるが、その成果について次にみてみよう(チャイティンは他の業績の方であまりにも有名だが、メタ生物学については特に『ダーウィンを数学で証明する』を参照)。

 

 チャイティンはまず、代謝も自己増殖もしない生命を考えるが、その実体はソフトウェアである。つまり、DNAを「ソフトウェア」ととらえる視点を大前提として、その「自然のソフトウェア」を理解するべく、生物学を大幅に簡略化した人工的ソフトウェアを研究するのだ(生物ではなく生物学を扱うのであり、その点でも従来のコンピューターシミュレーションを使った研究とは根本的に異なるものである)。実際、分子生物学以降のポイントは「生命現象は情報である」ということだから、このレベルで考えてみることは決して的外れではないのである。

 詳細は上掲書をお読みいただきたいが、鍵となるのは「山登りランダムウォーク」である。ランダムウォークとは次の状態が予想できないことだが、これがソフトウェア空間内での変異を表す。ただしここでは、「適応度が常に向上する」という方向性を持たせる必要があるため、完全ランダムではなく「山登り」である。つまり、適応度が向上した場合にだけ前の状態と置き換える(理想的な自然選択である)。ここで適応度の測り方は、完璧には解けないとわかっている数学問題を解くことをタスクとして与えて、どれほどよく近似するかである(つまり、完璧に問題が解ける=進化が止まることを避ける工夫がなされている)。

 するとどうなるかと言えば、当然ながら放っておくほど適応度が上がるわけだが(ダーウィン進化論的な意味で進化するわけだが)、おもしろいことに、その進化の速度を他の場合と比べてみると、このような「累積的な進化=入力を持つ進化、ダーウィン的進化」は、完全ランダムな「しらみつぶしの探索」よりも圧倒的に速く進化するのはもちろん、実は「インテリジェントデザイン=常に最良の経緯を辿って考えうる限り最速で進化」の方にはるかに近いことがわかったのである。

 

 これが意味するところは、余談から入れば、いわゆる「設計者」がいなくても設計者がいるかのように進化することはありうるということだ。したがって「インテリジェントデザイン説」は、「オッカムの剃刀」(同じ現象を説明するなら仮定は少ないほどよい)にかけられることになるだろう。次に、こちらが重要だが、先にみた「地球時間で十分なのか」という問題については、実際の生物学で言う「DNA」という概念があれば確かに、完全ランダムで計算したような「ありえない」ものよりははるかに「ありえる」現象だと理解できるということである。

 もちろん、これは生物学ではなくメタ生物学であり、検証しているのは常に、実際にそうであったかではなく、理論的に可能かどうかである。したがって、即座に現実にあてはめようとするといろいろと間違いを生じやすいと言えるだろう(その意味でも、間違っても本人の本や論文を読まずして何かを言うべきではない)。しかし、実はこれは結論だけでなく方法論に注目すると、生物学に対する示唆に富んだ批判になっているのである。それについて次にみてみよう。

 

 注目すべきは、先ほどみた中での「変異」は「アルゴリズム的変異」だということである。もともと身体という概念がないのだから当然だが、つまりハードではなくソフトウェアに生じた変異により進化するのだ。チャイティンは点変異で試してうまくいかなかったためにこの発想に至ったということだが、その意味では、生物学においては何にも増してDNA塩基レベル(あるいは染色体レベル)での変異が注目されていることに鑑みれば、そこにはやはり何らかの還元主義的なドグマがあるのではないか、という疑いが強まるのである。

 実際、現代では生物学の内部においても物理学の延長に留まるような唯物論的な態度についての反省は少なくないが、ともかく実際の生物においてどの程度高度なレベルにおいてまで変異が起きているのかということは、もっと注目されてもよいと言えるのだ(メタ生物学と生物学が関わるためにはこの点が重要だと指摘しているのは、チャイティンの妻でメタ生物学の共同研究者でもある哲学者ヴィルジニア・チャイティンである)。要するに、われわれが知らないだけで、「変異」はもっと高レベルで起きているかもしれないのである。

 

 そう言われてみれば、つい最近まではDNA塩基配列以外にも情報が保持されていることさえ知られていなかったし(あるいは、さらに少し前まではDNAの97%は無用の長物だと思われていたのだ)、そうした領域を扱う「エピジェネティクス」によれば、後天的に得た情報が書き込まれるだけでなく継承までされるような、現代版「獲得形質の遺伝」と言うべき現象も次々と確認されている。その意味で、情報がどのような形で保持され、書き換えられ、受け継がれているのかということについては、これから爆発的に認識が変わってもおかしくはないのである。

 

 さて一段落ついたところで、ここまでの話では結局、「依然としておかしいところ」はあまり紹介していないではないかということなので、最後に、決定的におかしいところを突いた「ダーウィン進化論は進化を説明していない」という批判のいちバージョンについてみてみることにする。これは、特に哲学的な観点から様々な形、様々な程度で早くから指摘されていたことではあるが、生物学的には定説はなく、今でも基本的な解決がなされていない「おかしいところ」である。

 

 まず一つ問いをみてみると、「ダーウィン進化論が妥当なら、生物が複雑化するのはなぜか」というものがある。これは例えば哲学者のアンリ・ベルクソンが指摘していることだが(『創造的進化』など)、つまり、今でもシーラカンスやオウムガイのように「古代からほとんど姿形を変えていない生物」などが紹介されることがあるが、そもそも、原始的な生命にきわめて近いと考えられる単純な構造の生物さえも、依然として姿形をほとんど変えることなく生きているのはなぜかという指摘である。

 もちろんダーウィン進化論的に言えば、それは周囲の環境にほぼ適応しきってしまったから、ほとんど変わる必要がなかったのだ(突然変異で変わっても、変わらなかった個体の方が選択されたのだ)、ということになるだろう。しかし、これがどこかおかしいのは事実である。なぜなら、そうであるならば、より複雑な生物、つまり圧倒的大多数の生物がわざわざ生じた理由を説明できないからだ。ベルクソン的に言えば、自然法則に抗って躍動するようなその力はどこから生じたのか、である。

 

 こうした考えを進めると、少なくともわかることがある。それは、ダーウィン進化論は「適応」を説明することはできるが、いわゆる「ミッシング・リンク」と呼ばれるようなもの、なぜ一部のサルは木から降りて二足歩行を始めたのか、なぜ一部の魚は陸に上がったのか、なぜ一部の爬虫類は空を飛び始めたのか、といった、まさに「進化」というイメージでとらえられている現象、つまり断絶、跳躍を説明できないということである(これはもちろん、化石がどれほどあるかという問題とは別の話である)。

 というのも、例えば魚が陸に上がったときのことを考えると、魚は水中での生活にもちろん適応しているはずだが、環境に何らかの変化が起こってそれまでの環境にいられなくなったのだとしても、地球から海や川がなくなったわけではないのだから、いきなり何の脈絡もない陸への適応が進むよりは、「これまでの経験を活かして」、同じ水中で似たような環境に落ち着くという方が、「適応」の観点からははるかにありそうだからだ。何しろ魚は、何から何まで水中生活に適応しているのである。

 つまり、たまたま陸に上がってしまった魚が陸生活へ進んだというのは考えづらいのである。陸に上がったその瞬間は陸の方により適応しているはずはないし(ところでダーウィン進化論の隠れた大前提は、小さな変化を徐々に積み重ねるということであった)、逆に、先に陸型(ないし水陸両用)の身体に変化してから陸へ上がったと考えるのも、ダーウィン進化論からすればやはり不可解である。「少しずつ」陸型へ変化する過程で水中にいたなら、そのような「中途半端な魚」は、水中ではより適応度の高い普通の魚にとってかわられるはずだからだ。

 もちろん、生物学はこれについて何の説明もしていないわけではない。例えば「前適応(外適応)」という概念があり、つまり、以前は別の機能を果たしていたもの(もしくは何の機能も果たしていなかったがたまたまあったもの)を「転用」して新たな機能を生じさせるような場合、「素材」を拵える時間はそんなに必要ない、ということである。実際そうした例は数多く報告されており、例えば鳥の羽毛なども、飛ぶためにできたのではなく、体温調節のために元々あった(のをうまく転用した)と考えられている。このように生物進化が様々なレベルでブリコラージュ的であるというのは、化石を見てもDNAを見てもよく指摘されることだ。

 もっとも、よくみてみればこれも説明にはなっていないのである。というのも、これは「過程」を説明するものではあるが、なぜその方向に進むのか、ということについてはやはり何も言っていないからだ。すでに特定の方向に進むと決まっている上でそれをどう行うかという問題ならまだしも、前の環境に近い環境に進めば話が早いものを(修正が少なくて済むものを)、わざわざ困難な方に進むというのはやはり「不自然」だと言えるのである(もちろん全く新しい環境以外になかったという場合は理解可能だが、先述の通り、少なくとも魚が陸に上がる例にはあてはまりそうにない)。


 こうしてみればつまり、いわゆる「進化らしい進化」は、もともとダーウィン進化論では説明しようがないことがわかるだろう(もちろんこの点は多くの生物学者も認めている。問題は理論がないことである)。少なくとも「不自然な」方向へと進むことを促す力があるはずであり、それに合わせて非自然選択的に身体が変わる現象もあるはずであり、したがってそれを説明する理論がありうるはずなのだ。ともかくダーウィン進化論は、環境に適応する方向での進化を「消極的進化」と呼ぶことにすると、このような「積極的進化」と言うべきものについての説明を持ち合わせていないのである。

 

 あるいは、こうした批判はもっと一般化することができる。それは、さらに単純に言って「ダーウィン的進化では、環境が大きく変わった場合に対応できない」というものである。先ほどの例が言わば自力で「環境を変える」ような場合だとすれば、逆に通常の自然界の現象という意味で「環境が変わる」ような場合もやはり同様の事態となるため、ダーウィン進化論では説明できないのである。言い換えれば、変化への対応力と環境への適応度は、ある意味では常にトレードオフなのだ。

 このことは、極端な例として例えば恐竜に起きたと考えられていることをみればわかりやすいだろう。つまり恐竜は特定の環境には適応していたわけだが、隕石の衝突でひとたびその環境が失われると、新たな環境に適応できなかったのだ(ちなみにリチャード・フォーティは『〈生きた化石〉生命40億年史』で、長く生き延びるためには実は生息環境の方が長期にわたって存続する必要があることを「適所生存」という言葉で巧みに表現している)。言い換えれば、「適応」が進むほど短期的には(その環境では)安定するが、長期的には(環境が変われば)絶滅しやすくなる、ということなのである。

 

 こうしてみれば、実はダーウィン進化論が説明しているのは「絶滅しやすい生物のつくりかた」であり、またある意味でダーウィン進化論は「反進化」を説明するものだとさえ言えてしまうだろう(つまり「ダーウィン進化論は進化論ではない」である)。それはどうなのかと言えば、もちろん一理あるのかもしれないが、とは言えそう言い切っている科学者や哲学者はさすがにみたことがないので、ここでは無難な落としどころを紹介しておくことにしよう。それは、結局はダーウィンが言っていたことでもあるが、「自然選択説は必要だが、他にも必要だ」というものである。

 

 もう少し細かくみると、なぜ自然選択説が必要かと言えば、必要というより不可避なのであり、これは一般的な意味での「考え方」であるというよりは、やはり根本的な「自然法則」であるからだ(何はともあれ生存と繁殖のためにはそれなりに環境に適応していなければならない)。それはダーウィンらが「発見」して、(非形式的にではあるが)記述したものであり、先の言葉で言えば「消極的進化」を説明するものだ。したがって、自然選択説が進化論の根幹を担う論理であることは間違いない。

 しかしそれで十分かと言えば、上でみた問題点も含めて、その後の生物学への批判をみればわかるように、現代生物学は自然選択説だけを土台とすることにこだわりすぎて、実際の進化のメカニズムを「こうである」と説明するよりは、理論先行で「こういうものでなければならない」といった形で論じてきた傾向があり、それがありのままの現象を理解する視点を歪めてしまったというのは、一面で事実だと言えるのである(有名なのはいわゆる「適応主義批判」である)。

 したがって、ともかく「積極的進化」を考慮に入れるなら明らかに別の説明原理が必要となるわけであるが、それは言い換えれば、ダーウィン進化論を補完するものではなく、ダーウィン進化論を斥けるものでもなく、二つで一つの「進化論」として成立するような、ダーウィン進化論にある意味で「並ぶ」理論をつくるということである。両者がそれぞれ説明するものは互いに逆向きにはたらく力であり、進化現象は、その絶えざる相互作用の結果であるとして理解できるということだ。そして、こうなるといよいよ灰の中から蘇ってくるのは、「意志による進化」という視点なのである。

 

 「意志による進化」は、もちろんまだ確立された理論があるわけではなく、中身は論者によって様々である。しかし必要最低限と思われることを簡単に言えば、高次元での何らかの情報の書換えが先に起こって、それが身体を(DNA等にまで影響を及ぼす形で)変化させることもありうるという発想である。先ほどの例で言えば、魚は魚なりの「意志」で陸に行きたいと思い、それに合わせて短期間で身体を変化させ、次の世代を待たずにそのまま陸に上がったということだ(これについて「一個体だけ陸に上がっても子孫を残せない」という批判もあるが、最も単純に考えれば、いくらかの個体が先駆者を真似ればよいだろう)。

 もちろんこれは、基本的にはタブーであった考え方である。科学ではこうした主観的な要素は入れてはいけないというのが一時期までは常識であったため(今でも強く残っているところもあり、生物学内でも程度の差はかなりあると思われる)、一度は葬り去られたものである。したがって、こうした指摘を行ってきたのが主として科学者ではなく哲学者だったというのは納得できるところだろう(ところで、ラマルクの本の名前は『動物哲学』であった)。しかし、詳細なメカニズムを解明するのは先の話であるにしても、こうしてみれば「意志による進化」は、今後ますます検証されるべきテーマだと言えるのである。

 

 もちろん、これは外から見ればランダムであるわけだから、現象の存在が認められたとしても理論化するのは簡単ではないだろうし、少なくとも生物学のパラダイムは大幅に変えないと無理だろう。しかし、科学では常に、より確からしい、説明力の高いものへと理論を置き換えてゆくことは可能なのであり、だからこそ、チャイティンが前掲書で生き生きと語っているように、科学にも常に創造性が必要なのだ。その意味で、いずれは「自然選択説」と「意志駆動説」とでも呼ぶべきものを統合した新たな形での「進化論」が提示されることは、決して望めないことではないと言えるだろう。

 

 ということで、現時点ではこの先を語るのはさすがに行き過ぎであるので、このあたりで終わることにしておこう。もちろん「個人的な考え」ならばいつでも誰でもいくらでも語れるが、そんなものを書いても仕方がないので、前回と同じくここでは、すでにある膨大な学問的研究の蓄積の中から一つのストーリーを紡ぐことに注力したつもりである。興味のある人はぜひ、ここで挙げた本にとどまらず関連書や論文を幅広く読んでいろいろと考えてみてほしい。あなたが十代なら、数十年後にはこのトピックでノーベル賞をとることもできるかもしれない。

 

ダーウィンを数学で証明する

ダーウィンを数学で証明する

 

 前回の記事の必読書が『種の起源』なら、今回はこれである。いろんな読み方ができる本だが、学問するよろこびがダイレクトに伝わってくるところがあり、ものを考える人や知的好奇心がある人には特におすすめの一冊である。この記事を書く上でもそうだったが、チャイティンと対話しつつものを考えると、妙にアイデアが浮かんでくる。

 その他、この記事内で挙げた本を登場順にもれなく列挙しておくと以下の通りである(邦訳が複数あるものには「※」をつけておいた)。


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