フリー哲学者ネコナガのブログ

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ロック『統治二論』(市民政府論)を読む─なぜ政治的社会が必要なのか

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 以前、モンテスキュー『法の精神』を簡単に紹介したが、そこで社会思想家についての教科書的説明を見ていると、分量が限られているのは仕方ないにしても、どうも各思想家のアイデアを比較して「差」を見出すことにばかり重きが置かれている印象であった。しかし、これでは本質的なところが何もわからないので、私なりに、もう少し個々の発想それ自体のおもしろさや重要性が感じられる紹介を試みてみることにしたい。続きがあるかわからないが、ひとまず今回はジョン・ロックのこの分野での主著『統治二論』について書いてみることにする。こうした記事を踏み台にして実際に読む人が一人でも増えれば嬉しい。

 

 『統治二論』は、その名の通り「統治」に関する二つの論文である。主に「政治的統治」の根拠、噛み砕いて言えば「国家はなぜあるのか(あらねばならないのか)」を述べたもので、近代社会の基礎となる論理が展開されていることで有名だ。実際にこの思想がアメリカ独立革命やフランス革命を後押ししたことは広く知られているが、もちろん今日の日本国憲法にも明らかにその影がある。今でも世界中で政治学の筆頭古典であり入門書となっているが、とにかく「これ抜きでは始まらない」という類のものだ。

 二つの論文の内容は、簡単に言えば第一論文がすでにある考え方への批判であり、第二論文がロック独自の思想を表しているものである。もっとも、今日的には専門的に学ぶ人以外は第一論文を熱心に読む必然性はないため、第二論文だけ読むということも広く行われている(文献については最後に書く)。したがってここでも第二論文に重きを置くことにしよう。

 

 まず、第一論文に何が書いてあるか簡単に確認しておこう。一言でいえばこれは、ロバート・フィルマーのいわゆる「王権神授説」への批判である。ロックは、フィルマーの著した『パトリアーカ(父権論)』を直接の反駁対象として、徹底的な批判を行っている。この第一論文は第二論文の冒頭でロック自身によって要約されているが、それをさらにまとめると次のようになる。

 

 アダムは、自然権的にも神学的にも統治権を持ってはいなかったし、たとえ持っていたとしても、それは継承されなかったしされえなかったし、さらに、たとえ継承されるのだとしても、われこそが継承者であると主張しえる者はいない(にもかかわらず主張する者がいるのは、おかしなことではなかろうか)。

 

 アダムとは聖書の『創世記』に登場する人類の家長だが(「アダムとイブ」のアダムである)、フィルマーの王権神授説を簡単にまとめると、アダムは自然および人間に対する絶対的な支配権を神から与えられたのであり、さらに、その権利は長子相続によって継承されている、という発想である。ここから「だから王は人々を支配してよい」と主張するわけだが、ロックはこの考え方が最初から最後までおかしいと言っているのである。

 それだけといえばそれだけなのだが、ロックは一か所一か所を検討しつつ丁寧な反駁を行っているため、第一論文の主張はこれほどシンプルでありながら、ヴォリュームとしては第二論文と変わらないほどになっている。それほど徹底的に行う必要があったわけだが、今日的にまとめれば、ロックはフィルマーの主張には徹頭徹尾「根拠がない」ということを示しているとも言えるだろう。

 もちろんその意味では、先に要約したロックの方の主張もきちんと理解するためにはやはり第一論文も読む必要があるが、そうは言っても「神が支配権を与えた」という発想に対して、自然に共感するよりは自然に反対する方が今では圧倒的に多数派だと思われるし(当時はそうではなかったから問題となっていたわけだが)、第一論文から読むと読むのが嫌になる可能性が高いというのもあるので、両方読むにしても第二論文から読むのもいいだろう。ロック自身もどちらを先に書いたのか定かではない。

 

 ともかく、第一論文の主旨は、「なぜ王が人々を統治しているのか」という問題について、すでに行われている説明がいかに荒唐無稽かということに尽きる。そこで、別の説明を与えるべく第二論文が登場するわけである。もっとも、「神が支配権を与えた」という発想を思い切り批判しているからといって、ロックは「神」自体を批判しているわけではない。それどころかロックは敬虔なクリスチャンであり、実はその思想はピューリタン的発想を基盤にしている、という視点が本書を読み解く上での一つの鍵となる。これについて次にみてみよう。

 

 ピューリタンとは、ご存じのように腐敗したカトリックに対抗して出てきた「プロテスタント」の一派である。プロテスタントといえば教会支配を離れて信仰を個人レベルに戻したことなどがポイントとして挙げられるが、実はこれ自体、神と人との一対一の関係を築くことで「神の下での平等」を確保しているという点で、すでに重要な転換となっている。つまり、明白なヒエラルキーがあるカトリックと違って「人の間での支配関係」というものが当たり前ではなくなるのであり、だからこそ、人が人を支配する政治体制への違和感も大きくなるということである。

 さてピューリタニズムだが、本書で顕著なのは「人間は神に造られた」という発想である。有名な「生命を侵すべからず」にしても、実はロックにとってこれが絶対的なのは、端的に「人間は神の被造物だから」なのである。もちろん神の目的が人間に理解できるかは別の話だが、わざわざ創ったなら「目的がある」ということは確かだから、神に背かないためには勝手に死んだらまずいのである。だからこそ、自分の生命を全力で守らねばならないし、他人の生命を侵すべきでないということになる。後でみるが、生命だけでなく「自由」や「財産」が不可侵であるのも結局は同じ理由となる。

 

 ここまでの話だけでも、当初のロックの発想が「神」への信仰を抜きにしては決して成り立たなかったことは明らかだが、実はこの「神の被造物たるわが身を全力で守る」という目的を達成しようとする結果として「政治的社会(国家)」なるものが生じざるを得ない、というのがロックの論理そのものとなる。その意味でロックの思想には、こうした宗教的義務感が出発点にあるということを頭に置いておく必要がある。以下では、この視点のまま第二論文のポイントを追っていくことにする。

 

 さて、ロックといえば「自然状態」という発想も教科書ですでにおなじみだろう。つまり、政治的統治がない状態(自然状態)を想像してから、国家の成り立ちについて考える。もっとも実はこれも、上でみたようなピューリタン的発想が根底にあるということがわかれば一挙に腑に落ちることになる。結論から言えば、ロックが人間に対してかなりの信頼を置いているようにみえるのは、言ってしまえば、ロックの想定する世界では誰もがプロテスタント信者だからなのである。

 ロックとよく比較されるホッブズの考え方では、自然状態は「絶えざる戦争状態」であるとされる(ここで言う「戦争状態」とは戦闘行為そのものがある場合に限らず、安心安全の保障がない状態のことである)。そこで「平和状態」を実現するべく、誰もかなわない怪物(国家権力)を設けて抑止力とする、というのが簡単に言えばホッブズの考え方だ。一方、ロックはそこまで殺伐とした世界を想定しておらず、むしろ平和な暮らしを想像する。実際ロックによれば、自然状態には「社会」がないのではなく、「政治的社会」がないのである。「社会契約説」とは言いつつ、ここでは契約前から社会はあるということだ。

 

 ではなぜ、とりわけ「政治的社会」が必要なのか。これが問題だが、もう少しロックが想定する自然状態をみておくと、一般的に自然状態では、人々は「自然法」に従っているとされる。つまり、国家がないなら制定された法律もないから、例えば何か被害を受けると、自分が妥当だと思う範囲で自力で反撃することになる。それを「自然法に従っている」と言うのだが、重要なのは、ロックの言う「自然法」とは「理性」のことだということである。しかも、それは「神に与えられたものである」と述べられている。

 つまり、ロックが自然状態をそれなりに平和な状態とみているのは、誰もが信仰を同じくしており、誰もが「理性」の導きに従っていると仮定されているからなのである。みんな神に造られたのであり、当然神を信仰しているはずであり、理性ある存在なのだから、わざわざ神に背くはずはない、ということだ。それなら、逆に言えば混乱が起こるのは「理性を十分に行使できていない場合」ということになるが、ここがポイントとなる。なぜなら、実際のところ人間は不完全なのであり、理性を持つ存在ではあっても、常に理性的であるとは限らないからだ。だから政治的統治が必要である、とロックは言うのである。

 

 ここまでの話をまとめると、ロックの想定のもとでは、人間は神に造られたのであり、だから人間はその身を守らねばならないが、人間は不完全ゆえ、放っておいても望ましい秩序は得られない、ということである。だから政治的社会が必要であるわけだが、ではなぜ人は「それなりに平和な」自然状態にいることをやめて、わざわざ政治的社会を形成する必要があるのか。言い換えれば、政治的社会はどういう点で明らかに自然状態よりよいと言えるのか。これが本題だが、結論を急ぐ前に、ロックの思想を理解する上で欠かせない「所有権」という概念についてもみておこう。

 とは言え、ロックの論理で「所有権」が根本にあらねばならない理由はここまでの話から明らかである。というのも、何はさておき人間がその身を守らねばならないのだとすれば、明らかに必要なものはそれなりに決まってくるからである。例えば、食べものを確保せねばならない。もっとも、勝手に果物を採ってきてよいのか、勝手に種を蒔いて作物を育ててよいのか等々を考えると、少し整理する必要がある。ロックによれば、地上のあらゆるものは「人間が生き延びられるように」神が与えたのであるが、しかし人間はどこでも複数いるのだから、何がどこまで誰のものかがわからないと困るだろう。したがって、ここで不可避的に「所有権」について考えねばならないのである。

 

 では、ある人が何かに対して所有権があると言える根拠はどこにあるのか。ここでロックがユニークなのは、人間はまず自分の「身体」を所有している、と考えたことである。これを暗黙の前提として、その身体を動かして得たものはその人の所有物になる、と考えるのである。つまり「労働」を基準にするということだ(この考え方は後の経済学にも影響を与えているが、そもそも労働の神聖視もピューリタン的である)。これなら、誰の土地でもない場所に落ちている木の実を拾っても問題ないし(拾うという労働により所有権が発生する)、未開の土地を耕して何かを育ててもよいことになる(耕すことで土地はその人のものになるし、収穫物は言わずもがなである)。

 もちろん、だからといって無制限に、というわけではない。ロック風に言えば「神は無駄なものを創造しない」であるが、あくまでも全ては神が与えたのであり、例えばリンゴ一つとっても無駄にするのは「神に背く」行為であるから、各人は生活に必要な分だけで済ませておくはずである、となる。ここで最後が「はずである」なのは、これがどこまでいっても想定に過ぎないからである。つまり現実はそううまくはいかないわけだが、ここで思い出さなければならないのが、まさに「人間は不完全である」ということなのである。どれほど完璧であろうとしても人間はいつか必ず間違うし、悪事をはたらく者もあろう。それなら、そんな場合も「想定内」にしておかねばならない。さもなければ、所有権は絶えず脅かされてしまうからだ。

 

 ということで、ロックにとって政治的社会が必然的に発生すべきなのは、「自然状態よりもより確実に所有権を保全するため」となる。要するに、人間は不完全ゆえ、自然法だけを拠り所にすることはできないのである。ここまでの論理がわかればあとは当然の結論ばかりなので、以下は淡々と進むことにする。まとめておくと、(1)人間は神の被造物ゆえその身を全力で守る必要があるのであり、(2)その手段として生存に必要なものを労働を根拠に所有してよいが、(3)自然状態では所有権の保全が万全ではないため、よりよく保全できる仕組みを整えるべきである、つまり政治的社会(国家)を確立すべきである、となる。これがロックの社会思想の根本的な論理である。

 ちなみに、最初の方で「生命・自由・財産」が不可侵であるのはどれも同じ理由からだと言ったが、この答えももはや明らかだろう。「財産」は「生命」を維持するためであり、そして「自由」についても同じだからだ。鎖につながれた状態ではあらゆる意味で生命の維持に支障をきたす。だから「生命・自由・財産」の不可侵は、結局のところすべて「生命を守るため=神に背かないため」なのである。信仰に基づくだけあって徹底しているのがわかるだろう。

 さらに付け加えておくと、つまるところ本書においては「所有権(property)」という言葉は非常に広い意味で使われている(だから「固有権」と訳されている場合もある)。つまり、単に物を所有するというような一般的な意味よりもはるかに広く、「自由」や「生命」も含まれるということである。人間はこれらすべてを「所有」しているのであり、だからロックにおいて「所有権」は、「所有権こそすべて」と言えるほどの重要度で扱われているということだ。

 

 所有権の重要性がわかったところで、ロックが具体的に自然状態に欠けているもの=政治的社会に必要なものとして挙げているものをみれば、「法律」「裁判官」「権力」となる。簡単にみると、「法律」は共通の基準として、「裁判官」は公平な判定のために、そして「権力」は執行のために不可欠のものとなる。要するに、自然状態では紛争の解決にあたって人間の不完全さが露骨に出てしまいやすいので、そこから生じる負の影響を少しでも抑えるため、確立された法に従って調停すべきである、ということだ。

 つまり自然状態のように何でも自力でやるのではなく、一定の権利を委譲するかわりに代行してもらうというわけだが、ご存じのようにこれが「相互に契約を結んで政治的社会をつくる」ということである。もちろんそれもこれも、ロックの場合には「所有権を守るため」であるが、この一点こそが重要なのであり、これだけが政治的社会を確立する理由である。国家はあくまでもどこまでも、人々の生命・自由・財産等々をより効果的に保全するためにこそ存在しなければならない、ということだ。

 逆に言えば、所有権の保全状況が十分ではない、あるいは自然状態におけるよりもむしろ悪くなっているような場合には、人々は委ねた権利を取り戻し、政府をなくしたり別の政府をつくってもよいし、そうすべきだ、ということになる。当然の論理的帰結だが、これが教科書でもおなじみの「抵抗権」「革命権」である。そもそも政治的社会に参加する理由がただ「所有権の保全」にのみあるのだから、それが果たされない場合には至極当然だということで、明快な論理であるのがわかるだろう。

 

 さて、ここまでで要点としては全体のだいたい半分くらいだが(要点をどうやって数えるのかわからないが)、教科書にほとんど出てこない部分を重視するとこんな感じである(よく出てくる部分は「立法権と執行権の二権分立」とか「立法権を最高権とする」とかであると想定している)。もっともこれらの根本的な論理がわかれば、教科書的な内容もよりよく理解できるのではないかと思われるし、この記事は本書を実際に読むきっかけとなることを目的としているので、このあたりにしておこう。

 

 ちなみに、「なぜこれほど信仰に根差した論理が現代でも重要なのか」と思う人もいるかもしれないが、この論理が普遍性を持つのは、確かにロックの論理は信仰から出発しているが、それは一つのきっかけに過ぎないからである。言いかえれば、理由が何であれ(例えば今日的に「人権」を持ち出してもよい)、「生命・自由・財産」等々は不可侵である、という価値観を共有するのであれば、ロックの論理はそのまま通用するということだ。

 実際、だからこそ多くの近代国家の形成に影響を与えているのであり、例えば「アメリカ独立宣言」には「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」とある(抜粋。『人権宣言集』より)。ここでは権利を賦与した「造物主」がいるにしても、それが何者であるのか議論されるほどであるし、いずれにしても由来は本質的なことではないのである。

 一方、周知のように日本国憲法にも似たような文言「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(第一三条。引用元は同上)があり、ここではもはやその権利がどこから来たかさえ書かれていないが、やはりここでは「どこでもいい」ということだ(説明の必要があるときは「国民が国民に与えている」と解釈したり、日本国憲法は人権思想を前提とする、としたりする)。

 いずれにしても、出発点に相違があるにしても、ロックの本質的な論理は現代でも採用可能なのであり、現に採用されているのであり、だからこそ、われわれも『統治二論』を読まねばならないのである。

 

完訳 統治二論 (岩波文庫)

完訳 統治二論 (岩波文庫)

 
市民政府論 (光文社古典新訳文庫)

市民政府論 (光文社古典新訳文庫)

 
統治論 (中公クラシックス)

統治論 (中公クラシックス)

 

 古典のありがたいところだが、本書は邦訳も多数あり、現行の文庫・新書だけでも上のように三つから選べる。冒頭で触れたように第二論文だけが訳出される場合も多いが、上の三つで言えば、一番上の岩波文庫版が両論文ともある「完訳」、二つ目の光文社古典新訳文庫版と三つ目の中公クラシックス版が第二論文のみとなる。いずれも訳文は読みやすいので、お好みで。原文はKindle版(例えばTwo Treatises of Government)なら2ドルほどでダウンロードできるし、ペーパーバックも各社から多数出ている。


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