フリー哲学者ネコナガのブログ

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モンテスキュー『法の精神』を読む(2)「権力分立」はなぜ重要なのか

 

 モンテスキュー『法の精神』を紹介することにして、前回は同書の基本的な射程と、根本となる考え方を簡単にみた。今回は、前回触れずに終わった、あまりにも有名だが十分に理解されているとは言いがたい「三権分立」、ないし「権力分立」についてみておくことにしたい。

 

 最初に言えば、モンテスキューは権力を三つに分けろと積極的には言っていない。この点は教科書的知識とのギャップを埋める上で、大前提として重要だろう。三権分立は、モンテスキューの基本的な主張を解釈した上で結果として出てくるものの一つではあるが、全てではない。どちらにせよ、根本となる発想を抜きにしてその重要性を理解するのは不可能だと言えるだろう。

 ちなみに前回、権力分立の発想を理解するのにもモンテスキューの言う「法」という言葉のニュアンスの理解は欠かせないと言ったが、おさらいしておくと、「法」とは「事物の本性に由来する必然的な諸関係」のことであった。これをわかりやすく「法則」のことであると考えておいたが、今回もこれを頭に置いておくことにしよう。

 

 さて、最初に文脈をみておくと、『法の精神』でモンテスキューが「権力分立」に触れているのは(全体のどのくらいの割合か計算するのが面倒なほどごくごくわずかであるが)民主政における自由の確保についての部分である。つまり、モンテスキューは「自由」のために「権力分立」が必要だとしているのである。

 この点については、そうだと知らなかったとしても別に驚かないだろう。人民にとって「自由」は重要に決まっているし、権力の分立についても確かに、(集中しないために分ける、という何も言っていないに等しい教科書的な説明はともかく)全権力が一か所にあるというだけでほとんど本能的に危険だと感じるはずである。

 もっとも、詳細に立ち入ると印象論では理解できなくなるのも事実である。実際このあたりは込み入っているが、そこはさくさく進むことにして(さくさく読んでいただきたい)、ひとまずモンテスキューがここで言う自由とは、国制との関係における「政治的自由」であり、それは「法律の許すすべてをなす権利である」(野田 他 訳『法の精神〈上〉』岩波文庫、p.289。以下同)と述べられている。

 さらにモンテスキューによれば、その「自由」がありうるのは「制限政体」においてのみ、しかも「そこで権力が濫用されない時にのみ」ということである。要するに、そもそもの国の形として一定の条件が揃っていなければ、何がどうなろうが自由はありえないということである。そこで何が必要かというところで、いよいよ「権力分立」の発想が出てくることになる。モンテスキュー自身の言葉をみておこう。

 

 権力を濫用しえないようにするためには、事物の配置によって、権力が権力を抑止するようにしなければならない。誰も法律が義務付けていないことをなすように強制されず、また、法律が許していることをしないように強制されないような国制(コンスティテュシオン)が存在しうるのである。(野田 他 訳『法の精神〈上〉』岩波文庫、p.289。以下同)

 

 つまり、事物を正しく配置すれば、権力は濫用されないし、されえないのである。この「配置的発想」とでも言うべきモンテスキューの考え方は、前回みた「法」の定義にも現れていたことを思い出されたい。つまり、事物とその配置からいつでも必然的に「法則」とでも言うべきものが現れる。したがって、遅かれ早かれ必ず腐敗する配置(構造)もあれば、構造的に腐敗しえない場合もあるのだということになる。

 

 では、「三権」というのはどこから出てきたのか。いわゆる「ロックの二権分立」と対比させて「モンテスキューが三権分立を提唱した」とするのが教科書的説明のようだが、これでは三権をモンテスキューが勝手に分割したようで誤解を生じるかもしれない。モンテスキューは、現にある国家権力を分類すると大きく三つに分けられる、と書いている。

 

 各国家には三種の権力、つまり、立法権力(la puissance législative)、万民法に属する事項の執行権力および公民法に属する事項の執行権力がある。

 第一の権力によって、君公または役人は一時的もしくは永続的に法律を定め、また、すでに作られている法律を修正もしくは廃止する。第二の権力によって、彼は講和または戦争をし、外交使節を派遣または接受し、安全を確立し、侵略を予防する。第三の権力によって、彼は犯罪を罰し、あるいは、諸個人間の紛争を裁く。この最後の権力を人は裁判権力(la puissance de juger)と呼び、他の執行権力を単に国家の執行権力(la puissance exécutrice)と呼ぶであろう。(p.291)

 

 これを今風に言えば、それぞれ「立法」「行政」「司法」となる(ちなみにモンテスキューはここで第二の権力について専ら外交のみについて触れている点で今とは違うように思えるが、直後で内政も含まれるような書き方をしているので、このような類推でかまわないと思われる。単に書き忘れたのかもしれない)。

 ともかく、こうして三権があるという事実を確認すると、次にはもちろん「法則」を探ることになる。モンテスキューはそういう人である。そこで、いちいち書かないが、三権のうちのどの組み合わせであれ、二つ以上が同じ人(人々)の手中にあると、政治的自由は失われるという「法則」があるということが述べられるわけである。だからこそ、三権は分かれていなければならないということになる。

 もっともそれなら、別に「三権」である必要はないということにもなるだろう。要するにモンテスキューが言っているのは、「最低でもこの三つが分かれている必要がある」ということだからである。つまり、三権が分かれてさえいれば何権でもいいし、理論上は分ければ分けるほどいいとも言える(実際、四権以上に分けられているケースは珍しくない)。いずれにしても、重要なのはあくまでも、何が何でもこの三権だけはそれぞれ独立させておくことなのである(その意味で「三権分立」は、三権「に」分けるのではなく、三権「を」分けると理解した方がいいかもしれない。この場合、四権以上に分かれていても三権分立と呼びうるだろう)。

 

 ということで、ひとまず三権分立が重要な理由の半分は終わりである(残り半分はすぐ後でみる)。つまり、そうでないとうまくいかないという「法則」あるいは「原理」があるから、それに則った自然な形で運営するべきだということである。これは、前回みた本書の基本的な発想ともちろん符合するが、こうした文脈を離れると要点をはき違えてしまうことは想像に難くないだろう。

 

 ところで、「法則である」ということは、「人間の手におえるものではない」ということにもなるが、実はここにも重要な発想が隠れている。これが三権分立が重要である理由のもう半分となるが、要するに、濫用が起きるような構造、制度をとっている限り、どんな「善人」が運営していても必ず濫用が生じる、ということなのである。実は『法の精神』では、「人間は有限な存在である」ということも前提として強調されている。

 つまり、「権力分立」は決して、悪しき権力者が暴走しないように、という類のことではない。要は、どんな善人、賢人でも間違うことがあるのだとすれば、権力を一点に集中させてしまうというのはリスクが大きすぎるということなのである。だからこれは、間違えた時の被害を最小にするためということでもあるし、あるいは人間が「正解」を知りえない以上、各権力が独自の「正解」を運用することで、とんでもない結果だけは避けようということでもあるのである。これがいわゆる「チェック・アンド・バランス」だが、モンテスキューの「配置的発想」ここにあり、という感じだろう。

 

 簡単にみてみたが、最後にまとめると、(1)人間はいつも不完全であり必ず間違うので、(2)最悪の結果が避けられるように権力を一か所に集めない、最低でも三つのものは分けておくべきであり、(3)それがまさに権力の濫用を防ぐということなのである、ということである。これがモンテスキューの三権分立ないし権力分立の基本だと言えるだろう。

 

 ちなみに、上の部分だけでも、まことに古典には数行では要約不可能な数多の発想が含まれていることがわかるだろう。そして、それらはただ数が多いというだけではなく、有機的に結びついて一つの全体を作っているのである。ちょうど、各社会にも全要素の関係性の総体としての一つの「精神」が浮上するように、一冊の本も、数多の知識や論理の配置により全体として一つの何事かを表現しているのである。前回、モンテスキューが一冊の本を簡単に批判しないでほしいと書いているのをみたが、それはこういう意味でもある。つまり、時間をかけて書いたその労力をみよということではなく、まずちゃんと一つのものとして読み、その上で言いたいことがあるなら、きちんと広く一般に(最低でも相手に)伝わる形で言え、ということである。古典からはこんなことも学べるのであった。

 

法の精神〈上〉 (岩波文庫)

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法の精神〈中〉 (岩波文庫)

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法の精神〈下〉 (岩波文庫)

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  • 作者: モンテスキュー,野田良之,上原行雄,三辺博之,稲本洋之助,田中治男,横田地弘
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
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法の精神 (中公クラシックス)

法の精神 (中公クラシックス)

 

 『法の精神』は、元々は二巻本で全六部、三十一編の構成である。日本語訳では岩波文庫版で上に貼った「〈上〉〈中〉〈下〉」の三分冊となるが、基本的には日本語で読むなら岩波文庫版をおすすめする。その他、どうしても三分冊に抵抗がある人は中公クラシックスに入っている抄訳の『法の精神』、また、伝統的な英訳ならKindle版は2ドルほどで買える。いずれも訳文が読みづらいということはないので、お好みで。


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