フリー哲学者ネコナガのブログ

いろんなアイデアを解説したり、本を紹介したり、エッセイを書いたりしています。

モンテスキュー『法の精神』を読む(1)「法」とは何か

 1月も半ばだが、18日はシャルル=ルイ・ド・スゴンダの誕生日だそうである。そう言ってピンと来る人はあまりいないであろうが、一般的には「モンテスキュー」(1689-1755)として知られている人物のことである。誕生日はたまたま知ったが、これを機会に、モンテスキューが書いていることの「さわり」だけでも見てみることにしたい。

 

 モンテスキューと言えば、一般常識としては『法の精神』であり「三権分立」だろう。こうなるとピンと来る人も多いが、もっとも、問題はむしろそこにあると言える。『法の精神』の内容を「三権分立」だけで済ませてしまうのはかなりの無理があるし、三権分立ひとつとっても、文脈を離れて理解するのはおよそ不可能だからである。

 実際のところ、モンテスキューの著述内容はきわめて多岐に渡っている。『法の精神』も今から見れば社会科学一般の書と言えるだろう。そもそも当時は「専門分野」という観念は薄く、思索家は誰でも何でも書いたのはご存じの通りである。その意味で、タイトルから勝手に法学の専門書だと思われがちなのも本書が読まれない理由なのかもしれない(しかも、よりによって法学である)。

 あるいはもう一つ読まれない理由として、これは多くの古典に共通する事情だが、教科書に載っているほどであるから、相対的に馴染みがあり、どこか知っている気になっているというのもあるだろう。しかし、教科書に載っている部分が核心かはわからないし、どのみち部分から全体はわからない。何であれ、何はともあれ、結局読んでみないと何もわからないと言える。

 ちなみにモンテスキュー自身は『法の精神』の序文で、二十年かけて書いた本を数行で批判しないでほしい、また一部ではなく全部を批判してほしいという旨を書いているが、これは一般的に言えることだろう。紹介したり称賛するのはともかく、一冊の本を「批判」するには、自分も一冊書かなければならない。こういう対称性はインターネット上ではボロボロに崩れているが、本を批判したければ本をもってするのは一つのマナーである。そう思えば「数行で批判するな」以前の問題として「数行で理解するな」とは明らかに言えるだろう。著者への冒涜である、と言っても過言ではない。

 

 少し話が逸れたが、確かに言えるのは、モンテスキューの『法の精神』のように、誰でも知っているにも関わらずほとんど誰にも読まれていない本に限って、読んでみればおもしろいということである。こんなに分厚い本が何百年も読み継がれている理由を考えてもみるべきだが、やはり古典には、現代の新刊本には絶対に出せない迫力がある。ということで以下、『法の精神』の中身を少しだけ見てみることにしよう。

 

 最初に確認しておくべきは、タイトルにある「法」という言葉である。ここで参照している岩波文庫版(文献については最後に書く)では、タイトルでは「法」となっている言葉が本文では「法律」と訳されているが、いずれにしても曖昧な言葉である。事情は元のフランス語でも、また英訳版でも同じで、どの言語でもそれぞれニュアンスは異なるにしても、解釈に広がりがある点では変わりがない。

 とは言え、だから掴むのが難しいというわけではない。モンテスキューは、本文の最初の文でこの言葉を定義しているからである。これこそ先日の「定義」についての記事で引用すればよかったが(「定義」の重要性について少々、UFOなど交えながら)、最初に定義がなされていると、無用な面倒は避けることができる。本書の中ではとりわけ有名な部分でもあるので見ておこう。

 

 法律とは、その最も広い意味では、事物の本性に由来する必然的な諸関係である。(野田 他 訳『法の精神〈上〉』岩波文庫、p.39。以下同)

 

 ここで重要なのは、法律とは「関係」である、と言っていることである。そこで、現代日本語における「法律」という言葉と同じように解釈するのには無理があるとわかるが、最初に言えば、モンテスキューの言う「法律」はもっと広い概念であり、ひとまず日本語における「法律」という言葉の意味は忘れた方がよい。

 では何かと言えば、「事物の本性に由来する」、また「必然的な」とあるように、要するに「自然にこうなる」というところのものであり、わかりやすく言えば「法則」一般のことである。だから見方によっては自然法則も含まれるし、実際モンテスキューは、今でいう政治学的な内容を説明するにあたって、エネルギー保存則や作用反作用の法則など、物理法則を「たとえ」として繰り返し使っている。

 その意味では、日本語ではむしろ「理」に近いかもしれない。つまり「ことわり」だが、モンテスキューは万物が法律を持つとしており、物質世界に法則があるように、人間の世界にも法則がある、と言っているのである。したがって「法律」とは、人間が立てる以前から存在しているものということになる。ちょうど、エネルギー保存則が記述される前から、物質世界がエネルギー保存則に従っているようにである。

 これにしたがえば、人間が定める法律(一般的な意味での「法律」)でさえ、勝手に立てられるものではなく、先立って存在する法律を「確立する」ものであるということになるだろう。もちろん自然の摂理にそぐわない法律を立てることもできるが、効力を持つかは別の問題ということである。ここでの主旨は、広義での「法律」に合わない法律を無理やり立てても、うまくやっていけるはずがない、ということである。

 もっとも、重要なのは、だからと言って普遍的絶対的な法律があるわけではないということである。確かに、自然法則ならばどこでも同じでありうる。しかし、人間の世界においては、社会や地域によって様々な事情が異なる以上、その「関係」も多様に現れうるから、法律も違っていて然るべきである。言い換えれば、法律があるという事実は普遍的だが、法律の内容そのものは異なるし、異なっているべきなのである。

 

 こうしてモンテスキューは、ひとまず袂を分かつところのものとして、三つの政体の区別を最初に挙げている。三つの政体とは、「共和政体」「君主政体」「専制政体」である。簡単に見ておくと、共和政体では最高権力を人民が持つのに対し、君主政体と専制政体ではただ一人が持つ。君主政体と専制政体の違いは、制定された法律に基づいて統治されるか、万事が気まぐれに引きずられるかである。

 ちなみにこの区別は事実に基づくものであり、現にある政体を分類するとこのようになるという意味である。これ以外にありえないわけではないし、先んじてどれがいいということでもない。まずは構造自体から導き出されることを見てみようということである。続けてモンテスキューは、各政体には固有の「原理」、それを欠くとその形が成り立たなくなるような「駆動力」がそれぞれ存在しているとみる。

 まず、共和政体の駆動力は「徳」(vertu)である(これは西洋思想ではよく見かける言葉だが、意味はその都度確認する必要がある。例えば、マキャベリも『君主論』ではイタリア語で「virtu」と言っているが、ニュアンスは全く違う。英語で言えば「virtue」である)。本書では、ここで言う「徳」とは「政治的な徳」であり、「祖国と平等への愛」を意味するとある。わかりやすく言えば、民衆が自己の利益よりも公共の利益を優先するようでなければ、共和政体は成り立たないということである。

 次に君主政体と専制政体であるが、これらの政体では徳や誠実さはそれほど必要ではない。なぜなら、君主政では「名誉」、専制政では「恐怖」こそが駆動力だからである。君主政では、最初から社会にヒエラルキーがあることがポイントとなる。ここにおける人々は自己の利益のためにヒエラルキーで上に行きたがるが、一方、ヒエラルキーで上に行くためには、他人の利益になることを行わねばならないという構造がある。つまり、結局は名誉欲が国を持続させるということになるわけである。

 最後に専制政では、法律も規則もなく民衆はただ最高権力者の意思を受け入れるしかないが、その形が保たれるには、権力者の恣意に従うしかないという状況が成立している必要がある。したがってそこでは、最高権力者が、反抗する者を意気消沈させるに十分なほど、拳を振り上げ続けていればよい。その「恐怖」さえあれば政体として存続できるということである(もっともモンテスキューは、専制政における最高権力者の意思に対抗できるものが一つあるとも書いている。それは「宗教」である)。

 

 さて、三つの政体を区別してわかるのは、ある政体であるということ自体によって必然的に帰結する法律がまずあるということである。例えば、民主政では「選挙」が不可欠であるから、誰がどのように、何に基づいて投票を行うかについての法律が備えられている必要がある(「民主政」は、共和政のうち最高権力を人民の全体が持つ場合である。一部が持つ場合は「貴族政」となる)。一方、専制政では選挙に関する法律が整えられている必要はないし、あったとしても意味がないだろう。このように、法律は第一に「政体」に合致していなければならないということである。

 さらにここから、各政体ごとに、例えば「教育」に関する法律も異なっているべきであるとわかる。どのような人物が育つのが望ましいかの判断も政体ごとに違うからである。あるいはまた、裁判や刑罰のあり方等も根本的に異なってくることは明らかだろう。いずれにしてもモンテスキュ-が言いたいのは、事物の配置によっていつでも必然的な関係というものが生ずるのであり、逆にいえば、社会によって事物やその配置が異なる以上は、妥当な法律も異なっていて当然であるということである。

 ところでモンテスキューがすごいのは、ここから一挙に対象を広げて、今で言えば社会学や文化人類学の領域に踏み込んでいることである。万事が万事と関係している以上、「法律」について徹底的に考えるにはこれくらいやらねばならないということだろう。以降では広範な話題に触れつつ、法律は政体に合致しているべきであるのみならず、その地の風土や文化、根付いている宗教等にも合致していなければならないと説いている。まとめも兼ねて、本書の序文にあるモンテスキューの目論見を見ておこう。

 

 それらの法律は、その作られた目的たる人民に固有のものであるべきで、一国民の法律が他国民にも適合しうるというようなことは全くの偶然であるというほどでなければならない。

 それらの法律は、国制の法律のように政体を形成するものであるにせよ、あるいは、公民の法律のようにそれを維持するものであるにせよ、すでに確立されている、あるいは確立されようとしている政体の本性と原理とに関係しなければならない。

 それらの法律は、その国の自然的なるもの、すなわち、寒いとか、暑いとか、あるいは、温いとかの気候に、土地の質、位置、大きさに、農耕民族、狩猟民族、遊牧民族といった民族の生活様式に相関的でなければならない。それらの法律は、国制が容認しうる自由の程度に、住民の宗教に、その性向に、その富に、その数に、その商業に、その習俗に、その生活態度に関係していなければならない。最後に、それらの法律は、それら相互間において関係をもつ。それらは、その起源、立法者の目的、その確立の基礎たる事物の秩序とも関係をもつ。まさにこれらすべてを見渡して、それらの法律を考察しなければならないのである。(p.48-9)

 

 ここでようやくタイトルの謎が解けるが、モンテスキューによれば、これらの関係がすべて一緒になって形成されるのが「法の精神」である。要するにモンテスキューの基本的な主張は、(1)各社会には固有の自然的・文化的・社会的環境があり、したがって(2)そのそれぞれの要素が相互に結びついた関係性の総体=その社会に固有の「精神」なるものがあるのであり、それゆえに(3)その社会における法律は、その社会に固有の精神と相関的なものでなければならない、ということである。

 この「法の精神」、「これらすべての関係」を実際に考察しようということだから実に壮大だが、ともかくこれが『法の精神』という本の射程である。すでに長くなっているのでひとまず終わりにしておくが、一生モノの本であるので、これを機会にとりあえず読んでみてはどうでしょうか。件の 「権力分立」については触れなかったが、それについては機会を改めることによう。

 

法の精神〈上〉 (岩波文庫)

法の精神〈上〉 (岩波文庫)

 
法の精神〈中〉 (岩波文庫)

法の精神〈中〉 (岩波文庫)

 
法の精神〈下〉 (岩波文庫)

法の精神〈下〉 (岩波文庫)

  • 作者: モンテスキュー,野田良之,上原行雄,三辺博之,稲本洋之助,田中治男,横田地弘
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1989/10/16
  • メディア: 文庫
  • 購入: 2人 クリック: 4回
  • この商品を含むブログ (3件) を見る
 

 

法の精神 (中公クラシックス)

法の精神 (中公クラシックス)

 

 『法の精神』は、元々は二巻本で全六部、三十一編の構成である。日本語訳では岩波文庫版で上に貼った「〈上〉〈中〉〈下〉」の三分冊となるが、基本的には日本語で読むなら岩波文庫版をおすすめする。その他、どうしても三分冊に抵抗がある人は中公クラシックスに入っている抄訳の『法の精神』、また、伝統的な英訳ならKindle版は2ドルほどで買える。いずれも訳文が読みづらいということはないので、お好みで。

 

 

nekonaga.hatenablog.com


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト