フリー哲学者ネコナガのブログ

いろんなアイデアを解説したり、本を紹介したり、エッセイを書いたりしています。

「定義」の重要性について少々、UFOなど交えながら

 「定義」というのものの重要性について、少しみてみることにしたい。ロジカルな議論の世界では当然でも、一般的にはほとんど意識されていないと言えることである。

 

 最初に、いわゆる「UFO」に関する議論を例に挙げてみよう。例えば、「UFOは存在しない」と主張する人がいるが、そうした言明を受けて「UFOは存在するかしないか」を議論するよりも、まず最初に確認すべきことがある。それは、ここで主張されていることは何であるか、この言明は何を意味しているのか、である。

 

 UFOとは、ご存じのように「未確認飛行物体」(Unidentified Flying Object)のことである。ここで重要なのは、「それが何であるか」が「未確認」なのであって、飛行物体であることはわかっているということである。つまり、飛んでいるかどうか、物体であるかどうかがわからない場合等は当てはまらない。確かに何か物体が飛んでいるが、その正体が未確認であるような時、そしてその時のみ、それはUFOと呼ばれ得る。

 したがって、鳥が飛んでいるだけでも、視力が悪くて何であるかわからなければ、当人にとっては定義上それもUFOであるし、知識がなくてジェット機が何であるのかがわからなければ、それもUFOであり得る。つまり、UFOかどうかの判定は見る側に依存するのであり、対象そのものについて言うことではない。これは「Unidentified Flying Object」という言葉を解釈すれば自然に出てくる結論である。

 

 ここまでは当然の話だが、そこで「UFOは存在しない」という言明に戻ると、ただちにわかることがある。それは、「UFOは存在しない」と言う人は、「UFO」という言葉を本来の意味で使っているのではなさそうだということである。というのも、もし何が飛んでいようがその者にとって「未確認」ではありえないのだとすれば、その者はいわゆる「全知(omniscience)」なる存在だということになってしまうからである(一般的に言い換えれば、その者は一神教的な意味での「神」である)。

 もちろん、その者が本当に全知であれば問題はない。しかし、全知なる者が存在しないことは、不完全性定理が知的体系一般に拡張される歴史の中で、すでに証明されている。つまり、全知なる存在は、単に存在しないのではなく、存在し得ないことがはっきりしている。したがって、その者が全知である可能性はないことがわかるから、「UFOは存在しない」と言う人は「UFO」という言葉を別の意味で使っているはずであろう、と結論付けることができる。

 

 では、そこでの「UFO」はいかなる意味で使われているのか。ひとまず「常識」なるものを参照すると、「UFO」の言葉の意味として広く知られているのは、「宇宙人の乗り物」というものになるだろう。

 もちろん、理由はともかくUFOと言えば宇宙人の乗り物だということで全員に合意が成立しているような場においては、これは文字通り当然のことだろう。しかし、先述のように原義に戻って考えると、状況によってはただの鳥が「UFO」にあてはまってしまう場合もあるから、広く同意を得ようと思えば、一口に「UFO=宇宙人の乗り物」とするにはそれなりの理由が必要である。

 もちろん、「慣例としてUFO=宇宙人の乗り物であるから」という理由もありえないわけではない。あるいは「UFO」の本来の意味はそのままにして「宇宙人の乗り物」をその言葉の第二の意味であるとするとか、「明示的な意味 denotation」と「暗示的な意味 connotation」を区別して、「未確認飛行物体」という言葉が「宇宙人の乗り物」を暗示している、とみることもできなくはない。しかし、これらも甚だ曖昧であろう。

 さらに、「UFO=宇宙人の乗り物」であるとすると、もっとわかりやすい問題もある。それは、宇宙人の乗り物であると確認できているなら、もはや未確認ではない、ということである。その場合それは「UFOでありUFOではない」ということにもなってしまう。これに対して「UFOは宇宙人の乗り物の総称として新たに作った言葉である」という反論も可能ではあるが、それなら第一義の方、略称としての「UFO」の意味はきれいさっぱり忘れ去られてしまうことになって、やはりとてもややこしい。

 

 さて、いくつか問題をみてみたが、問題の根源ははっきりしている。結局何がいけなかったかというと、最初に「UFOは存在しない」と言った人が、「UFO」という言葉の「定義」を与えなかったことである。どのような意味で使うかを初めに定義さえしてくれれば、ここまで見てきたような疑問は何も抱く必要がなかったのである。「定義」とは、かくも議論をすっきりさせてくれるものであり、話を続けるうちに「それは私の言う『UFO』には関係がない」などと言われないためのものである。

  つまるところ、科学者や哲学者が何かと言えばまず「定義」を行いたがるのは、こうして話を「簡単にするため」であり、言い換えれば、本当の意味での議論ではない部分に無駄な時間を使わないためである。実は多くの「議論」(カッコつき)は言葉の定義が双方で食い違っているだけである場合も多いが(例えば、憲法改正の是非を問う前に「憲法改正」を定義せよ、「会社のため」という時の「会社」を定義せよ等々)、その意味で、わかっていてもやっている人は意外と少ないことについての話であった。

 

世界の名著〈第24〉パスカル (1966年)

世界の名著〈第24〉パスカル (1966年)

 

 ちなみに、定義と言えば思い出されるのはパスカルの議論である。有名な部分だが、パスカルは『小品集』の中の「幾何学的精神について」(邦訳は上の「世界の名著」シリーズ原版とそのペーパーバック版『世界の名著 29 (中公バックス)』に収録)において、「始原的な語」なるものについて触れている。始原的な語とは「定義し得ない語」であり、「理性によって得るのではなく、共通観念として自然が与えてくれたもの」であるが(時代を感じる言い回しである)、幾何学における「時間」や「数」とともに、例えば「人間」や「光」もそうであるという。

 パスカルはいくつかの例を挙げながら始原語を定義しようとする試みの無益さを表現しているが、ある人が「光」を「光る物体の光体的運動」と定義している例への批判などはかなり汎用的だろう。つまり定義しようとする語を説明の中で使ってしまっているのであるが、この論法を使えば、「存在(あるということ)」も始原的な語であるとわかる。「である」という言葉を使うことなしには、定義を行うこと自体が不可能だからである。


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト