フリー哲学者ネコナガのブログ

いろんなアイデアを解説したり、本を紹介したり、エッセイを書いたりしています。

「哲学」「哲学者」「哲学書」とは結局何なのか

 「哲学は役に立たない」。一般的にはそう言われることが多い(とされている)。しかし、哲学者ならこれに対してこう答えるはずである、「はい、その通り」。

 

 これは、面倒な人を避けるための一つの返し方でもあるが、要するに反論はしないだろうということである。というのも哲学者は、「役に立つかどうか」という発想そのものにも、無論そのようなことを考えることにも、またそんなことを気にしているような人自身にも、端的に興味がないからだ。だから、何と言われていても別に構わないのである。実際、私が知る限り、逆に「哲学がいかに役に立つか」を説いている人というのは基本的に哲学者ではなく、むしろ反対のタイプの人である。

 

 では、あらためて哲学とは、あるいは哲学者とは何かである。基本から言えば、周知の事実かもしれないが、そもそも「哲学」とは古代ギリシア語の「philosophia」の訳語である(西周の元々の訳では「希哲学」と言ったが、後に縮まった)。英語で言うと「philosophy」だが、ともかくこれは本来「フィロス(愛)」と「ソフィア(智恵)」の合成語で、平たく言えば「知を愛すること」である。つまり、知ること自体を追い求め、知るために知ることである。

 ここで重要なのは、すなわち理由があってやるのではないということだ。理由があってやるとは必要だからやるということだから、ご飯を食べるのと同じであり、宿題をするのと同じである。そうでもないのにやるから「lover」なのであって、だから「フィロソファー(哲学者)」である。したがって逆説的に言えば、実用的関心があるならそれはもう哲学ではないとも言える(と言ってももちろん、そのことを誇りにしているわけでもなく、結果的に役に立つのは別に構わない)。

 要するに哲学者というのは、自分が知りたいと思ったことを、誰の何の役にも立たないとしてもなお、知りたいと思って追い求める人のことである。したがってなろうと思ってなれるものではなく、どちらかと言えば「なってしまう」ものである。だから、哲学者だからすごいとかエラいとか、そういうことにはならない。ヴァイオリンがどうしようもなく好きで毎日弾いている人もいれば、ヴァイオリンなんか触ったこともない人もいるのと同じである。あるいは「自転車愛好家」とかのアナロジーで言えば、「知愛好家」というのが、わかりやすく言えば哲学者のことである。

 

 もっとも、冒頭の「哲学は役に立たない」は「哲学しても役に立たない」ではなく、「哲学など学んでも役に立たない」の意味である場合が多いから、それなら「哲学を学ぶ」とは何かについても考える必要があるが、これは単に哲学書に書いてあることを学ぶというほどの意味であり、要するに「哲学」を行為ではなく「分野」としてとらえてしまった結果だと言えるだろう(「哲学」の「学」を無意識のうちに「生物学」や「地理学」という場合の「学」と同じものだとみているのかもしれないが、この場合の「学」は「-logy」や「-graphy」の訳である)。

 

 では、次に「哲学書」についてだが、これは、先ほどの「哲学者」のニュアンスをふまえて、「哲学者が書いた本」とみてよいだろう(最初から本として書かれたかは別として)。そもそも哲学者は書くことも大好きである場合が多いが、基本的に、誰かのためになるからとか、後世のためになるからとかではなく、「なんか書いてしまう」のである(もちろん書かない人もいたかもしれないが、何も残らなければ知られることもないというのもある)。もしくは語ってしまう(ソクラテスのように)。

 あるいは「哲学書」と言えば「何か深遠なことが書いてある」と思っている人も多いが、これは結果に過ぎない。要するに、哲学していた人が書いた本のうち(本人たちはあくまでも好きで考えたことを好きで書いているのだから)、読んだ人々がその人々の都合で好んだ本が残ってきたということである。つまり、元々あるものに後からフィルターがかかった結果として「哲学書と言えば何か難しいけどすごいことが書いてある」状態が引き起こされるということだ(難しいとか深遠だと感じるのは翻訳の問題という場合もあるが、これについては省略)。

 

 ちなみに、哲学して書いてえらいことになった一例として、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)を見てみると、かのバートランド・ラッセル(こちらは20世紀の大哲学者)がパースを大量の岩石を噴き出す火山にたとえて「その岩石の幾つかを実際に手に取って詳しく調べてみて初めて、それが純金の塊であることに気付く」と言っているそうだが(『連続性の哲学』解説より)、一つの論文でも中身が濃いとされているのに、パースの著作集は1982年から刊行中で、全30巻予定のまだ三分の一も出ていない。ほとんど一人聖書のようなボリュームである(ちなみに定評ある入門書『パースの哲学について本当のことを知りたい人のために』は最近邦訳された)。

 

 「哲学」「哲学者」「哲学書」について素朴にみたところで、最後に、ここまでの話をふまえて再び一般的な用法での「哲学者」についてみておこう。というのも、諸大学における制度上の分類では、「哲学」というものはやはり他の「学(科学)」と等しく扱われており、さらにそこから、今日では「哲学科で教えている教授」を「哲学者」と呼ぶこともあるからである。問題は、その「哲学者」が本来の意味でも「哲学者」である場合はいいが、そうではない場合も多いとされていることである。

 例えば、日本の大学で「哲学教授」と言えば、基本的には哲学史や、あるいは哲学者の著作の内容を教える人であることが多いだろう。あるいは欧米なら「哲学教授」は、他の分野での研究をその分野の研究者には思いつかない側面から批判したり、分野を超えて知見を統合したりといった、「頭だけでできる部分のエキスパート」みたいな感もあるが、いずれにしてもはっきりした役割が与えられており、やはり「哲学」は一つの「分野」と見做されている現実がある。

 また「哲学」にしても、一般的にはやはり「プラトンを学ぶ」みたいに(そもそもプラトンは人であって研究トピックではないからこの表現もおかしいが)、誰かの哲学の結果を学ぶことも「哲学」だとされているから、要するに何から何まで本来の意味とはズレているわけで、あらゆる表現が齟齬をきたすのはもうどうしようもないとも言えるだろう。したがって、結論というか、結局のところ社会的には「哲学」も「哲学者」も「哲学書」も、それぞれ「本来の意味」と「通例」をどちらも理解した上でうまく使い分ける必要があると言える。

 

 さて最後に、せっかくなので分野としての「哲学」の入門書をいくつか紹介しておこう。ここまでみてきたように、哲学書やその解説書を読んで理解することや過去の哲学者について知ることは、自分自身が「哲学する」こととは直接の関係はないが(何事も主観的にかかわる場合と客観的にかかわる場合があるということである)、数多くの哲学者たちが何を考えていたかを知るのは、それはそれで確かにおもしろいことである(ここにも哲学書愛好家とか哲学史マニアとでも呼ぶべき固有のファンがいる)。

 ちなみに強調しておくと、哲学書が理解できるかというのは基本的に読解力の話であり語学力の話であり、またそれに精通しているかどうかというのは文芸批評の話であり、別に哲学書が読めなくても詳しくなくても「哲学する」ことはできるし、していていい。ともかく「哲学に興味がある」という時は、何を求めているのかを自問する必要があるだろう。わかりやすく言えば、例えば「映画」なら、観ることと、作ることと、批評することは異なるということである。このたとえのまま続けると、以下は主に「観る」ことに興味がある人へのおすすめである。

 

哲学大図鑑

哲学大図鑑

 

 ひとまず近年出たものでおすすめしているのはこちら。このシリーズは順番に邦訳されていて、他にも政治学大図鑑、経済学大図鑑などいろいろ出ているが、私の知っている限りでは哲学大図鑑のクオリティは一段上である(やはり哲学は歴史の長さがものを言っているのかもしれないが)。妙なチョイスだなと思うところもあるが、古代から始まって基本的に主要人物はカバーしており、かつあまり知られていない人も大勢紹介されている。項目は人物単位だが、「図鑑」ということで、各人物の最も主要なアイデアに特に重きを置いて解説されていたり、前後の関連人物がリストアップされていたり、カラー、図解つきなのも特徴。通読する類の本ではないが、長期間楽しめる一冊。

 

西洋哲学史 近代編―科学の形成と近代思想の展開

西洋哲学史 近代編―科学の形成と近代思想の展開

 
西洋哲学史 古代・中世編―フィロソフィアの源流と伝統

西洋哲学史 古代・中世編―フィロソフィアの源流と伝統

 

 「近代編」と「古代・中世編」に分かれているが、併せて持っておきたいほぼ通史。ミネルヴァ書房というだけで学術的なイメージだが、実際それなりのボリュームで、本自体はそんなに厚くないが、詳細な分担で各項目すべてをそれぞれの専門家が執筆しているため情報量は物凄いものがある。近代編はベーコンからニーチェまで、古代・中世編はミレトス派からエックハルトやクザーヌスまでだが、驚くべきは目配りの良さで、随所にコラムを挿入するなどして、この程度の分量の本では普通は絶対に出てこないであろうマニアックな哲学者やトピックも拾い上げられている。すらすら読める本ではないが、高校生以上ならという感じで、じっくり読めばかなりのものが得られるだろう。ちなみに、どちらの本にも「全三冊で西洋哲学史を概観するこのシリーズでは…」と書かれてあるが、三冊目は誰も見たことがない。この感じでは「現代編」か何かの予定が頓挫したのかもしれないが、何か知っている人は教えてほしい。

 

哲学の道具箱

哲学の道具箱

  • 作者: ジュリアン・バッジーニ,ピーター・フォスル,廣瀬覚,長滝祥司
  • 出版社/メーカー: 共立出版
  • 発売日: 2007/02/22
  • メディア: 単行本
  • クリック: 20回
  • この商品を含むブログ (19件) を見る
 

  原題は「The Philosopher's Toolkit」で「哲学者の」であるが、結局何かと言えば、自分で哲学するのにも他の哲学者の考えを理解するのにも役立つような「概念」の解説集である。といっても辞書のようなものではなく、全87の各項目それぞれ数ページでエッセイのように読めて、かつ要点が押さえられた解説となっている。項目は「帰納法」「無矛盾性」「反駁」といった論証の基本ツールから始まり、「他の条件が同じならば」「発生論的誤謬」「ヒュームのフォーク」など論証評価のツール、「定言的と様相的」「伴立と含意」「タイプとトークン」など概念的区別のツール、「階級的視点からの批判」「脱構築と現前批判」「フーコーの権力批判」などラジカルな批判のためのツール、そして「ゲーデルと不完全性」「神秘体験と啓示」「決定不全性」など極限のツールに到る。ちなみに本文は二段組みだが、項目毎に読書案内があるのも非常に便利だ。通読できるがリファレンスとしても使える優れものである。


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト