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「よい書評」とは何か─その本をいくら読んでもよい書評は書けない

 よい書評とはどんなものであろうか。その前にそもそも書評とは何かという問題もあるが、それについては少しふれるだけにして、今回は「よい書評であるための条件」について考えてみたい。大したことではないが、あまり明文化されることのない問題である。

 ちなみにここでは、扱われている本が一般向け読み物や学術書等、知識を得たり視野を拡げたりするためのものであることを前提とする。文学作品等の書評は求められているものがかなり異なるし、場合によってはそれ自体が作品にもなりうるからである。

 

 さて、最初に言ったようにまず「書評とは何か」という問題があるが、一般的な実感としては、「読んだ本についてその人なりに何かを語っているもの」くらいだろう。多くの場合、「書評」とはよい書物に出会うための踏み台的な位置づけにあるとみなされており、それ自体がかえりみられることはあまりない。

 したがって練りに練った論考から少し要約しただけのもの、あるいは単に感想を書いたものまで広く「書評」と呼ばれているのであるが、ここで注目したいのは、「書評に独自の価値」についてである。

 結論から言えば、練りに練っていようが、さらりと自由に書いたものであろうが、「よい書評」であるためにはいくつかの条件が必要であると考える。それらの条件を満たすことと書評としての完成度がいつでも対応するわけではないが、書評の価値を探るという意味では、ある程度の基準となりうるものではないかと思う。

 

 まず、上に挙げたものを大まかに言ってしまえば、「練りに練ったもの」については二つのものがあるだろう。一つは専門家が専門誌に寄稿するような、ハードな書評である。これはそもそも読者対象が専門家であるので、場合によってはその本をすでに読んでいるどころか、過去に出版された関連する本や論文にも幅広く精通していることが求められる。だからこの場合は「よい本にたどり着く手がかり」という役割とは無縁である。

 次に、個人的に練りに練った書評である。これは、読み手を初めから想像しておらず、ただ本人が書きたくて書いているものである。これについては、価値があるかどうかは「読み手がその評者自身に関する情報をどれだけ持っているか」に依存するだろう。つまり、評者の個人的な立場やスタイルに慣れ親しんでいる人にとっては情報量が多いが、そうでない人がいきなりその書評だけ読んでもほとんど得られるものがない。

 以上二つは、そもそも構造的に「価値を見いだせる人口が少ない」という点で、ここでは「よい書評」とは判断しない。大前提として「よい書評」であるための第一の条件は、「多くの人に届きうるものである」ことだろう(ことであるとしよう)。だから「多くの読み手を意識しているもの」と言いかえることもできる。ただしこれはとても抽象的である。

 

 次に、要約の場合を考えてみる。これは言わば一次情報を短縮しただけのものである。そもそも書評とはそういうものだと思っている人も中にはいるかもしれないが、実際には「書評」においては、要約というのはむしろ副次的な側面であると言えるだろう(そもそも、何らかの目的をもって他者に読まれることを想定している「書評」の性格上、どうがんばってもそれは個人的なメモやノートとは異なるべきである)。

 というのも「要約」には、確かに「評者が誰であるか」ということによって独自の切り取り方やまとめ方は発生するが、特に意識していない限り、そこに付加価値はほとんど生じていないからである。言い換えれば、「要約」が中心的要素である場合、その本をすでに読んでいる人からすれば情報量はほとんどゼロに近いのである。したがって、そこでは書評そのものにはあまり価値がないと言えるだろう。

 

 ということで、「よい書評」の条件はひとまず、「広く多くの人に届きうる形で書かれている」とともに、「書評独自の価値を持っている」ものだとみえる。

 

 では、ここまで読者目線でみてきたが、今度は「評者」の目線での区別に注目してみたい。実は「書を評する」ときの視点には少なくとも、まったく異なる二つのものがあるからである。

 一つは、その本の「内容」それ自体に注目するものである。ふつうはこれが「書評」とみなされている。というのも、それなりの読書家でもない限りは、読書体験としてどうしても一冊一冊が心理的に大きな意味を持つことになるため、より大きな視点に立つ余裕はほとんどないからである(これはすでに持っている知識量とも大きく関わっている)。したがって、一冊ごとにそれ自体に独立して注目することになるから、結果としてどうしても「その本の内容」だけが扱う対象となるわけである。

 しかし、一方で「その本の内容」ではなく「その本と他の本との結びつき」等々に注目する視点もある。そして、ここに「本人の中で」だけではなく、より広い特定の範囲内、たとえば「広く一般の人々の間で」とか、「その分野の専門家の中で」とか、「同じ問題を扱っている本の中で」といった大きな視点が入り込んでくると、実はその本について語れることは爆発的に広がるのである。

 つまりそこでは、「私がその本をどうみるか」のみならず、一つ上の視点で「その本がどうみられているか」「その本が一冊の本としてどう位置づけられるか」等々についての知識を提供することができるのである。これはその本自体を読んでもわかることではないから、十分に「書評独自の価値」になりえると言えるだろう(そもそも評者の「個人的な見方」が存分に発揮されるべきなのも、明らかにこの点においてなのである)。要するに、一冊の本の中身を見ることと、一冊の本を「一冊の本」というまとまりで見ることは、全く別のことだということである。

 

 この最後の部分は文学を教えているピエール・バイヤール教授が書いた『読んでいない本について堂々と語る方法』という本に書かれているのだが(2016年10月に同タイトルで文庫化された)、要するに、「その本を理解するために役立つような、その本の外側にある知識」を提供するということである。これなら、すでにその本を読んでいる人にとっても得られるものがあるから、書評そのものにしかない価値が生じることになり、単に本の価値に従属するものではなくなるということだ。

 

 まとめれば、「よい書評」であるためには、その本の中身について大まかな想像がつく程度の要約をちりばめること等も含め、様々な意味で「多くの人に届く形で書かれている」ことは大前提として、その上でさらに、評者独自の知識と経験に基づいて、「その本が他の本との結びつきの中でどのように位置づけられるのか」といった、その本だけを読んでもわからないような、より大きな視点からみた景色が示されている必要があると言えるだろう。

 もっともこれはもちろん、書評を書こうが書くまいが、ある本を単に理解するために必要な姿勢でもあるのだが。

 

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法

 
読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

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