フリー哲学者ネコナガのブログ

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言語は認知や思考を規定するのか─「言語相対論」「言語決定論」の歴史と議論の行く末

 以下は、以前にこのブログに書いた記事「言語は思考を規定するのか─言語決定論の主張いろいろ」を書き直したものである。例によって相対的にあまり考えずに書いたのに相対的にアクセスが多い記事となってしまっていたので、以前よりアクセスは減るかもしれないが以前よりきちんと書き直したものである(具体的には、「また別の話」として触れないでおいた議論をいくつか加えて全体を整理し直している)。

 

 「言語は認知や思考を規定するか」というのは、現れては否定されるということを繰り返している、言わば「ポピュラーな議論」である。この発想自体はドイツのロマン主義にはじまるものだとされているが、有名なのは「サピア=ウォーフの仮説」だろう。これは言語学者エドワード・サピアとその弟子ベンジャミン・ウォーフにちなむものだが、どうも頭に残るもののようで、多くの人が一度聞いたら覚えているものである。

 その中身は後述するとして、一般に「言語相対論」と呼ばれているこうした主張には、「言語は認知や思考に影響を与える」というものから、最もラディカルな「言語は認知や思考を決定する」(こうなると「言語決定論」と呼ばれる)というものまで様々あり、あるいはそこで言う「言語」や「思考」が何を指しているかも様々である。したがって個々の議論を理解しつつ総合的に考えるしかないが、ここではいくつかの研究にふれつつ、今のところ最も妥当だと思われる結論を書いてみたい。

 

 最初に、むやみに混乱しないために少し補足しておこう。まず、「言語は認知や思考に影響を与える」という言葉は、そのままの意味で解釈するとずれてしまうことがわかる。なぜなら、「言語」が(例えば読んだことが)思考に何ら影響を与えないのであれば、そもそも伝達手段として言語を使うということが起こり得なくなってしまうからだ。これはもちろん、言語コミュニケーションが成立することと矛盾する。

 したがって、ここで問われているのはもちろん「個人レベルで」言語が認知や思考に影響するかということであり、またそこでの「影響する」とは、何らかの意味で「規定する」あるいは「制約する」というニュアンスであることがわかる。つまり、問題は「使っている言語によって認知や思考がある種の根本的な違いを生じるか」ということである。

 では、以下でいくつかの考え方を見ていくことにするが、結論から言えば、現代ではこれに対して中立的、あるいは多かれ少なかれ否定的な見解をとるのが多数派だと思われる(正確には、肯定的な主張も多くあるが、それらはどれも根拠が弱いため広く受け入れられるに至っておらず、確かなことはほぼ何も言えないということである)。

 

 まず、件の「サピア・ウォーフ仮説」である。これは、先述の通りサピアとウォーフにちなむものだが、名称自体はもちろん後からつけられたもので、現在では「言語は認知や思考を左右する」という考え方の「総称」だと言ってよいだろう。つまり、一口に「サピア・ウォーフ仮説」と言っても中身はいろいろある。したがって、これはほとんど「言語相対論/言語決定論」と同義であると言える。

 もっとも、数多あるそうした主張の火付け役となったのは、やはりサピアとウォーフ、特にウォーフの主張である(もともとはサピアの着想で、ウォーフがそれを発展させた)。思想史的にはそれ以前から同様の問いはあったにしても、その後の長い議論の始まりはここにあるからだ。ひとまずよく挙げられる「色」の例を少し見てみたいが、ウォーフは主にアメリカ先住民のホピ族の言語と英語を比較した上で主張を展開している(『言語・思考・現実』)。

 ウォーフの発想はシンプルである。まず、「色」というのは、われわれが電磁波の特定の波長を視覚的に認知することで生じる。しかし、元はといえば、電磁波そのものは連続的であって離散的ではない。にもかかわらず、われわれは色の名前を無限に持つわけではない。つまり、どこかの段階で「切り分けている」ということになるが、ウォーフは、この切り分けが「言語」によって根拠づけられるものであると考えたのだ。

 要するに、自分が使っている言語にその色の名前がなければ、その色をその色として認知することができないだろうということだ。例えば、ある言語では3つの別の色とされている色たちは、別の言語では1つの同じ色とみなされているかもしれない。そうなるともはや「世界の見え方が違う」ということである。ウォーフは、こうしたメカニズムは「絶対に従わねばならない」ものとまで言っている。いかにも言語決定論である。

 

 ウォーフの主張は、それなりに説得力を持っているように見える。しかし、問題は相関関係を因果関係と取り違えていることであった。色の例でいえば、そもそも「色表現」と「色認知」の関係を問うなら、二つの可能性が考えられるだろう。一つは「ある言語にはこれこれの色表現があり、それがその言語を使う人々の認知を決定している」というものであり、もう一つは「ある人々は色をこれこれに区別する習慣があり、その習慣が、使用する言語に反映されている」というものだ。

 前者がウォーフの考え方だが、よく見てみると、実は後者の方がはるかにありそうだということがわかるだろう。実際、後の実験によって前者の考えは反証されている。ニューギニア高地に住むある人々は色の名前を2種類しか持たないが、ウォーフが正しければ、そこでの人々は色を二種類しか区別できないことになるだろう。しかし、実験してみると英語話者と同じくらい識別できたということである。つまり、少なくとも色に関しては、言語は認知を規定していそうにない。

 

 色の話と併せて覚えておきたいのは、これまたよくある「エスキモーの雪」の話である(ちなみに「エスキモー」が蔑称だというのは誤解である)。有名な逸話だが、ウォーフによれば、エスキモーの言語では、英語では単に「雪」と呼んでいる対象をいくつかに呼び分けている(その数は3つと書かれているが、語り継がれるうちに数十とも数百とも言われるようになってしまった)。否、「呼び分けている」というのは正確ではなく、「雪」にあたる包括的な語がない以上、エスキモーにとってはそれらは別物なのである、というのがそこでの論理である。

 ここから、エスキモーは雪を表す言葉を実にたくさん持っている「がゆえに」雪を子細に区別する、イコール認知が異なるのだ、と考えるのが典型的なウォーフ主義である。しかし、これもどうやら誤りであった。なぜなら、雪にそれほど注意を払う理由があるから区別して名前をつけている、と考える方がはるかに確からしいからである(この場合は言語ではなく「文化」がむしろ制約を与えていると言える)。実際、スキーヤーが「雪」をいくつもに区別して呼ぶのも同じ理由である。必要に応じてするということなのであり、また、していないからと言ってできないわけでもない。

 

 いずれにしても、最もラディカルな「言語決定論」は、こうして反論され続けるうちにいつしか勢いを失っていったというのがとりあえずの共通認識である。ここで見たのは言語と「認知」との関係だが、あるいは「思考」との関係についても、多くの主張が相関関係を因果関係と取り違えていると指摘されている。もっとも、もう少しゆるい「言語は認知や思考に影響を与える」という主張については現在にまで議論は続くことになるので、今度は「思考」に注目して、以下に少し見てみよう。

 

 ガイ・ドイッチャーの『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』では、この流れについて「サピア・ウォーフ」から「ボアズ・ヤーコブソン」へ、というまとめ方がなされている。フランツ・ボアズとロマーン・ヤーコブソンにちなんだこの「ボアズ・ヤーコブソン」的な考え方は思考への影響を考える上で示唆的であるが、簡単にいえば、「言語間の決定的な違いは、何を表現しうるかではなく、何を表現しなければならないかにある」というものである。

 これは、外国語を学んだことがある人なら直感的にわかるだろう。つまり、ある言語を自然な形で話すためには、ある程度の文法上の制約というものに「従う」必要がある。例えば、昨晩あなたが誰かと一緒にいたとして、その時の話を誰かにするには、日本語なら「友達といたんだけど、その人が…」と話すことができる。しかし、これが例えば英語なら、ある人といたことを述べたあと「その人が」と言うのにふつう「he」か「she」と言うから、つまりその時点で、一緒にいたのが男性か女性かを「不可避的に」伝達しなければならないというわけである。

 また別の例として、「時制」への注目というのもわかりやすいだろう。ある言語ではいかなる時も何か言う度に「それがいつのことであるのか」についての情報を必ず含めねばならないところを(例えば動詞を変形させるなどして)、ある言語ではそれについて全く任意であり、さらにはそもそも時という概念を持たないと思しき言語まであったりする。あるいは、話している当のことを「どのように知ったのか」、つまり直接体験したことなのか、推論したことなのか、憶測か、人づてに聞いたのか、常に区別して明示しなければならない言語まである。

 いずれにしても、こうした「ねばならない」を生じさせるような区別の置き所が、それぞれの言語によって異なるというのがこの主張の核となる考え方である。これは、「サピア・ウォーフからボアズ・ヤーコブソンへ」と言われるだけあり、言語決定論に代わる言語相対論として、形を変えて繰り返し現れている発想である。現代の言語学で生成文法のチョムスキー派とは別の流れを形成している「認知言語学」においても、この考え方は受け継がれて洗練されていると言える。

 

 さて、それなら「言語は思考に影響を与えるのか」論争は、肯定側の勝ちということで終わりなのだろうか。否、確かに言語によってこうした違いが見出されるのは事実である。しかし、それが「思考」の違いとどのように結びつくかは、やはり難しい問題である。というのも、ここで言う「言語」とは単に話したり書いたりして外に出てきたものであって、脳(心)の中でどうなっているかは、依然として定かではないからだ。

 

 今一度、言語と思考の関係を問うにあたって重要なことを見てみよう。「言語は思考に影響を与える」と主張する場合、最も簡単なのは、「思考は言語で行われている」ということを(そうであるとして)証明することだろう。これなら話は早く、日本語話者は日本語で思考するし、英語話者は英語で思考するのだから、文法やボキャブラリーが違う以上、当然制約が異なるだろう、ということになる。

 しかし、実はこれは少なくとも哲学的にはただちに反論できる。それは背理法を使うこと、つまり「もしそれが本当ならこの点でつじつまが合わない(ゆえにその考えは誤りだ)」と示すことによってだが、例えば二つの反論が挙げられる。一つは「多義性」の問題はどうなるのかということであり、もう一つは「言いたいことが言えない」といった現象をどう扱うのかということである。

 まず前者だが、どんな言語であれ、同じ語や文でも二通りかそれ以上に解釈できてしまう場合がある。しかし、もし思考が言語によって行われているなら、ある語や文の意味は一意に決まるはずであり、「解釈」というプロセスが入り込む余地はなくなってしまうだろう(もし入り込むなら思考の中にさらに思考があることになるが、これは無限に続けうるので論理としてはまず成り立たない)。そうはならないから、少なくとも最も純粋な意味では、思考は言語では行われていないということになる。

 次に、話していて「どのように表現したらよいかわからない」となる現象の説明がつかないことである。もし思考が言語で行われているなら、迷うことなく頭の中にある「考え」をそのまま(言語のまま)外に出せばいいだろう。「いま頭の中にあるこれをそのまま出せたらいいのに!」といったことは、起こりえないはずである(芸術家もこんなにたくさんいなかったであろう)。しかし事実としてそれは起こるのであり、したがって、思考はどこかの段階で言語に「翻訳」されていると考えられる。つまり、やはり思考は言語で行われているのではないと言えるわけである。

 

 こうしてみると、言語と思考が「どう関係するか」というよりも、それらは「どのように結びつきうるのか」ということをそもそも示す必要があることがわかるだろう。上の例でいえば、話したり書いたりする時の、言わば「最後のプロセス」につきまとうはずの区別が、なぜもっと深いところにある思考のプロセスに、それも恒常的に影響を与えると言えるのかということである。その部分の論拠を抜きにしては、どこまでも表面的な、取るに足りないかもしれない違いを見出すだけに終わってしまう。

 また、もっと最近では「新ウォーフ主義」として言語と認知の関係、具体的には「物の区別」や「数概念」などが研究されてもいるが、スティーヴン・ピンカーによれば(『思考する言語』)、新ウォーフ主義のシンボル的な地位にある研究(スティーヴン・レヴィンソンらによる「空間概念」に関するもの)でさえ、ピンカーが言語決定論の成立のために示すべきだとしている三つのこと、すなわち(1)ある言語の話者が別の言語の話者にとって可能な思考法をとることが不可能か、少なくともきわめて困難であること、(2)その違いが、あやふやな状況における主観的傾向でなく、ある結論にいたるまでの現実の推論に影響を与えること、(3)思考における違いが、言語に関する別の要因(物理的・文化的環境など)ではなく、言語の違いそのものに起因すること、のうち、どれ一つとして証明できていないという。

 

 要するに、依然として肯定側の主張に決定的なものは見当たらないという状況である。また、この議論の「決着」に興味がある人もいるようだが、そもそも「言語は思考を規定する」という命題については、およそ何かが「そうではない」ことを証明することはできない以上、否定側が勝つことはないと言える(だから議論そのものが存在しないとみなすこともできる)。したがって、少なくとも肯定側が反論の余地のない決定的な証拠を提示するまでは確かなことは何も言えないのであり、目下のところは、単に「どのていど反論するか」によって立場が変わっているのだと言えるだろう。

 

 まとめると、まず「言語決定論=使っている言語によって認知や思考は完全に決定される」で現在も生き残っている主張はないと言ってよい。次に、「言語相対論=言語は認知や思考に影響を与える」は、形を変えて現れ続けてはいるが、「定説」と言えるほど広く受け入れられている発想はやはりないに等しい。したがって現時点では、「言語は思考を規定するのか」という問いについては、「わからない」と答えるのが最も的確な態度だと言えるだろう。実際のところ、この問いに光が投げかけられるにはむしろ、「言語」よりも「思考」についての研究が相応に進む必要があると言える。

 

言語・思考・現実 (講談社学術文庫)

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言語が違えば、世界も違って見えるわけ

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 この記事を書くに当たっては、特にスティーヴン・ピンカーの二つの著作を大いに参照した(邦訳では計五冊となるが、ここで触れたのはどちらも上巻の範囲である)。ピンカーは『言語を生みだす本能』で言語相対論の「死亡記事」を書いているのがよく引用されるが、より後に出た『思考する言語』では、5つの平凡な仮説、2つのおもしろみのある仮説、3つの純粋な言語決定論、3つの新ウォーフ主義の主張が網羅的に検討されており、一つの見取り図を提示している。

 一方、ドイッチャーの『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』は、ピンカーが斥けた主張の一部を救い出すことを試みている。こちらは一冊まるごとサピア・ウォーフ仮説の書と言ってもよく、関連する興味深い研究にも幅広く触れられているので、この問題に関心のある人は必読だろう。その他にも関連書は数多くあるが、決定的な学説がない以上、この問題を考えたければ、読めるだけ読むのがベターである。なお、ウォーフの『言語・思考・現実』やサピアの『言語―ことばの研究序説』は文庫で読める。


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