フリー哲学者ネコナガのブログ

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「ゲノム編集」で能力格差は生じるか─デザイナーベイビーは実現するのか

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 近年、「ゲノム編集」が社会的に話題になり始めたが、つい先日も「ゲノム編集でヒト受精卵を修復」としてNature誌に論文が出たというニュースが流れていた。ヒトの受精卵をゲノム編集することで、心臓病の一種の原因となる遺伝的変異を取り除くことに成功した、というものだ。文字通りゲノムエディティングである。

 ところで、こうした流れを受けて案の定「デザイナーベイビー」(親が望む形質を遺伝子操作で子どもに与えるという発想)への期待が高まっているようだが、さらにそこから「子どもの能力の格差まで拡大するのでは(そうした技術を使えるかという経済的格差だけでなく)」と恐れている人たちもいるということである。

 こうした発想はSFでもおなじみだが、技術が進歩する度に出てくるものだ。しかし、依然としてSFはSFであり、これについて、少なくとも当面のところは「きわめてありそうもない」という記事がニューヨークタイムズのウェブ版に出ていたので、そのあたりについてふれつつ、基本的な知識をまとめておくことにしたい。

 

 最初に貼ったNYTimesの記事では、Nature誌に出た実験で実際に何がなされたのかについて、あまりにも明快にまとめている。いわく、「時に死に至るほど深刻な心臓病の原因となる、一つの遺伝子における、一つの変異を修復した」ということだ。翻訳の素人みたいに「一つの」「一つの」と書いたが、実際ここでは「一つの」というところが重要なのである。つまり、「たった」一つなのだ。

 

 その前に、ゲノム編集技術についてごく簡単に見ておこう。一口にゲノム編集と言っても技術はいろいろあるが、今回の実験では二つの技術が対比されている。

 まず一つは、よく解説されているカット(&ペースト)方式である。ゲノム編集では、「はさみ」の役割をする「人工制限酵素」を使ってゲノム配列の狙った部分を切断する(ちなみに「はさみ」にもいろいろあり、今回使われたのは「CRISPR-Cas9」である)。こうして、例えば病気の原因となる変異部分を切り取る(ノックアウト)。切断後のDNAは自己修復する。また、切断後に特定の配列を組み入れることもできるが(ノックイン)、この場合もDNAが修復の過程でつなぎ合わせることになる。

 ちなみに、ゲノム編集が実践的に大きな意味を持つのは、従来からある「遺伝子組み換え」と違って、特定の配列を「ピンポイントで」操作できるからである。たとえを使うと、ゲノム編集が「はさみ」なら、遺伝子組み換えは投げ入れ方式である。つまり、単にはね返されるかもしれないし、狙ったところではないところに入るかもしれない。このため、とてつもない数をこなして偶然うまくいった場合に「成功」ということになり、むやみに時間がかかるわけである。

 さて、とは言え今回の研究では切り取り方式では望ましい結果が得られなかったということらしく、変異を除去できた細胞と出来なかった細胞が混ざったモザイク受精卵もできてしまったということだ。そこで二つ目の技術が登場するのだが、それはなんと受精卵を操作するのではなく、受精「前」に精子に「はさみ」をくっつけて、それを卵子に注入するというものである。この方法では、58個中42個で成功したという。またその後観察していた限りの期間では、その他の不具合もなかったらしい。

 

 「一つの」に戻ろう。ともかくこうした技術で特定の変異を取り除くことはできるし、今後もできることは増えてゆくであろう。しかし、ここから「ではデザイナーズベイビーだ」とはならないのは、要するに、実際はたった一つの、あるいは少数の変異が左右する形質などそう多くはないからである(形質とは、ざっくり言えば遺伝する性質のこと)。

 「デザイナーズ・ベイビー」で想像されるのは、例えば「見た目」を変えたり「頭をよく」したり、といったものである。しかし、こんな複雑な形質はとても一つの、あるいは少数の変異によるものではない。実際、フィジカルな部分などは単純そうに見えるが、例えば身長に影響するSNP(簡単にいえば一塩基の差)は少なくとも七百ヶ所確認されている。あるいは「知能」ともなると、DNAレベルではまだ何もわかっていないに等しいだろう。

 ともかく、ヒトゲノムプロジェクト以降、一部ではヒトゲノムの全塩基配列は「解読された」ということになっているが、実際は「同定された」だけであり、決して「意味」が理解されたわけではない、ということはいくら強調してもしすぎることはない。そこに何が書いてあるかは、依然として宇宙人の言語の翻訳を試みているようなものである(ついでに言えば、「青写真」とか「設計図」とかいった喩えももはや全く誤解を招く表現であることが明白なので使うべきではない)。

 

 ということで、近い将来に「デザイン」できそうなのはせいぜい、俗に言う「目の色」(正確には虹彩の色)など少数の遺伝子によって違いが決まっているものだけだということだ。ともかくSF的に「遺伝子を操作する」と言って想像されるような大々的な操作は到底できないのである。

 あるいは、現時点で「これができた」となっても、ほとんどの科学者が口を揃えて言うように、われわれはまだ生命の仕組みに関してはほとんど何も知らないと言ってよい、ということを理解しておく必要がある。つまり、新しい何かができたように見えても、「おかげでこんな別の問題が出てきました」という方がむしろ普通だということである。

 もちろん、単一遺伝子疾患のように、たった一つの遺伝子を持っているか否かによってある病気になるか否かが完全に決まってしまうものもある(こうした病気について選択肢を持てるようになるのはもちろんいいことだろう)。しかし、これはわざわざ「単一」とついているように実際はきわめて珍しいものであり、多くの病気や、ありとあらゆる形質の発現するメカニズムはそんなに単純ではない。ほとんどの形質は多数の遺伝子の協調や相互作用で生み出されているのであり、また、ある遺伝子が単独で特定の形質を左右しているということがわかったとしても、その遺伝子が「その形質にしか」影響を与えていないともただちには言えない。とにかく実際のメカニズムは複雑なのだ。

 

 ちなみに、個人的に思うのは、恐れるならデザイナーベイビーではなくAIだろうということである。というのも、いわゆるAIと自分の脳内情報処理が直結しているような人が近い将来に出てくるだろうからだ。もちろん最初はごく一部の金持ちだけがAI搭載人類となるだろうが、AIだけなら人間の方が得意なことも多々あるにしても、AIと人間がセットになった場合は生身の人間では勝ち目はないだろう。その意味での「格差」はまもなく出てくるはずである。皮肉なことに、ストロングAIがいつまでたってもできないコンピュータ科学者は「子どもを儲けた方が早い」と言ったそうだが、ちょうど反対に、編集するならゲノム配列よりもプログラムの方が、技術的にも倫理的にもはるかに簡単である。

 

心を生みだす遺伝子 (岩波現代文庫)

心を生みだす遺伝子 (岩波現代文庫)

 

  読書案内として、示唆に富んだ啓蒙書であるゲアリー・マーカス『心を生みだす遺伝子』をおすすめしておきたい。本書は脳と心についての本だが、遺伝とは何か、遺伝子とは何かといった根本を理解するのに非常に役に立つ。少々古い本だが、この分野ではあまりにもめまぐるしく最新情報が変わるので、逆に十年くらいの差はたいした問題にならない。個人的には今でもイチオシである。

 さらに最近はやりの領域についてはネッサ・キャリー『ジャンクDNAや同『エピジェネティクス革命』、ゲノム編集についてはNHK「ゲノム編集」取材班『ゲノム編集の衝撃』などが便利である。

 遺伝現象の複雑さを表現する意味でごく簡単に書き足しておくと、人間のDNAの97%くらいはタンパク質をコードしていない「ジャンクDNA」である(生物は複雑になるほどジャンクDNAの割合が増えることが知られている)。もともとは意味のない「がらくた」と思われてこの名前がついたのだが、実際はどの遺伝子をいつ何にどれくらい使うのかといった「制御」等に関わっていることが知られるようになった。『心を生み出す遺伝子』の表現を借りると、遺伝子は環境の変化等に合わせてオンにしたりオフにしたりできる「スイッチ」のようなものである。こうして「生まれか育ちか」は明らかに両方であることがはっきりした(ある遺伝子を単に持っているだけでは表現型=実際に現れる形質に影響するかどうかわからないということである)。

 次に「エピジェネティクス」であるが、これは「後天的に獲得した性質は遺伝しない」という正統派の主張に「反する」ような現象が確認され始めたため、そうした「DNAの塩基配列の変化を伴わない遺伝子発現の制御」を研究するものである。例えばDNAのメチル化やヒストンのアセチル化(ヒストンはタンパク質の一種で、これにDNAが巻き付いたものが染色体である)では、塩基配列が変化することなく情報が付け加えられている。つまり、DNAの塩基配列だけが遺伝情報の担い手ではないし、そこに変異がなくとも遺伝情報は変わりうるということだ。有名なのはマウスにおいて学習された恐怖が子孫に遺伝する例だが、人間でも例えば何らかの恐怖症などは先祖による学習が受け継がれた結果である可能性があるというわけである。


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