フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「信じる」ことについて

 「諦めなければ必ず~」という言い回しがある。典型的には、立場的に上の者が下の者を鼓舞したり、仲間同士で元気づけたりする際に使われるものである。もっとも、言っている張本人がすでに諦めていて、実際上は何の効力も持たないことも多い。

 

 とは言え、効力は別として、真実性はあるのだろうか。というのも、先日見かけた宣伝文句にこの言葉が含まれていたのだが、安直だなと思う一方で、これは嘘だと断言するのも憚られたからである。答えを言えば、嘘は言っていないのであった。

 なぜなら、何かを「嘘だ」と言うためには、当然ながらそれが間違っているということが明白にわかる必要があるからである。だから厄介なのだが、要するにここでは、時間軸への言及がないことが問題である。いったいいつまで諦めなければよいのか。

 これは、ある人が何かを達成せんとして諦めずに続けた結果、寿命の方が先に来て死んでも、依然として嘘にはならないということである。その場合、達成できなかったのは死んだからなのであって、もう少し生きたら達成したかもしれないからだ。

 一方、もしどこかの時点で目的が果たされれば、「諦めなければ必ず」は「本当だ」ということになり、いつまでも肯定側のポイントだけが蓄積される。要するにこの言明には、初めから真偽の判断にある種の非対称性があると言えるのである。

 したがって、「諦めなければ必ず」を含む言明は、「いつまで」についての言及がない限り、間違っているとは絶対に言えない、と一般化できる。予言などもこのように反証しえない形式を保つことで成立しているものがある(「予言とは何か」も参照)。

 

 さらに、こうしてみれば思い出すのは、いわゆる「パスカルの賭け」である。これはパスカルの断片集『パンセ』の233節にある数学者らしい発想だが、一言でいえば、「神がいるかいないかはわからないが、信じた方が得である」というものである。

 パスカルによれば、人間は有限であるため、無限である神の存在を理性で理解することはできない。しかしその一方で、人間からは理解しえないその神なる存在を人間がなぜ信じたがるのかということについては、合理的な説明ができるという。

 その論理はシンプルだが、要するに神に対する態度と神の実在性を掛け合わせて、それぞれのパターンをみる。つまり「神を信じる/信じない」と「実際に神が存在する/しない」の組み合わせであり、四つのパターンが考えられることになる。

 帰結を見ると、神を信じなかった場合、もし神が存在するなら、天国に行くという最大の機会を失うことになる。とは言え、信じておらず実際に存在しなかった場合は、たかが現世でたかが人間が行う範囲での行動の結果なので、損得は大差ない。

 一方、神を信じていた場合は、神が存在すれば天国に行けるという最大の恩恵に与れるが、神が存在しなければ、同様に現世における人間の行いの範囲での損得勘定となるので、やはり考慮に値しない。したがって、計算上は信じている方が得である。

 もっとも、パスカル本人はこれを「信じる」ことの「理由」とすべきだとしているふしがあるが、よく批判されるように、こうした計算から信仰心が生じるのかというのは別の問題である。それについては、「信じる」についてよく考える必要がある。

 ちなみに、四つのパターンを明確に分けて説明されることもあるが、パスカル本人は全てのパターンに言及しているわけではない。ただ、いずれにしても理論上は最善の結果の効用が「無限大」となる以上、他の選択肢は必ず負ける、ということである。

 

 さて、「諦めなければ必ず」と「パスカルの賭け」に共通することの一つは、前者なら「諦めなければ必ず~できる」、後者なら「神は存在する」という主張に、「反証可能性」がないということである。つまり、誤りだと証明することが不可能である。

 したがってこうしたものは「科学」では扱われないわけだが、だから伝統的に宗教の取り分となっていると言える。宗教における主張のほとんど全ては、それが正しいのか間違っているのか、少なくともこの世の論理では絶対に判定することができない。

 例えば、「死後の世界はこういうものだ」という描写は宗教によって様々あるが、様々あるいずれにもそれぞれ信じる人がいるのは、死後の世界がどのようなものか、あるいは死後の世界があるのかないのかすら、生きている限りわからないからである。

 つまり、そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。何とでも言えてしまう。しかし、「信じる」ということの強さは、本人が本気でそう思っていると、実際の行動に明らかな差が出るということである。そこでは、事実は関係がない。

 それゆえに、ある宗教を信仰するということが、その宗教の主張や論理が何らかの意味で正当であるか否かにかかわりなく、何らかの意味で「善き結果」を導くということがあり得る。こうして宗教は社会秩序の維持、あるいは倫理性と結びつくのである。

 

 もっとも、それでも宗教は善いものばかりではない。もう少し広く「思想」と言ってもよいが、何にしても「信じる」ということは、信じる内容によって、とてつもなく善いものからとてつもなく悪いものまで、実に幅広い結果をもたらすからである。

 しかし、そう思えば少なくとも気づくことが一つある。それは、実はわれわれが嫌っているのは、「信じる(信仰する)」ことではなく「考えない」ことなのである、ということである。つまり、信じることと考えないことは、イコールではない。

 というのも、どれほど考えた上で「こうである」と決めたとしても、最後に「と信じている」を付け加えることが可能だからである。これは、人間が全知全能ではない、つまり絶対確実だと言える知識を持ち得ない以上、そうならざるを得ない。

 もちろん科学的知識にしても、いつ何の拍子に刷新されるかはわからない。つまり宗教と科学の対立は、実は「どれほど考えたか」という活動の次元での差なのであって、「信じる」という性向レベルでは、最後は誰もが持っていると言えるのである。

 

 もっとも、こうして全てを「信じる」へと還元すると、「信じる」の意味が判然としなくなるという別の問題が生じるのは確かである。この最後の部分はクワインのエッセイを参照しながら書いているが、そこから一節引いて終わりにすることにしよう。

 

 「何ごとかを信ずるということは、それが正しいということを信ずることである。だから、分別のある人は、自分が信じていることは、皆、正しいのだと信じている。しかし、経験の教えるところでは、信じていることの中には、どれだかわからないにせよ、将来、間違いであることがわかるものがあると思われる。つまり、分別のある人は、信じていることは皆正しいが、その中には間違っているものもある、と信じているのである」(クワイン『哲学事典―AからZの定義集』p.44「信仰」)。

 

 これは、「信じる」ことにまつわるパラドックスである。しかし、少なくとも言えるのは、同じ「信じる」なら、徹底的に考えた上でそうするに越したことはない、ということである。なぜなら、それによって悪い結果となる可能性が低まるからである。

 そしてもう一つ言えば、何を信じているかを自覚していることである。もはや方針を神に決めてもらう時代ではないし、信じる力をどこに使うのか、考えた上で決めて、かつ更新し続けねばならない。現代では、信じることも決して簡単ではないのである。

 

パンセ (中公文庫)

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哲学事典―AからZの定義集 (ちくま学芸文庫)

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