フリー哲学者ネコナガのブログ

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「性淘汰」とは何か─もう一つのダーウィン進化論

 ダーウィンの自然淘汰説ほど誤解されている理論はないとはよく言われることだが、もっと大きな誤解は、自然淘汰説だけで生物の進化は説明できる、ということだろう。実際は、元祖ダーウィンですらすでに自然淘汰とは別に「性淘汰」について言及しているのである。

 

 「進化論」と言えば、主流派はダーウィンにメンデル流の「遺伝子」という考え方をプラスしたものがベースだが、ダーウィンと対比されるラマルクの考え方(『動物哲学』)も近年では分子生物学における多くの発見を受けて見直されているし(後天的な学習が遺伝する現象が確認された)、その他にも例えば「エラン・ヴィタール」をコアとするベルグソンの流れを汲む考え方もいつまでも無視できないだろう(『創造的進化』)。

 ともかく、一口に「進化論」と言っても実際は多様であるわけだが(数だけで言えばとんでもない誤解とトンデモ科学が多数派かもしれないが)、とは言え、ここでは基本としてダーウィンにおける「自然淘汰説」とワンセットの「性淘汰説」について少しみてみることにしよう。

 

 性淘汰説は、自然淘汰説の古典である『種の起源』とは別のダーウィンの著作、『人間の由来』において詳しく検討されているものである。これは、残念ながらあまり有名ではないにしても、実はダーウィンの自然淘汰説の論理を受けて考えてみればごく自然に到達する考えである。

 というのも、生物の目的(に見えるもの)が「遺伝子を残すこと」であることは周知の事実として、自然淘汰説は、簡単に言えば「誰が生き残れるのか」という問いのみに関わるものだからだ。有性生殖する種の場合、当然ながら生き残るだけでは遺伝子は残らない。つまり「相手を見つける」必要があるのである。

 したがって性淘汰説は「誰が子孫を残せるのか」という問いに関わるものとなるが、要するに生物には、自然界においてサバイバルできる性質とともに、異性にとってアトラクティブ(魅力的)であるような性質も求められるのである。それで初めて自分の遺伝子が残るということだ(自分で子どもを儲けない場合もあるが、生物はもともと同じ遺伝子を部分的に共有している個体に献身するようにできており、赤の他人より家族に対して骨を折るのはそのためである。後はこの範囲を後天的にどれだけ広げられるかというのが倫理の話である)。

 

 ともかく、そういうわけで生き残れるかどうかの「強さ」とは別に異性へのアピールが必要なわけだが、ではどういう性質(生物学用語では「形質」だが、ここではわかりやすくこう書く)が異性を惹きつけるのかと言えば、一般的な話をすると、生物学で主流なのは「適応的な性質の象徴となる性質を持つ個体が好まれる」という考え方である。つまり、ある性質そのものではなく、「その性質を持っているということはつまり」方式である。

 例えば、ある身体のパーツが肥大化して、明らかに肥大化するために肥大化していくような場合がある。自然淘汰(生存に有利かどうか)の観点からすれば、たいていの場合それは無駄にエネルギーを消費したり邪魔になるだけであるから、いずれ淘汰されることになるだろう。ところが、相手選びにおいては「そんな不要な性質を持っているのになお生き残っているということは、よほど強いのだろう」という論理がはたらく場合があると考えられるのである。つまり、不要なほどの身体的変化が、強さの「象徴」となるということだ。

 もっともこれは、よく見てみると結局は自然淘汰の論理に帰着していて、それなら性淘汰は表面上の話と言えるだろう。しかし、こうした機能主義的な説とは別に、「それ自体として」という説もちゃんとある。そもそもダーウィンも実はこちらなのだが、つまり、何かが何らかの理由で選ばれるのではなく、ただそれ自体であることによって選ばれるという場合である。もっと簡単に言えば、要するに「美」の問題である。生物進化は、機械論的な「生き残りのための変化」とは別に、ただ「美しいものを選ぶ」という性向によっても大きく左右されているのではないかということだ。

 実はこの記事を書こうと思ったのはニューヨークタイムズの記事(https://www.nytimes.com/2017/05/29/science/evolution-of-beauty-richard-prum-darwin-sexual-selection.html?_r=0&referer=https://t.co/J1FH0Ru5Ed?amp=1)でイェール大学の鳥類学者、リチャード・プラム氏の研究が紹介されていたからなのであるが、氏はこうした観点で鳥の「主観性」についても言及しているようで、非常に興味深いものがある。記事によれば、鳥がいろいろとカラフルなのは性淘汰の所以だということだが、あるいはそこで何らかの生得的なメカニズムによって「選ばされている」のではなく意識的に「選んでいる」のだとしたら、鳥にも「選択の自由」の問題が浮上するということにもなるだろう。われわれはまだまだ、生物のことをろくに知らないのである。

 

赤の女王 性とヒトの進化 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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 性淘汰については本書がわかりやすくおもしろい古典。ちなみに本書のコミカルに過ぎる「はじめに」は、私の中でお気に入りの「はじめに」のトップ5に入るものである。


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