フリー哲学者ネコナガのブログ

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「三段論法」の何が問題か

 「三段論法」というものがある。最も古典的な例を挙げると、「ソクラテスは人間である」という小前提と「全ての人間は死ぬ」という大前提から、「ソクラテスは死ぬ」という結論を導くというものである。三段論法にも様々あるが、ここでは専らこの型を「三段論法」と呼ぶことにする。

 さて、「三段論法を使えば論理的で正しい」としばしば言われている。しかし、「論理的」が何を意味するのかという問題は脇に置くとして(「論理的であるとはどういうことか」も参照)、ここで取り上げたいのは、「三段論法はそもそも何らかの意味で役に立つのか」という問題である。

 

 三段論法に対する批判は、例えばフランシス・ベーコンやJ・S・ミルも行っているように、早くからある。主要なものを二つほど取り上げておくと、一つは「三段論法は循環論法である」というものであり、もう一つは、要するに「三段論法は建設的ではありえない」というものである。

 

 まず前者だが、「循環論法」とは前提に結論を含むことであった。そう言われてみれば、先の例で言えば、「全ての人間は死ぬ」という前提が成り立つためには、ソクラテスも人間だから、ソクラテスが死ぬということをもすでに知っていなければならないだろう。これは一理あると言える。

 もっとも、これには一応、反論できる。これは「全ての」という言葉にかかっているが、われわれが「全ての」と言う時、厳密に全てを指していることはそう多くない。したがって、局所的な観察結果に基づくとすると、ソクラテスが新たにリストに加えられるという意味で情報価値はある。

 

 次に、二つ目の「三段論法は建設的ではありえない」という批判である。これは一つ目の批判にも関わることだが、図をイメージするとわかりやすいだろう。ここで言う三段論法とは要するに、Aという円の中にBという円があり、さらにBという円の中にCという円があるというものである。

 ゆえに「CはB」かつ「BはA」なら「CはA」であるわけだが、これは言わばあまりにも当然である。もちろんそれは実感に過ぎないが、言い換えれば、「何も発見していない」とは言えるだろう。つまり、三段論法は何かを「説明する」ものであり、「発見する」ようなものではない。

 もっとも、これについても反論は可能である。それは、単に論理的な発見と心理的な発見を区別するというものである。三段論法による証明は、確かに論理的には何も情報を加えていないが、心理的には新たな発見をなすことがありうる。人間が意識していることは、ごくわずかだからである。

 

 以上は、古典的な批判、およびそれに対する反論である。もっとも、ここまでの議論だけでも、三段論法が「あまりにも論理の世界の話に過ぎる」ということは明らかだろう。反論側も、半ば無理やり有用性を説いているかに見える。それなら、もはや三段論法を正面から疑ってみてはどうか。

 

 要するに、三段論法は実践的であるのか。「役に立つ」を問うなら、日常的に使えなければ意味がないだろう。実際われわれは現実的な場では三段論法など使っていないのであるが、つまり、三段論法がどこまでも「論理的」であり、日常との接点がないことをむしろ批判すべきではないか。

 このことは、最初に見た「ソクラテスは死ぬ」の論証を例に挙げればわかりやすい。そもそも、三段論法を使った主張を成り立たせるためには、全ての前提が絶対に正しい必要がある。しかし、議論が日常空間へと降りてきた瞬間に、これがいかにありそうもないことかは明らかだろう。

 つまり、「ソクラテスは死ぬ」と言うためには、「全ての人間は死ぬ」と「ソクラテスは人間である」が、100%確実でなければならない。しかし、医療技術の発達等で死なない人間が現れる可能性もあるし、ソクラテスとて未来からタイムトラベルしてきた人工知能かもしれないだろう。

 要するに、現実的には100%正しいと言える知識などない。そもそも、だからわれわれは「議論する」のであろう。例えば、日本の人口はこの先も減少し続けるのか。し続けるとすれば、そのことを主張する際には、「これくらいの確からしさで」といった表現を必ず伴うことになるだろう。

 あるいは、絶対確実とは言えないからこそ、われわれはわざわざ主張を裏付ける事実を示したり、その事実そのものの確からしさをも疑ったりするのである。つまり、日常的な議論には数多の「不確実さ」がつきものなのであり、さもなければ、そもそも何かを議論する必要はないのである。

 

 つまるところ、三段論法は現実的な議論の場においては「役に立たない」と言ってよいだろう。したがって三段論法の問題点は、ひとえに「現実的ではない」ということになる。こうしてみれば、三段論法の問題点は全て、古典論理学が本来的に持つ演繹的性格に起因するとも言えるだろう。

 

 ちなみに、アリストテレスから二千年ほど続いた三段論法のような非現実的な論理に真っ向から反して、「議論」を日常へと復権させたのはスティーヴン・トゥールミンである。トゥールミンの考え方は「トゥールミン・モデル」として今日のあらゆる議論の場で一般的なものとなっている。

 これは、簡単に言えば「データ(Data)」「論拠(Warrant)」「主張(Claim)」の三つの要素を基本とするもので、何かを「主張」しようと思えば、最低でも主張内容を裏付ける「データ」と、そのデータがなぜ主張の裏付けとなるかを示す「論拠」がそれぞれ必要だというものである。

 さらに、先述の問題に対処するため「ほぼ確実である」「何%確からしい」といった言葉にあたる「限定詞(Qualifier)」がここに加えられる。他にも論拠自体の正しさを示す「Backing」や主張に対する例外を主張する「Reservation」などがあるが、これが現実の「議論」の基本となる。

 

議論の技法

議論の技法

  • 作者: スティーヴン・トゥールミン,戸田山和久,福澤一吉
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 最後に書いたトゥールミンの考え方については本書にある。邦訳は品切れのようだが、原書(The Uses of Argument)は入手可能。トゥールミン自身は本書がトゥールミン・モデルの原典として読まれることを嫌っているようだが、実際、エッセイ形式で多様な発想を含むものとなっている。

 三段論法に対する古典的な批判については、ベーコンの『学問の進歩』やミルの『論理学体系』など。後者は邦訳未確認だが、原書のキンドル版(A System of Logic, Ratiocinative And Inductive)ならすぐに手に入る。近藤洋逸/好並英司『論理学入門』にある概観もわかりやすい。


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