フリー哲学者ネコナガのブログ

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「固有名」とは何か─固有名に「意味」はあるのか

 「固有名」とは、同じ種類の他のものと区別するために、ある特定のものにつけられた名前である。例えば「ドナルド・トランプ」と言えば、彼が属する「人間」というものの中から彼のみを指示することができる。もちろん同姓同名の人もいるが、文脈があれば常に特定可能である。

 ところで、固有名も一つの「語」である。それなら、他の「語」と同じく、個々の固有名もそれぞれ「意味」を持つのだろうか。素朴に考えれば、持つと言えるだろう。日常的な実感では「意味」を持たない語など必要ないと言える。したがって固有名も何らかの意味を持つはずである。

 

 さて、固有名の客観的な「意味」を考える上で最も古典的なのは、その語の「指示対象」をその語の「意味」と捉えるものである。「ドナルド・トランプ」と言って通じなければ、単に本人の前へ行くなり雑誌を開くなりして、指さしでもしつつ、「この人がトランプだ」と言えばよい。

 もっとも、この方法の問題は、例えば「アトランティス大陸」を指させと言われても無理だということである。これは、実在したかどうかも定かではない、プラトンの著作に登場する大陸である。しかし、例えば「私はアトランティス大陸に興味がある」という言明は無意味ではないだろう。

 

 つまり、ある対象は、物理的には存在しないが頭の中には存在する、ということがありうる。それなら、意味とは指示対象であるという考えは捨てて、もはや頭の中で完結させてはどうか。例えば、固有名を「記述」で置き換えてはどうか(「なぜ神は存在しないと言えるのか」も参照)。

 これは、まさに先ほど行ったように、「アトランティス大陸」を「プラトンの著作に登場する大陸」という記述で置き換えるという方法である。記述は必要に応じていくらでも増やせばよい。これにより「アトランティス大陸」が現に存在しなくても、その語は「意味」を持てるのではないか。

 

 もっとも、この考えにも問題がある。それは、これによると例えば「プラトン」は「『国家』の著者」と置き換えられるが、もしプラトンがこの記述にあてはまらないことが判明したらどうなるのか、ということである。プラトンに関する全ての記述が間違っているということもありうる。

 例えば、実はプラトンは漁師として一生を過ごしており、『国家』の著者ではなかったことが判明するかもしれない。それどころか、われわれがプラトンを示すものとしていた記述は全て、プラトンではなく「ペラトン」なる人物に当てはまっていたということが判明するかもしれないだろう。

 もっとも、その場合でもわれわれは「プラトンは漁師だった」と言うのであり、「プラトンはプラトンではなかった」などとは言わない。つまり、何はともあれプラトンはプラトンなのである。こうして固有名の「意味」を見出す試みは振り出しに戻るが、それなら前提を再考する必要がある。

 

 要するに、固有名に「意味」があると考えたことがそもそもの誤りだったのかもしれないのである。実際、固有名に意味はないと考えれば、こうした困難は解消されうる。そこで問題は「固有名とは何か」であるが、このことを斬新に表現したソール・A・クリプキの有名な議論をみてみよう。

 

  結論から言えば、クリプキによれば、固有名とは「固定指示子」の一種である。固定指示子とは、端的に「全ての可能世界で同じものを指す名前」であるが、つまりここでは、「可能世界」という考え方が導入される。われわれが「かもしれない」と語ることをも議論の対象に含めるのである。

 

  まず「可能世界」とは何かだが、これはそれほど奇抜な発想ではない。例えばサイコロを振ってある目が出たとすると、同じ状況で別の目が出ている「可能的な世界」を考えることができるが、これも「可能世界」である。可能世界は、単にそれを思い浮かべることによって生じると言える。

 したがって、「もしプラトンが『国家』の著者ではなかったら」と言えば、それはすなわち「プラトンが『国家』の著者ではない可能世界が少なくとも一つある」ということになる。ここが重要な点であるが、言い換えれば、プラトンが『国家』の著者であるということは「必然的ではない」。

 要するに、「可能世界」の考え方を採用すると、あることが「必然的」であるか「偶然的」であるかを論理的に定義できる。「必然的」とは、それが「全ての可能世界において」成り立つということであり、「偶然的」とは、「一つ以上の、しかし全てではない可能世界において」となる。

 つまり、プラトンが『国家』の著者であることは、この世界においては成り立つが、それが成り立たない可能世界もありうるから、これは偶然的真理である。したがって「『国家』の著者である」という記述を「必然的に」プラトンに当てはまるものとすると、整合性がとれないことになる。

 

  このように考えると、われわれがプラトンに帰している他のありとあらゆる記述、例えば「ソクラテスの弟子である」や「アリストテレスの師である」等々についても、およそ全てが偶然的であることがわかるだろう。つまり、プラトンが全く違うプラトンであったこともあり得るわけである。

 したがってクリプキは、先述のように固有名を「全ての可能世界を貫く固定指示子」であるとするのだが、これは、プラトンとは全ての可能世界で同一の人物を指す名前である、とする考え方である。つまり、「プラトン」と言えばいつでも「あのプラトン」を指すことにむしろ注目している。

 言い換えれば、「プラトンとはプラトン以外の何者でもない」。クリプキによれば、したがって固有名は、何かを「意味する」のではなく、単に「指示する」のである。それはある種の「取り決め」に基づくものであり、例えば「プラトン」と言うことによって、ある特定の人物が指示される。

 実際、これなら、ある人物について何も知らずに「名前だけ知っている」という状況にも説明がつく。あるいは、もし特定の記述(群)がその名前の意味なら、例えば「プラトンは『国家』の著者である」が「『国家』の著者は『国家』の著者である」と等しくなるという問題も解消される。

 

 さて、それなら、あとは「プラトン」という名前がどこから来たかである。これについてクリプキは暫定的に「最初の命名儀式によって」と答えているが、つまりここでも重要なのは「われわれが実際にどうしているか」である。最も典型的には、生まれた子どもに名前を付ける場合である。

 例えば両親が子どもに名前を付けるとすると、要するに、その名付けの瞬間に名前と対象との「結びつき」が固定され、それ以降、その名前は「固定指示子」としてはたらく。名付けの瞬間には指さしや記述が使われても構わないが、それは「意味」ではないというのが重要なところである。

 そして、ひとたび名前が付けられると、その名前は人から人へと伝達されて行く。ただし、やはり「意味」が登場する必要はない。最初の命名者は、単にその語の「使い方」を伝達するだけであり、「プラトン」にしても、そこにあるのは、脈々と続く伝達の連鎖だけだということである。

 

 この「命名儀式」と「伝達」に基づく考え方は「指示の因果説」と呼ばれており、クリプキ以降にも発展しているが、発想としてはここまででも十分だろう。ともかく、固有名はただ一定の範囲で共有される「指示対象との結びつき」を持つのであり、「意味」を持つ必要はないのである。

 

 ちなみに、クリプキの発想に基づけば同一性の問題についてもうまく処理することができる。一言でいえば、「a = b」が必然的に真となるのは、「a」と「b」の両方が固定指示子である場合だけである。先の例では、「プラトン」は固定指示子だが「『国家』の著者」は非固定指示子である。

 一方、プラトンの幼名は「アリストクレス」であったことが知られているが、それなら「プラトンはアリストクレスである」という言明は、どちらも固定指示子ゆえ必然的に真となる。プラトンとアリストクレスが両方存在して、かつ両者が同一人物ではない可能世界はありえないからである。

 

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

 

 クリプキの議論は上の『名指しと必然性』(Naming and Necessity)にある。講義に基づくものだが、邦訳も口語調であり、この分野のものとしては例外的に読みやすい。まとまった一つの理論というよりは多くの着想を示すもので、実際、本書以降の多くの議論に多大な影響を与えている。

 ちなみに、アトランティス大陸についてはプラトンの『ティマイオス』と『クリティアス』(『ティマイオス/クリティアス』)で言及されている。あるいはプラトンの幼名の話については事実性に議論もあるが、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』における記述が発端である。


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