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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「自由」とは何か─「自由」とは何でないか

 「自由」とは何か。あまりにもざっくりした問いだが、いくつかのことを整理しつつ、これについて考えてみたい。

 

 まず言葉についてみると、日本語における「自由」は、J・S・ミルの『On Liberty』(『自由論』)の訳語として定着したものであると言ってよいだろう。今では『自由論』が定訳だが、当初のタイトルは『自由之理』で、明治5年に中村敬太郎によって訳されたものである。「liberty」の訳語についてはそれ以前にもいくつか試みがあったが、最終的にここで採用されたものに落ち着いたということらしい。

 もちろん、実際には「自由」という言葉は訳語となるよりも前から別の意味で使われていなかったわけではないし(元々は「自らに由る」という意味の仏教用語でもある)、現代でも日常的には「自由」という言葉には様々なニュアンスがこめられていると言える。しかし、今日における「自由」という概念は、少なくとも議論に上る際には専ら西洋的な「liberty」や「freedom」にあたるものを指していると言えるだろう。

 では「liberty」「freedom」とは何かだが、端的に言えば、どちらも「制約されていない」くらいの意味であり、この二つの区別には特にこだわる必要はない。語源に遡ればもちろん違いは見出されるし、区別しようとする試みもないわけではないが、今日的にはこれらの言葉は学問的にも一般的にも互換的に使われており、区別するならどのみち区別を説明する必要があるからである。

 

 次に、この西洋的な意味での「自由」の歴史的な経緯を少し見てみよう。近代的な意味での「自由」は中世との関係において理解すべきなので、簡単に中世から追ってみることにする。中世を見る上で重要なのは、基本的には生まれた時から死ぬまで「個人の自由はなかった」ということだろう。周知の通り、そこでの人々は、宗教的・社会的・政治的等々、重層的なヒエラルキーに堅固に埋め込まれていたからである。

 もっとも、こう言うと誤解もある。最初から最後までそうだということは、そのことを自覚できないということだからである。つまり、中世では「自由ではない」という感覚そのものがおそらくなく、したがって「自由」という「観念」そのものがなかったのだとされる。だから「中世においては自由はなかった」はよくても、「中世の人々は自由ではなかった」は的確な言い方ではないのであろう。

 あるいは、もう一つ重要なのは、近代的な意味での「自由」という概念が「個人の自由」であることは大前提として、それなら、それが成立するには、「自由」が生じると同時に「個人」も生じなければならなかったということである。「個人」を単位にすることは現代ではむしろ当然だが、これも一つの考え方だということだ。つまり、人よりも先に社会構造があるようなところでは、「個人」という発想も弱かった。

 だからこそ、中世末期になって「個人主義」が出現するとともに初めて「自由」も徐々に生じていくわけだが、その意味では「自由」とは、「それまで自分を縛っていたものから解放されること」というのがオリジナルの意味であると言えるだろう。そして、外に出たからこそ状況を客観的に語れるようになり、「自由」に関する意識も高まってゆくわけである。

 

 さて今度は、自由に関する議論の中から有名なものを二つほど取り上げておこう。それぞれエーリヒ・フロムとアイザイア・バーリンによるものである。前者は心理的自由、後者は政治的自由を論じた古典だが、どちらも頻繁に引用されているものである。

 まずフロムだが、フロムは『自由からの逃走』において、タイトル通り人々が「自由から逃げている」という興味深い指摘を行っている。そもそも、近代的な意味での「自由」とは、ルネサンス、宗教改革を経て、時代を追うごとに「追い求められてきた」ものである。しかし、現代に目を向けると、そこでの「自由」は得たものというより与えられたものである。では、人々はそのような「自由」とどう付き合うのか。

 問題は、そもそも「自由」が得られたことによって何が失われたのか、である。フロムによれば、中世においては束縛と安定は表裏一体であった。つまり、束縛されている状態は確かに今から見れば自由度は低いが、そこで与えられた役割をこなすことによって、何か意味のあることをしているという感覚は常に得られる。また、それにより「孤独」を感じるということもない。

 一方、それなら、「自由」になる、つまりこの「束縛」から抜け出るということは、同時に「安定」を手放したということである。それは、個人にとっては時に孤独感と無力感を生じさせるものとなる。だから、ある意味で強制された「自由」は、しばしば耐え難いものとなるのである。つまり、精神的にも社会的にも「安定」を自ら得なければならない(このことは資本主義の発達とも無関係ではない)。

 さてフロムによれば、こうなった以上、取り得る道は二つしかない。一つは、一個の人格として自ら目的を定め、それに拠って立つことである。これは、「~からの自由」と区別して「~への自由」と呼ばれるものであるが、いわゆる「自己実現」にかかわるものである。それによって孤立への絶えざる不安と恐怖に縛られなくなるという方法がある。したがって確かに、その意味での「自由」をも獲得すれば問題はない。

 一方、これができなければ、言わば逆行する形で安定を求めるしかない。しかし、以前の社会などもはやどこにもないから、代替物として自分より大きな存在(と思われるもの)、つまり特定のイデオロギー等にコミットすることになる。フロムによれば、だからナチズムのようなものが生まれるのだ、ということである。「自由」が重荷であるような人々は、別の人々がそれを求めたのと同じ熱心さで、それから逃れるのである。

 

 フロムについてはこれくらいにして、次にバーリンの論文「二つの自由概念」(『自由論』に収録)にあるあまりにも有名な考察をみてみよう。

 バーリンは、「自由」の定義は二百以上あるとしつつ、歴史的に最も影響力を持ってきたものとして、総括する形で二つの「自由」の概念を挙げている。一つは「消極的自由」であり、もう一つは「積極的自由」である。前者は「どこまで支配されるのか」という問題にかかわるものであり、後者は「誰によって支配されるか」という問題にかかわるものとなる。

 「消極的自由」の方は、「他人の支配・干渉からの自由」にあたるが、つまり「避ける」ことがメインであるようなものである(その意味で「消極的」である)。これは「範囲」の問題になるが、端的に支配・干渉されない範囲が広いほど自由度も高まると言える。もっとも、自分がしようとも思っていなかったことをする可能性を妨げられても「干渉」とは言わないから、あくまでも自分が行動しようと思う範囲での話である。

 次に「積極的自由」だが、これは、「自由」のもう一つの主要な意味である「自己決定」の方にかかわるものである。「自由」と言えば、他者から干渉を受けないと同時に「自分で決める」というのも必要だろう。しかし重要なのは、これは先ほどの「支配・干渉を避ける」というものとは衝突するということである。つまりバーリンは、同じく「自由」と呼ばれていても、この二つは両立し得ないと言っているのである。

 もちろん、本来の意味からして「自分が自分を支配する」のであれば、何の問題もないと思える。しかし、自分一人で完結する目的と行動などそう多くはない。したがって、実際には積極的自由は、他者とかかわる集団的なレベルにまで展開されることになる。しかし、そうして自己の理想を政治的な次元で実現しようとすれば、実はそれによって自己あるいは他者の「消極的自由」を侵さずにはいられなくなるのである。

 要するに、自己を支配するという、個人のレベルにとどまっていれば何の問題もないように見えるある種の「欲求」は、まさにそれを実現するべくして、自己の支配を自己以外へと委ねたり、あるいは他者への支配を正当化することへとつながるのである。したがってバーリンは、どちらも根源的価値であるとしながらも、最終的にはより究極的であるような「消極的自由」を、「積極的自由」の侵害から守るべきであるとしている。

 

 さて、「自由」について少し整理したところで、そろそろ「自由とは何か」に答えたいところである。しかし、ここまでの話だけでも、これは問い自体があまりよいものではないということは明らかだろう。「自由」は、「とは何か」と言って答えられるほどつかみどころのある何かだとは思われない。その意味で「自由」についての議論は、「何であるか」よりも「何でないか」を論じているものとして理解した方がよいのかもしれないだろう。

 あるいは、元より「自由」を「議論」して何かなるだろうか、という問題もある。これは佐伯啓思『自由とは何か』で述べられているが、「自由」については、正面から論じるほど話が空虚になってゆくという独特の現象がある。そもそも、「自由」を勝ち取ってきた当の人々が「自由」について考えていたとは思われないし、もはや誰もがある意味での「自由」であることを強制されている現代では、あらためて「自由」を考えることに何のリアリティも感じられないからである。

 

 とは言えここまでの話をまとめてみると、まず、「自由」が指しているものがあまりにも多様であることは確かである。したがってすべてに共通する「本質」のようなものを探り出す試みは徒労に終わるであろう。次に、フロムの議論からわかることは、「自由」は「外から与えることはできない」ということである。「~からの自由」であれ「~への自由」であれ、本人が自分の意思で得たものでなければ、むしろ「不自由」となる。その意味で自由は常に「実践」にかかわるものである。

 もっとも、だからこそバーリンが論じたように、一口に「自由」と言っても根本的に相容れない複数の根源的価値があるということを理解する必要がある。単に「自由」とは言っても、自分にとって何が「自由」であるかは自分で決めるものであり、自分で感じるものであり、その上で自分で実践するものである。異なる価値を自分の中で、あるいは他者との間でどのように調停するかということも、やはり個人の絶えざる選択の問題となる。

 それなら、つまるところ「自由」の基本は「自分で決められる」ということであろう。そう言ってよければ、これが最も一般化された「自由」の意味である。その意味では、「自由」は「状態」というよりも「メタ状態」であると理解することも可能だろう。つまり、「自分がどのような状態でいるかを自分で決められる状態」である。いずれにしても、「自由」とは絶えざる実践の中でダイナミックに現れたり消えたりするものであり、それは常に自分の問題なのである。

 

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