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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

なぜ「神は存在しない」と言えるのか

 なぜ「神は存在しない」と言えるのか。この問いは、二つの場合に成立するだろう。一つは、誰かが「神は存在しない」と主張しており、それに対して、その主張の根拠を問うている場合である。これは当事者でなければ用がない論争であり、実際、ここで扱うのはこちらではない。

 もう一つは、「神は存在しない」の意味よりもむしろ、言明自体に注目するものである。これは「神は存在する」と信じる人の反論を実際にみることで明確となる。つまり、「存在しないのであれば、そこで言う神とは何を指しているのか。あなたは存在を認めているではないか」。

 要するに問いはこうである。「神は存在しないと考える人が、神という語を主語にして神は存在しないと言えるのはなぜか」。なお、簡潔にするため、ここで言う「神」はキリスト教における全能の神のみを指すものとしておこう。そして、これを「ゴッド」と名付けることにする。

 

 さて、ひょっとするとすぐには再反論できないこの反論には、初めに「ゴッドは存在しない」と主張した人が想定していないであろう、重要な前提が含まれている。それは、「ゴッドは」と言う以上、その語は、共有可能な形で存在する何かを指示する必要がある、ということである。

 これは、もっともなことにも思える。全ての語が常に何かを指示するかは別として、少なくとも、ただ一つの対象を指示していそうな語には指示対象が必要ではなかろうか。しかし、ここでの問題はまさに、最初の人物が、その指示対象が「存在しない」と述べていることなのである。

 あるいは、もし最初の人物が言うように「ゴッド」は存在せず、さらに、それがただ「存在しない」だけのものであるならば、この言明は「存在しないものは存在しない」と言うのと同じになってしまうだろう。これは、存在を議論する時は否定側が必ず負けるという法則なのだろうか。

 

 ともかく、確かに何も指示しない主語を置くのは不合理である。しかし、それは表面的な話にも思える。常識的には、最初の人物は明らかに無意味ではない何かを述べているからである。そこで、ここではバートランド・ラッセルの「記述理論」に倣って再反論する道を選ぶことにする。

 

 ラッセルの考え方は、実際の操作としては複雑なものだが、発想としてはシンプルである。つまり、こうした混乱は日常言語が持つ曖昧さに起因するのであり、したがって、ただ論理的な形に変換してみればよい。実際そうすると、この問題は疑似問題であることが判明するのである。

 

 結論から言えば、これによって当初の言明は、「xがcである場合に、『xはキリスト教徒に崇拝されており全能である』が真となり、他の場合にはそうならないような存在者cは、存在しない」と書き換えられることになる。これはわかりづらいが、三つの文に分けることができる。

 つまり、「『キリスト教徒に崇拝されており全能であるようなものが、少なくとも一つある』かつ『キリスト教徒に崇拝されており全能であるようなものは、多くとも一つである』かつ『何であれキリスト教徒に崇拝されており全能であるようなものは、存在する』」の否定に等しい。

 ここでは「存在する」という肯定文を分析してからその全体を否定する形となるが、さらに日常的な言い方をすれば、要するに「キリスト教徒に崇拝されており全能であるようなものは存在しない」である。論理的な操作としてはこれで終わりであるが、何が解決したのかみてみよう。

 

 まず、最初の言明と比較してわかるのは、いつの間にか「ゴッド」が消え去ったことである。もっともこれは、記述理論の核心ではない。単に、「ゴッドという語を使っている以上は、何かを指示しているではないか」という再再反論がなされないために、手を加えておいたものである。

 つまり、最初に「ゴッド」と名付けたものを、それを表す「記述」に置き換えたのである。これはあらゆる固有名に対しても行えるが、例えば「ラッセル」は「1945年出版の『西洋哲学史』の著者」といった形になる。ラッセルによれば、固有名とは縮約された記述の束なのである。

 この操作を行う利点は、指示対象が存在しない固有名についても扱えるようになることである。例えばフィクションに登場する人物は架空の存在であり、指示対象が存在しない。しかし、こうしてその名を記述に置き換えると、それについて語ることがナンセンスではなくなるのである。

 ちなみに、W・V・O・クワインがしたようにもっと大胆な方法もある。それは、「ゴッドであること」というゴッドのゴッド性を表すものとして、「ゴッドる」という動詞を導入することである。すると「ゴッド」は「ゴッドるようなもの」となり、同様に指示対象は必要なくなる。

 

 さて、ともかくゴッドという「名前に」指示対象が存在しないという問題はこれで解消される。残された最大の問題は、「ゴッド」を「キリスト教徒に崇拝されており全能であるもの」と書き換えたとしても、それが「主語」となるなら、やはり指示対象が必要であるというものである。

 そこで記述理論の真骨頂だが、要するになぜ最初の言明があれほど複雑な形に変換されたかと言えば、実は「キリスト教徒に崇拝されており全能であるもの」という「特定の何か」を指示する語句を消去するべく、不特定のものを指示する語句のみによる表現に変えたからなのである。

 つまり、もはや言明の中には「であるもの」は存在せず、「であるようなもの」だけが残る。英語で言えば、「the」が一つもない形である。そして、まさにこのことにより、「キリスト教徒に崇拝されており全能であるもの」という特定の存在を前提する必要がなくなったのである。

 要するに「ゴッドは存在しない」は、「全てのもののいずれも、キリスト教徒に崇拝されており全能であるようなものではない」と言い換えられる。ここで主語は「全てのもののいずれも」であるから、つまりこの言明は、実はゴッドではなく存在者一般について語っていたのである。

 

 こうしてみれば、「神は存在しないと考える人が、神という語を主語にして神は存在しないと言えるのはなぜか」という当初の問いについては、ラッセルが言うところの「論理的に正しく」分析すれば、そもそも指示対象などどこにも存在しなくてもよいからである、と答えられる。

 かくして、今や最初の人物の思惑は、めでたく果たされることになるのである。地味な議論ではあるが、つまるところ、こうした分析のおかげで、われわれは堂々と「神は存在しない」と主張できるのである。もっとも、ここから先は、件の反対者を説得するのは骨の折れる仕事である。

 

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 ラッセルの記述理論は『Logic and Knowledge』に収録の論文「On Denoting」が初出。邦訳は上の二冊にそれぞれ異なる訳者によるものがある。大きな批判もいくつかあるが、いずれにしてもこの論文は現代哲学の必読文献の一つ。『論理的原子論の哲学』等での説明もわかりやすい。

 クワインに倣った「ゴッドる」については、一度聞いたら忘れない「ペガサスる」が元々の例である。「On What There Is」(なにがあるのかについて)という凄いタイトルの論文にある(邦訳は『論理的観点から』に収録)。多くの議論を含むもので、こちらも現代哲学の必読文献。


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