フリー哲学者ネコナガのブログ

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「矛盾」とは何か

 「矛盾」とは、避けられるべきものである。このことは、あらゆる議論の前提として、ほとんど無条件に了解されている。しかし、われわれが端的に矛盾を避けるべき根拠はあるのだろうか。そもそも、それは避ける「べき」ものなのだろうか。あるいは避ける「しかない」ものだろうか。

 

 「話が通じることについて」等で書いたように、何であれ「根拠」を問うと、基本的には無限背進に陥ることになる(これは、懐疑論一般の特徴である)。つまり、何らかの原理を採用する根拠を「他の原理」に求めても、さらにその根拠を問えば、同じ問題に直面することになる。

 もっとも、「矛盾」の場合はどうだろうか。これが避けられるべきであることは、やはり「直感的に」理解されている。しかし、矛盾の場合に興味深いのは、それは「根拠を問うことすらできないのではないか」とさえ思われることである。それなら、どこかに「必然性」があるのだろうか。

 

 概観すると、「矛盾」とは、「PかつPでない」と表せるものである。例えば、「私は人間であり人間でない」。矛盾があると、基本的に整合性のある体系は構築できない。それゆえに避けられていると言えるだろう(そもそも、「整合性のない体系」などというのは語義矛盾である)。

 次に、「矛盾律」というものがある。これは「(PかつPでない)でない」と表せる。つまり、矛盾を認めないことが「矛盾律を認める」ことである。少々混乱するが、要は「矛盾は認めない」という原則を「矛盾律」と呼ぶ。ちなみに、矛盾律自体はトートロジーの一種である(後述)。

 

 さて、矛盾律について「根拠を問うことすらできないのではないか」と言ったのは、矛盾律は、根拠が不明であっても「否定」することは難しいからである。なぜなら、矛盾律を否定する、つまり「矛盾律は正しくない」と主張することは、その時点において誤りだと言えるからである。

 これが誤りなのは、どんな手段によってであれ、「矛盾律は正しくない」と主張したその時点で、「矛盾律が正しいと同時に正しくないことはありえない」という前提を置いていることになるからである。つまり、まさに誤りであると主張している原理を採用していることになる。

 あるいは、矛盾律はトートロジーであると言ったが、これは「(PかつPでない)でない」のPに何を入れても真だからである。トートロジーとはこのように「必然的に真」であるものをいう(逆に「必然的に偽」は「自己矛盾」である)。つまり、論理的である限り背くことができない。

 

 もっとも、ひとまず「論理的である限り」と言ったが、これを「何である限り」と言うかは、それ自体が一つの問題となる。というのも、何らかの意味で論理的であろうがなかろうが、「何かを述べる」という時点で、すでに矛盾律を採用せざるを得ない、と考えることもできるからである。

 これは、古くはアリストテレスがすでに述べていたことである。何かを述べることは、何かを「理解させる」ことであり、したがって常に「特定の」何かを述べることである。それゆえに、述語によって何か特定のことを述べるならば、「同時に」そうではないと述べることはできない。

 アリストテレスが慎重なのは、「同時に」という限定を入れたことである。例えば時間経過を考慮するなら、ある人が赤い服を着ており、同じ人が(別の時に)赤い服を着ていないことは可能である。つまり、それが矛盾かどうかを判定するには、「他の条件」を揃える必要がある。

 

 とは言え、ここで不明瞭なのは、「ない」という言葉の役割である。ここでは、繋辞としての「ある」と、同一性を示す「ある」の区別が必要となる。さもなければ、「PかつPでない」は矛盾を示すと同時に、時には(かなりの場合には)矛盾を示さないことになってしまうからである。

 例えば、リンゴは赤い(P)と同時に丸い(Q)。ここで、「丸い」ことは「赤い」ことではないから、すなわちQは「Pでない」に該当する。したがって、Qを「Pでない」に置きかえると、「PかつPでない」が成立するのである。つまり、「Pでない」が無数にありえることになる。

 

 こうした混乱を避けるため、「矛盾」についての考察を洗練させたのは、ピーター・ストローソンである。ストローソンの議論を踏まえると、アリストテレスの「何かを述べる」ということ自体への注目、「特定する」という機能への注目が、本質的には間違っていなかったことがわかる。

 

 ストローソンも、「何かを述べる」ということは、あるものが「どのようであるか」を理解させることであると前提する。しかし、注目すべきは、ある述語が「何かを述べる」なら、それは別の対象にも適用しうるが、しかし、全ての対象に適用することはできない、と考えることである。

 これは、明らかなことにも思える。しかし、ここから「何かを述べる」ということの機能が浮かび上がることになる。要するに、あることを「全ての対象について」述べるとは、すなわち「何も述べていない」に等しい。つまりこれは、その言明は「情報価値がない」ということなのである。

 したがって、逆に「何か情報を与えるようなことを」述べたければ、つまり有意義なことを述べたければ、不可避的に「境界線を引く」という作業を伴わざるをえないことになる。何かを述べるとは、ある対象が、ある文脈において、ある境界線のどちら側にあるかを示すことなのである。

 ここで、両側に置くことを「矛盾」と呼べるが、もっとも、何かを述べることと、境界線を引くことが切り離せない以上は、述べるに値する何かを述べる時点で、結局は矛盾律を認めざるをえないことになる。両側にあると述べることは、やはり何も述べていないことに等しいからである。

 

 この考えを採用すれば、先にみた「ない」についての疑問も解消されることになる。要するに、問題は何かを述べる時に「特定されるのは何か」であるが、ここで「特定される」というのは、ある述語が「他の述語から」区別されるということではない、と言えば了解可能だからである。

 つまり、あるものが「赤い」と言えば、あるものが「赤い」ことを述べているとは言えるが、「他のどのようなものでもない」ことをも述べていると考えるのは誤りである。実際は、ある対象が「赤い」と言うことによって区別されているのは、「対象」と「他の対象」なのである。

 したがって、「赤いと同時に丸い」が、一見すると「PかつPでない」であるからといって、これが矛盾しているわけではない。なぜなら、「赤い」と「丸い」は両立可能だからである。つまり、「丸い」は、「赤い」に対する「赤くない」の側に位置するわけではない、と理解される。

 

 ストローソンの議論は、矛盾律が確固たる形式を持つものではなく、あくまでも日常的に行われている「述べる」という行為との関係において理解されるべきものであることを示している。矛盾律は、単に実践の「結果」として生じるのであり、その意味において「必然的」なのである。

 したがって、矛盾律は「避けるべき」というよりは「避けるしかない」ようなものであり、その意味で矛盾律は、何よりも「自然発生的」であるとさえ言えるだろう。つまるところ、矛盾律をどうしても認めたくなければ、ただ有意義なことを何も述べないに限る、ということなのである。

 

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 ストローソンは、形式化よりも日常言語の子細な観察の中から哲学的な問題に迫ろうとする、いわゆる「日常言語学派」の中心人物の一人である。邦訳は数冊あり、いずれも手に入りづらいが、ここで取り上げた考察は、上の『論理の基礎』上巻の冒頭から。本書はまだ入手可能。

 アリストテレスの矛盾論については、特に『形而上学』など。これは訳が複数あるが、手軽なものとしては岩波文庫『形而上学〈上〉〈下〉』。なお、アリストテレスとストローソンの対比については、エルンスト・トゥーゲントハット/ウルズラ・ヴォルフ『論理哲学入門』参照。


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