フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「話が通じる」ことについて

 「因果関係とは何か」の記事で、ある事象Aとある事象Bの間に「因果関係」というものを(AとBに何が入ろうが)、認めることもできるし、認めないこともできるという考えを紹介した。余談から入るが、雑な言い方が許されるならば、これが「科学」と「哲学」の違いである。

 つまり、「科学」は、物理的、心理的、社会的等々、対象がありうる場としてどんな「世界」を想定するのであれ、「そこには因果関係が成立している」という前提を受け入れる(「ものすごくざっくり言うと科学とは何か」も参照)。この場合、それを受け入れる理由は何でもよい。

 したがって、もし「科学」を、一部の人たちがやるように宗教と見做すなら、何らかの意味での「因果関係」というものを認めることが「科学教」の一つのドグマだと言えるだろう。一方で、あえて対比すれば「哲学」は「いかなるドグマも持たない」とでも言えるかもしれない。

 

 さて、もっとも、一口に「科学」や「哲学」と言っても、その中ではやはりいくつもの異なる考えがありうる。つまり、いつ何を「因果関係」と呼ぶか、何を基準としてそう呼ぶのかは「場合による」。依然として、それが何であるかについての首尾一貫した同意があるわけではない。

 あるいは、「論理的であるとはどういうことか」では、同様に、「論理的である」ことの基盤を問うと、同意に至る必然的な理由はないという考えを紹介した。これも問題は同じである。いずれにしても、「根拠」を追究し続けると、端的に話が通じないところまで辿りついてしまう。

 

 では、なぜ、それにもかかわらず科学や哲学、あるいは日常的な場面も含め、ありとあらゆる場合において「話が通じている」のか。ここでは、この問題への一つの答えとして、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが示した「言語ゲーム」という考え方をみてみることにしたい。

 「言語ゲーム」とは、いわゆる後期のウィトゲンシュタインの著作に何度も登場する概念である。ただし、ウィトゲンシュタイン自身はこの言葉の明確な定義を行っていない。というより、そんなことは行えない、というのが、ここでのウィトゲンシュタインの主張そのものである。

 

 まず、大前提として「言葉にはそれぞれ固有の意味がある」という考えがある。これについては省くが、伝統的には哲学でも根強かったものであるし、日常的には今でも一般的である。例えば「辞書」の存在は、ある言葉には本質的な意味がある、という発想を示していると言える。

 しかし、ウィトゲンシュタインによれば、言葉の意味がこうして「先に」定まっているはずはないのである。例えば、「言語」が成立する前、最初の一人がある言葉(音)を発したとして、その時、何か意味はあるか。否、言葉は何らかの形で「共有」されていなければ意味はない。

 もっとも、ここでポイントは「何らかの形で」である。ウィトゲンシュタインによれば、実は共有されている必要があるのは「意味」ではない。われわれが実際に共有しているのは、ある場面におけるその言葉の「使い方」なのである。つまり、むしろ「意味」の根拠が「使用」にある。

 したがって、言葉の「意味」を知るには、その使用を見るしかない。もっともこれは、「使われるうちに意味が定まった」ということではない。言葉は、ただ様々に使用され続けているだけであり、そこに「本質的な意味」があると思うのは、われわれの勝手な思い込みなのである。

 言いかえれば、言葉の意味が「使用」によって定まるというより、むしろ、使用され続けていることによって、われわれがそう思い込むところの「本質的な意味」なるものがゆるやかに浮かび上がる。しかし、実際は使われるごとに微妙に違う用法を全て列挙することなどできない。

 それどころか、同じ一つの言葉が使われているからと言って、それら全てに共通する性質や特徴があるわけでもない。例えば、われわれはチェスやカードゲーム、球技や種々の競技を全て「ゲーム」と呼ぶが、それら全てに共通するものがあるかといえば、実は何もないのである。

 一方、そこにはただゆるやかな「類似」がある。ウィトゲンシュタインはこれを「家族的類似」と呼んでいるが、つまり言葉には本質的な意味などなく、相互に、相応に「類似」する形で、場面ごとに様々な「使い方」があるだけなのである。それは、ひとえに習慣的なものである。

 実際われわれは、言語を「命令」に使うこともあれば、「記述」にも使うし、「報告」「推測」「検証」「表現」「創作」「挨拶」等々、様々に使用する。つまり「言語」にも本質はない。われわれにとって「言語を使う」ということは、端的に「生活様式の一部」なのである。

 

  この考え方を採用すれば、ある言葉の「本質的な意味」は、もはや問えなくなってしまう。問題は実際にどう使われているかであり、それが全てである。先の文脈でいえばつまり、「どれが真に論理的なのか」とか、「どれが本物の因果関係か」と問うことは、単に無意味となる。

 なぜなら、表現をみれば明らかなように、ここでは「言葉が指すものが実在している」と考えているからである。しかし、実は「本質」はどこにもない。単に、場面ごとに様々な「使用」があるだけであり、違いが生じるのは、参加している「言語ゲーム」が異なるからなのである。

 言語ゲームとは、先に言ったように確定的な定義はないが、こうしてある言葉のある場面での「使い方」を学ぶことによって参加できるようなものである。言語ゲームは無数にありうる。そして各ゲームごとに、ある言葉をどのように使用するかについての慣習的な「規則」がある。

 したがって、同じ言葉の様々な使い方のうち、どれか一つを正しいと断定する必要はない。ただ、あるゲームに参加したければ、「そのゲームにおける」その言葉の使い方を習得すればよいというだけである。それを全て拒んで初めて、文字通り「話が通じない」ということになる。

 もっとも、厳密にいえば、異なるゲームの中での使い方を単に知るのと、自分もゲームに参加してその使用を共有するのは別のことである(法学では、これは「外的視点/内的視点」として区別されている)。したがって、ある言語ゲームに対する関わり方は三通りあることになる。

 

ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究

ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究

 

 哲学者としてのウィトゲンシュタインが生前に発表した著作は『論理哲学論考』だけである。また「覚書き」スタイルを好んだということもあるので(本という形で思想をまとめることを半ば諦めたと書いている)、ともかく個々の本に無理にまとまりを見出そうとしなくていいだろう。

 むしろ、そこから哲学する方法を学んだり、インスピレーションを得るという趣きで読むのが一般的である(philosopher's philosopherと言う人もいる)。したがって何から読み始めるかはまったく好みの問題であるが、言語ゲームについては上の『哲学探究』において多くの言及がある。

 「意味」の意味を問うことから始まる『青色本』はこの前段階にあたるものだが、これは文庫で読めて、例外的にふつうの文章の体である。それから晩年の『On Certainty』もおもしろい(邦訳は『ウィトゲンシュタイン全集 9』に収録)。概観にはVSIのA.C.Grayling『Wittgenstein』。


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト