フリー哲学者ネコナガのブログ

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「因果関係」とは何か

 「因果関係」とは何か。因果関係と言えば、よく言われているのは「相関関係と因果関係を区別せよ」である。これは、統計の入門書には必ず書いてある。では、ある事象Aとある事象Bの関係が、「相関関係」なのか「因果関係」なのか、われわれにどうやって区別しうるのか。

 科学においては、これらは、ある基準の元で実験と観察を繰り返すことで区別されている。しかし実際は、区別されているとされているだけである。本当に区別できているかは定かではない。なぜなら、AとBに因果関係があると「証明」することはできないからである。

 

 そもそも、「因果関係」という観念が意識され始めたのはなぜか。いつなのかは定かでないが、「なぜ」と問うなら、伝統的に言って、「全ての物事には原因がある」という考えが生じ始めたからだと言えるだろう(だとは言えないのである。相関関係と因果関係を区別せよ)。

 これは、神の存在証明にも使われうるものである。いわく、全ての物事には原因があるから、原因にも原因がある。その原因にも、さらに原因がある。これを続けると、どこかには「始まり」となったものがあることになる。それが神である。ゆえに、神は存在しなければならない。

 この論理には、意外にも簡単に反論できる。つまり、「全ての物事には原因がある」ならば、神にも原因がなければならない。神だけが特別なら、別途それを示す必要がある。否、まず先に神が存在することを示さねばならない(何しろ、この方法では証明できないのだから)。

 

 ともかく、因果関係は常に何かが厄介である。さて、因果関係について考えると、真っ先に思い出されるのはデイヴィッド・ヒュームが言っていたことである(会ってきたような言い方だが、18世紀の人である)。ヒュームの考えを知ると、より厄介になる一方で、何かがわかる。

 ヒュームが示したのは、「ある事象とある事象の間に因果関係があると証明することは不可能である」ということである。まず、われわれは、Aという事象とBという事象をそれぞれ観察することはできる。しかし、それらの間にある「因果関係」それ自体を観察することはできない。

 それなら、「因果関係」とは常に、心の中で見出されているものである。では、われわれはどのようにそれを見出しているのか。それは、単にこれまでに経験した「似たような場面」での経験を照合しているという以外には考えられない。しかし、それでは何かがおかしいのである。

 なぜなら、今までそうだったからと言って、これからもそうだとは限らないからである。これまでの経験から、手に持った石を離すと(A)、地面に落ちる(B)と「知っている」。しかし、今のところである。つまりこれは、これからもAがBを引き起こすことの根拠にはなり得ない。

 要するに、そこではある種の「斉一性」、ここで言えば自然法則が、未来永劫変わらないことが前提とされているのである。しかし、その斉一性はどう証明できるのかと言えば、同様に証明できないのである。これから起こるすべてのことを、事前に知る方法はないからである。

 

 わかりやすく整理すると、AとBに「因果関係」を認める根拠はこれまでの経験にある。とは言え、「因果関係」があると言えるためには、これからもそうでなければならない。しかし、これからもそうであることは、経験からは証明できない。ゆえに、それは因果関係ではありえない。

 つまり、ある種の「斉一性」を信じていてはじめて、ある事象とある事象が因果関係にあると言いうる。もっとも、それは信じただけであり、依然として証明したことにはならない。われわれは習慣的にそれを受け入れているだけであり、そのことの正しさは証明できないのである。

 これはヒュームの主著『人間本性論』(ただし本人が生きた当時は「主著」ではない)から、今でもよく引用される議論である。解釈はいろいろあるが、基本的には誰もが同意しているものだと言える。因果関係というものを認めるなら、その正当性は体系の外に求めるしかない。

 

 もっとも、ヒュームの限界は経験論の限界だと言う人もいる。経験論とは、程度はともかく、あらゆる知識は経験に由来すると考えるものである。ヒュームは、「因果関係」という観念さえも、Aの後にBが起こることを繰り返し観察するという経験を通して獲得すると考える。

 しかし、「因果関係」を見出したがるようなわれわれの認識の方法は、経験に先立って与えられている、と考えることもできるだろう。これならむしろ、頭の中に「因果関係」という形式が先にあるからAとBの間に因果関係を認めているのである、という正反対の考えとなる。

 実際、今日の科学の分野での研究によれば、因果関係を見出したがるわれわれの認知構造には、ある種の生得性があるということがわかっている。どうやら、乳児でもすでに「因果関係」の観念を持っているようだし、それどころか、これは霊長類一般に備わっているらしい。

 

 とは言え、問題はその観念がどこから来たかではなく、「因果関係がある」と主張することの妥当性をどうやって示すかであった。誰もが生得的に「因果関係」を見出したがるのだとしても、そのことは、「AがBの原因であることがあり得る」と認めることの根拠にはならない。

 つまり、AとBの間に因果関係があるという主張が、主張としてどのように妥当性を持ちうるのか。生得的であるということは、その使用を正当化するわけでも、それから逃れられないことを意味するわけでもない。つまりこれは、ヒュームの核心的な主張への反論にはなり得ない。

 したがって、確かに、「因果関係」という観念を「どうやって獲得するか」についてはおそらくヒュームは間違っているが、「因果関係の存在は証明できない」という主張は、依然として確からしい。「因果関係」とはつまり、どちらかと言えば「信じる」ものなのである。

 

 こうしてみると、「因果関係」という概念を受け入れるかどうか、どんな時に「因果関係がある」と主張してよいか等々、これらは全て、単に「好み」の問題ということになる。好みが一致すれば話が通じるし、一致しなければ通じない。どちらが正しいかは、証明できないのである。

 ちなみに、これに則して「相関関係と因果関係を区別せよ」を解釈すると、「実際は相関関係しかないかもしれないが、われわれは一定の基準にしたがって相関関係の一部を因果関係と呼ぶことにしているので、その基準に同意せよ」となる。同意するかどうかは、その人次第である。

 

人性論 (中公クラシックス)

人性論 (中公クラシックス)

 

 『人間本性論』は『人性論』と訳される場合もある。岩波文庫にも入っていたが(全四冊)、もう売っていない。ひとまず気軽に手に入るこちらの中公クラシックス版をおすすめする(元々は「世界の名著」シリーズに収録)。これは抄訳だが、一般向けに訳されているので読みやすい。さらに興味を持ったら、法政大学出版局から全訳が出ている(全三冊)。原文ならペーパーバックがDoverに、電子版は無料で読める。

 ヒュームの研究領域は今から見ると非常に広いが、核は人間学である。「すなわち、これまでのもどかしい捗らない方法を捨て、辺境の城塞や村落を一つ一つ占領するかわりに、諸学の首都であり中心である人間の自然本性そのものに、まっすぐ進撃することである」(『人間本性論〈第1巻〉知性について』)。昨年邦訳された評伝、ニコラス・フィリップソン『デイヴィッド・ヒューム:哲学から歴史へ』もおもしろい。

 

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