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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「論理的である」とはどういうことか

人間・思考・論理

 「あれは犬である」。ゆえに「あれは動物である」。こういう推論がありうる。これは、「あれは犬である」という前提から「あれは動物である」という結論を導いているようで、論理的に見える。しかし、これは少なくとも一つの意味では「論理的」ではない(「論理」の意味については後述)。

 

 なぜなら、ここでは「全ての犬は動物である」という前提が抜けているからである。つまり、「あれは犬である」という小前提と、「全ての犬は動物である」という大前提が両方あってはじめて、「あれは動物である」と結論付けることができる。これは、三段論法と呼ばれているものである。

 

 もちろん、「それはわざわざ言わなかっただけで、頭の中にあったのだ」という人もいるかもしれない。しかし、われわれは多くの場合、頭の中ではこうした推論をしていない。単に、瞬時に浮かび上がった知識を利用しているのである。犬であれば動物であるのは、言わば「自明」である。

 

 もとより、こうしたことが行えるからこそ、日常的な言語は「省略」に満ちている。全てを明示する必要はないのである。自分が持つ知識を相手も持つと考えられる場合、わざわざ説明しない。日常生活においては、厳密さよりも、様々な意味での「素早さ」が求められるからである。

 

 とは言え、それでも「論理」にこだわる人がいるのは、こうした便利なやり方が、同様に誤りも生じさせているからである。例えば、「すべてのロシア人はボルシェヴィキである」と、「ボルシェヴィキの中の幾人かは非民主的である」という前提があるとする。次のうち、正しい結論はどれか。

 

 (a)すべての非民主的な人々はロシア人である。(b)非民主的な人々は誰もロシア人ではない。(c)非民主的な人々の幾人かはロシア人である。(d)非民主的な人々の幾人かはロシア人ではない。(e)二つの前提からは、これらのうちのいずれも結論づけることはできない。

 

 時代を感じさせる例だが(R Revlin, et al「The Belief-Bias Effect in Formal Reasoning」からとった)、正解は(e)である。(c)を選んでしまう人がいるのは、持っている知識や信念に影響を受けているからである(ボルシェヴィキの全員がロシア人であるなどとは言われていない)。

 

 要するに、前提にないことから結論を導いてはならない。これが論理の一つの原則であるとされる。つまり人間は、論理的な時もあれば、論理的と思っていながら非論理的な時もあるということらしい。では、論理は論理で、人間がどう使うかとは関係なく、独自に完結しうると言えるのだろうか。

 

 そこで次なる疑問がある。「あれは犬である」。「全ての犬は動物である」。ゆえに「あれは動物である」。これなら厳密なのだろうか。やはりそうとも言い切れない。なぜなら、「「あれは犬である」と「全ての犬は動物である」が真ならば「あれは動物である」」という前提はないからである。

 

 わかりやすく置き換えると、問題は「AとBが真ならばC」である。しかし、AからCへと飛んだ最初のやり方において「Bが抜けている」と言ったように、「AとBが真」からCへと進む場合にも、「AとBが真ならばC」が抜けている、と言えるのではないか。このように言われると、反論は難しい。

 

 もちろん、「AとBと「AとBが真ならばC」が真ならばC」としても問題は同じである。文字が足りなくなってしまったが、三つ目の前提をDとして結論をCと呼び続けると、「AとBとDが真ならばC」という前提が抜けていると言えるからである。いつまでたっても前提が足りないと言われうる。

 

 この無限背進は、「ルイス・キャロルのパラドックス」として知られている。これが何を示しているかは、いくつかの解釈がある。例えば宗宮喜代子『ルイス・キャロルの意味論』では単に、思考の法則により「真」であることと、ある論証を受け入れるかどうかは別のことだと述べられている。

 

 あるいは、ピーター・ウィンチ『社会科学の理念』では、論理の核心である実際の推論の過程そのものは、論理的公式としては示しえないという教訓だと述べられている。どちらにしても、ここで重要となるのは、「論理的である」ということの意味を共有しているかどうかだということである。

 

 それなら、「あれは犬である」と「全ての犬は動物である」から「あれは動物である」を導くのは「論理的に正しいか」と問うのは、ナンセンスと言えるだろう。なぜなら、この論証を妥当だとみる人と、前提が足りないとみる人では、採用している「論理」が異なるとも言えるからである。

 

 つまり、「論理」は複数ありうると考える。だからこそ、何が「論理的」と感じられるかも人によって異なるのである。元はと言えば、論理学とは、思考の法則の探究であった。それは、明文化される前から誰もが使っているものである。だから、論理の規則自体は証明する必要がなかった。

 

 しかし、こうした「論理」は思考の法則を表してなどいないことがわかると、「論理」の意味は曖昧になる。実際、日常的には、「中国人の論理」「被害者の論理」など、論理という言葉は「言い分」とほとんど同義である。事実を共有していても主張が違うのは、論理が違うからなのである。

 

 さらには、三段論法のような古典的な「論理」は、知識を記述するのにも、人間の思考や行動、あるいは物理世界での現象を記述するのにも向いてないし、実践的な推論をするのにも向いてないことが、今ではわかっている。つまり、古典的な論理学が言う「論理」は、特別なものではなかった。

 

 それなら、問題は、「論理」と言った時に「どういう論理か」である。「論理的である」こと自体に意味はないのである。なぜなら、実は、誰も彼も常に既に、何らかの論理にしたがっているからである。三段論法のような古典的な論理にしたがうのも、あくまでもそれを採用したからだと言える。

 

 つまるところ、「論理」は、意識的か無意識的かはともかく、本人がその時に何かを採用するまで、何を指しているか定かでない。したがって、「論理的であるとはどういうことか」については、「論理的であるとは、何か論理があることである」とか、「何でもないことである」としか言えない。

 

ルイス・キャロルの意味論

ルイス・キャロルの意味論

 

 ルイス・キャロルは数学者・論理学者のチャールズ・ドジソンのペンネーム。ご存じのように『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』も論理遊びに満ちている。したがってルイス・キャロルの書き物の研究は少なくないが、本書は同時に論理学入門にもなっていておすすめ。アリスシリーズを読んだことない人もぜひ。

 

The Complete Works of Lewis Carroll (Illustrated, Inline Footnotes) (Classics Book 2) (English Edition)

The Complete Works of Lewis Carroll (Illustrated, Inline Footnotes) (Classics Book 2) (English Edition)

 

 ちなみに「ルイス・キャロルのパラドックス」は「What the Tortoise Said to Achilles」という短い論文が初出。リンク先で読めるが、こうしたキンドル版全集にも収められている。一冊で全集は電子書籍ならではで、容量を食うのは難点だが、何冊かを一度に参照する際にはいちいち本を切り替えなくていいので意外と便利。


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