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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「道徳」とは何か─倫理との違い、あるいは守るべきかについて

nekonaga.hatenablog.com

 先日書いた上の記事で「善い行いをするために必要なのは共感ではなく理性である」という考え方を紹介した。しかし、倫理的であるために理性をはたらかせるべきである理由は他にもある。というより、日本社会ではそもそもまだ「共感」対「理性」というフェーズまでいっていないという気もするだろう。

 そこで今回は、「道徳とは何か」について簡単にふれることで、倫理において理性を重視すべきである理由を別の角度から確認してみたい。「道徳」はつかみどころがなさそうだが、事実を集めることでそれなりに客観的に語ることは可能である。

 

 まず、前回の記事では「道徳」という言葉を「倫理」という言葉と互換的に使いたくないと言ったが、つまり私の考えでは「道徳」と「倫理」には確固たる違いがある。それは、倫理が価値中立的な概念であるのに対して、日本で道徳と言った時に指しているものは日本に(あるいは東アジアに)固有の思想体系だと考えられるからである。

 もちろん、道徳と倫理の関係やそれぞれの言葉の定義については人の数だけ考え方があるし、この問題自体を議論することはあまり建設的ではないだろう。ただ、少なくともそれぞれを区別して考えないと、これらを混同していることから生じている問題を解消することはできないと思われる。

 

 まず「倫理」の方から簡単にみておきたいが、これは端的に英語の「ethics」とほぼ同じと言ってよさそうである(そもそも「倫理」は「ethics」の訳語として定着した言葉である)。「ethics」とは「morals」を吟味して実践につなげることであり、「morals」とは善悪の区別のことであるから、つまり倫理とは「善悪の区別に根差して行為の規準を考えること、あるいはそうして考えられた規準」であると言えるだろう。

 では「道徳」であるが、これは「morals」や「morality」の訳語として使われているとは言え、指しているものは違うだろう。なぜなら、日本で言う「道徳」は先述のように一つの固有の体系と考えられるからであり、すでに個別的なものだからである。実際、道徳というものが数多い選択肢の中の一つのものであるという意識は薄いだろう。つまりある意味で絶対的なのであり、あまつさえ、ご存じのようにそれは学校で「教えられている」ものである。そこには、判断が入り込む余地がない。

 もちろん、何を規準とするかは人それぞれであるし、時代や地域によっても大きく異なっていたのは明らかだろう。例えば西洋では伝統的にキリスト教倫理が強かった。しかし、ここからもわかるように、こうした規範を外から与えるのは多くの場合「宗教」である(だからこそ伝統的には「どの宗教を信じているか」が重要だったのであり、無宗教であると言うと人でなしと思われたりしたのである)。それなら、日本で言う「道徳」も後ろに宗教があるのではないか。

 

 そこで「道徳」という言葉を見てみると、これは「道」と「徳」に分けることができて、すでに道教と儒教なのではないかという疑いが強まる。もっとも、「道」は儒教にも登場するし、道教では統一的・体系的な教えがないこと、道教も儒教の影響を受けていることなどを考えれば、主に儒教と言ってよいだろう。ともかく、日本で倫理の基盤と思われている「道徳」とは、単に中国の古典に書かれている指針かもしれないのである(ちなみに道徳という言葉が訳語として定着した経緯はともかく、言葉自体は中国の古典からきているのは事実である)。

 実際、一般的にはほとんど意識されていないが、日本は伝統的に儒教の論理が非常に強い国である。儒教については死生観についてだけ以前にふれたが(日本人の死生観と「死」について )、これは簡単にいえば「政治がうまくいけば何もかもうまくいく」という考え方を基本とする宗教であり、よく言っても「統治の宗教」、ストレートに言えば「支配の宗教」である。つまり、支配者が民衆に信じ込ませたいこと、そう思っていてくれると助かることを内面化させるための宗教だと言える。

 だから例えば「年上を敬え」といった考え方が前面に打ち出されるわけだが、これは「先に生まれたものが偉い」という考え方が浸透していると、ヒエラルキーを作るのに便利だからである(言うまでもなく「先生」という呼称もここからきている)。もちろん、誰を敬うのも自由である。しかし、われわれはその人を尊敬するから敬うのであって、年上だから敬うのではない。「年上だから」というのはシンプルに支配の論理なのである。

 

 そう思えば道徳のテキストやガイドラインは誰が作っているのかと問うこともできるが、これは端的に支配者側寄りの「年上の」人たちであろう。つまりここまでの話からすると、支配者側の老人たちが子どもたちに向けて支配の論理を刷り込もうとしているのが道徳のテキストということになる。実際、だからこそ「山登りの最中にトランジスタラジオをガンガンかけて騒ぐな」といったことが書いてあるのだろう(これは本当にある例である。パオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』を参照)。

 あるいは同書によれば、「道を歩いていていてワニのしっぽを踏んづけてしまったら、ごめんなさいと言いましょう」というのもある。これは、好意的に解釈すればナイフなどを持った人に関わってしまったという状況のアナロジーなのかもしれないが、いずれにしても、謝るのもいいが、何より逃げるべき状況だろう。しかし、身を守るよりも謝る方が重要だということである。

 もう少し『論語』みたいに狡猾にやれという感じだが、こうしてつっこみを入れていると気を逸らされそうである。しかし、これらをあわせただけでも「年上の人に怒られたらすぐに謝れ(身の危険があっても)」ということで見事に支配の論理が完成する。要するに、何も考えるな、われわれの言う通りにしろのオンパレードなのである。ここには判断の入り込む余地はない。

 

 さて、あまりいろいろと断定はしないでおくが、ひとまず「道徳」がいかに特異なものかはわかるだろう。そこで「われわれの倫理の指針はこれでいいのか」であるが、もちろんいいわけがない。要するに、道徳は倫理的な行為の指針とすべきものではないのである(誤解されるといけないので再び、あくまでもここで言っている意味での道徳だと言っておくが)。なぜなら、それには採用するに足るだけの根拠がないからである。

 要するに、倫理においては常に理性をはたらかせて、すべてをケースバイケースで考えるのがやはり最善の道なのである。その意味では、倫理はもはや個人の中で完結する時代だとも言えるだろう。現代では特に、考えていることも知っていることも、考え方もあまりにも多様だからであり、あるいはそれゆえに行為とその結果を本当の意味で解釈できるのも自分だけだからであり、いずれにしても、いつでも依って立つことのできる共通の規準はもはやどこにも成立しそうもないからである。

 実際、自分で考え抜いたのではない、外から与えられた既定の規準にしたがっていることがいかに弊害となるかは、西洋がキリスト教倫理から抜け出す過程で(現在までのところどこまで抜け出したかは別として)論じ続けられてきたことである。その意味では、日本人が「道徳」から抜け出すためにもそれらは大いに参考になると考えられるだろう。ということで最後に「理性」というものについて、ラッセルの『Am I An Atheist Or An Agnostic?』という短いエッセイ(『Why I Am Not a Christian』に収録)から引用しておこう。

 

 「問題は見解が何であるかではなく、いかにしてその見解に至ったかである。 われわれが信じるのは、理性の方がより優れているということである。もしも理性が正統派(※キリスト教の)と同じ結論を導くなら、それで構わない。それでもあなたは合理主義者である。私にとって欠くことができないのは、科学的な根拠に基づいて議論するということであり、全ての物事について、あることを「確実なもの」とみなすのではなく、程度の大小はあれ「確からしいもの」とみなすことである。絶対的に確信するのではないということが、私が思うに、合理性というものの本質の一つである」(拙訳)

 

 これは、逆に「信仰」というものがどういうものかを示しているだろう。つまるところ、合理的な判断ももちろん間違ってしまうことはあるかもしれないが、少なくとも、他の何に依って立つよりも依って立つべきであろうものは、理性的な結論をおいて他にはないのである(もちろん理性は悪い方にも使われるから、理性そのものが善いのではないが)。一方で、それゆえに倫理は客観的あるいは絶対的なものではあり得ないから、つまり常に自分の問題であり、絶えず更新しつつ、自分が考え抜いた末に自分が正しいと判断するものを選択するしかない。

 こうしてみれば「道徳」の最大の弊害は、中身以前に「この世には客観的もしくは絶対的に正しいことがある」という発想を植え付けてしまうことにあると言えるだろう。これは、子どものころから「全知全能の神」という発想に馴染ませることによる弊害と全く同じである。そうではなく、何が正しいかは自分で考えるべきであるし、その結果としての行為を評価できるのも自分だけである。倫理においては、出来合いのものをそのまま教え込むことなどできないし、そもそも何が確実に正しいことかわかっているのであれば、倫理など必要ないのである。

 

みんなの道徳解体新書 (ちくまプリマー新書)

みんなの道徳解体新書 (ちくまプリマー新書)

 

 著者の考えにどこまで同意するかはともかく、事実を知るために読んでおくとよい一冊(どんな本もそうなのであるが)。各社の道徳テキストを渉猟した著者が、その内実とともに道徳事情を紹介している。歴史的変遷についても簡単に触れられているが、歴史には登場しない道徳が社会の変化とどうかかわっているかを考えるのもおもしろい。ちなみに著者名はペンネームで、日本人だとされている。『反社会学講座』は有名。

 

Why I Am Not a Christian

Why I Am Not a Christian

 

 ラッセルは主著とは別にエッセイが大量にあるが、そのほとんどは少なくとも電子書籍では手軽に見つけて読むことができる。量という意味でも範囲という意味でもラッセルほど多く書いた人はそう多くはないが、英文は明快で非常に読みやすく、また現在に至るまで西洋文化の中で(学問の世界だけでなく、一般的にも)大きな影響を与え続けていることもあるので、教養という意味でも読んでおくことをおすすめする。邦訳書なら一般向けのものとして『幸福論』『教育論』『結婚論』などがある。ちなみに、ノーベル文学賞も受賞していることはあまり知られていないかもしれない。


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