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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「共感」はそんなに重要か─Paul Bloom『Against Empathy』

 ポール・ブルーム『Against Empathy: The Case for Rational Compassion』を読む。邦訳されていないが(たぶんされるはず)、非常にいい本だったので紹介したい。

 

 一言でいえば道徳に関する実践的な一冊だが(私は道徳という言葉を倫理という意味で使いたくないのだが、ここではmoralityを慣例通り道徳と書くことにする)、本書における著者の基本的な立場はタイトル通り「against empathy」、つまり「共感に抗う」というものである。

 といってもすぐには意味が分からないが、著者は共感なんかどうでもいいと言っているわけではない。ただ、道徳的な行いをすることに関して、近年あまりにも「共感」が神聖視されているために、これを牽制しようという意図である。共感はただちに道徳と関係があるわけではないし、むしろ道徳においては弊害を生むことの方が多いと説く。

 要するに、「共感とは無条件でよいものであり、道徳の基礎であり、共感に基づいた行動が世界をよりよくする」という、意識的か無意識的かはともかく、多くの人が無批判に前提としてしまっている発想に対して、「本当にそうだろうか」ということを丁寧に検証した本である。結論は「道徳においては、共感ではなく理性によってこそベストが尽くせる」というシンプルなものだが、順番にみてみたい。

 

 まず「共感」の定義である。著者によれば共感には「情動的共感」と「認知的共感」があるが、本書でいう「共感」はひとまず前者に限る狭義での共感である(一般的な意味での「共感」である)。これはより本能的な、基本的には誰もが常に既に行使しているものである。

 その中身はと言えば、一言で「他者が感じていることを自分が感じているかのように感じる能力」と表すことができるが、ちなみにこれは道徳哲学者アダム・スミスの古典『道徳感情論』にもすでに現れている考え方である(ただし今でいう「empathy」にあたる言葉はスミスの時代では「sympathy」)。

 ここで重要なのはともかく、共感とは一種の「機能」だということである。つまりそれ自体ではニュートラルなものであり、善いも悪いも使い方次第である。したがって共感は無条件でよい行為に結びつく「のではない」ということ、そして共感を動機とする行為が「むしろ悪い結果に結びつく可能性が高い」ということを示せれば、「共感は道徳にしばしば悪影響を及ぼす」ということを、価値判断を交えることなく「論理的に」示すことができる。

 

 共感がなぜ弊害となりうるのかということに関して、ここでは著者の主張を大きく三つにまとめてみたい。著者は、共感は社会をよくするのに本当に役に立つか?とかなりストレートに問うているが、その上で異なる問題をそれぞれ区別しつつ、冷静な分析を行っている。

 まず一つは、共感は大きな問題に関しては全く無力だということである。そもそも、社会や世界をよりよくするために道徳があるということは大前提として、では現在、社会や世界にとって問題となっているのは何かと問えば、例えば地球温暖化や石油枯渇、環境破壊、過激派グループの台頭などが挙げられるだろう。実際、これは道徳的で活動的な人々がすでに取り組んでいる問題である。

 しかし、ここで共感が登場する幕はあるだろうかと考えてみれば、全くないのである。いったい誰に共感すればこれらの問題の解決に結びつくのか。つまり、少なくとも共感では絶対に解決できない問題があるということがわかる。これは、最もナイーブに共感を謳っている人たちへのメッセージである(ちなみに、道徳的行為に対する共感以外の動機としては、名誉欲や怒り、プライド、罪の意識、特定の信念へのコミットメントなどが考えられる)。

 

 次に、共感は「視野を狭める」ということである。というのも、上のことがヒントになるが、われわれが「共感」することができるのは、ある特定の個人に対してだけだからである(これは実験結果があって、二人以上に一度に共感するのは無理である)。つまり、誰かに共感した瞬間に、他の人が一切見えなくなってしまう。

 例を考えると、財布を盗まれた友人が帰宅できるように千円あげるのはいいことかもしれないが、しかし、遠く離れた別の場所では、明日死ぬかもしれない子どもを千円で何人も救えるかもしれない。つまり、明日死ぬ確率は低い友人に千円あげるかわりにインターネット経由でその千円を寄付していれば、同じ時間と費用ではるかにいいことができたかもしれない。しかし、目の前にいる人に「共感」して道徳的欲求を満たしてしまったがために、他の選択肢はシャットアウトされてしまったのである。

 もちろん、どっちもいいことじゃないかと思うかもしれない。しかし、言うまでもなく、有限の存在である人間が現実問題として使えるリソースは限られているのである。それなら「理性」を行使して「より」よい行為を行おうとする方が、よい世界をつくるために望ましいのは明らかだろう。その意味で著者は、共感は「偏見と全く同じように」道徳的判断をゆがませると述べている。共感は、世界をよりよくするために必要不可欠であろう「視野を広げる」というプロセスと、あまりにも仲が悪いのである。

 

 さらに、これもすでに見たことと表裏一体ではあるが、共感による道徳的行為は「短期的なものに終わりがちである」というのもある。確かに、共感という動機は即座の行動に結びつきやすいが、それは往々にして欠点であることが多いのである。短期的にはよい結果には見えても、長い目で見れば事はそう簡単ではなかったという場合も多い。言いかえれば、「善い行い」をすることと、「善いと感じられる行い」をすることは異なるのである。

 もちろん、われわれは行為の結果を完全に予測することはできないし、長期的に見て何がどう転ぶかは起きてみるまでわからない。しかし、だからこそ、思い切り理性を行使した上で、できうる限りの最善の選択をすべきなのである。そうでなければ、自動的にすべての歯車がかみあって、いつの間にか世界がよくなっていたなんてことはありえない。共感の罠は思考停止にあり、結果がいいか悪いかには関係なく「いいことをした」と思ってしまうことなのである。

 あるいは、例えば貧困地域に食糧を送るというのも、常にケースバイケースで考えなければならないものである。食糧を絶えず送り続けると地元の農家は作るのをやめてしまうし、お金を送り続けると経済をまわそうという動機が抑制されてしまうからである(結果的に何も状況が変わらない)。その意味では、いくらお金があっても、いくら時間があっても、寄付であれボランティアであれ何であれ、何も考えないで道徳的に善いことをするというのはほとんど無理な相談なのである。

 

 こうして著者の主張は「共感の罠に落ちることなく、結果を見越して理性的に実践すべし」というものになる(もちろん、理性も完全ではあり得ないが)。実際は本書にはもっとはるかに具体例や実験結果や議論があるが、いずれにしても、ここで紹介しただけでも「共感イコールよいこと」ではないのは明らかだろう。ということで最後に「ではなぜ人間には共感機構が備わっているのか」というところをみておきたい。

 

 結論から言えば「人類は群れで暮らす社会的動物だから」と考えられるが(著者は共感能力について「1対1コミュニケーションを円滑にするために進化してきたのでは」としている)、これはチンパンジーとの共通の祖先から分かれて以来ずっとそうである。人類というのはわれわれが想像するよりもはるかに長い間ずっと、非常に狭い範囲の他人とのみ接してきたし、非常に狭い範囲の他人とのみ接していなければならなかった。

 それゆえに人類は、狭いコミュニティで暮らすような環境においてのみ有益であるような数々の機能を進化的に獲得してきたし、われわれは今でもそれを持ったまま全く違う環境にいるわけであるが、だからこそ、本来は非常に便利であったようなほとんど生得的とも言える自然なふるまいのうちの多くが、こうして全く異なる世界に暮らす現代人にとっては多くの弊害を生むことにもなっているのである。

 要するに、「共感」が何らかの意味で有益にはたらくとしたらそれは世界が狭い場合だけであって、現代的な意味でのワールドワイドな「世界」における道徳的行為には「共感」はお呼びでないのである。こうした「範囲が広がる」ことによる質の変化は多くあって、例えば「常識」というのも、慣れ親しんだ狭い範囲でははたらかないと困るが、馴染みのない物事について考える時には全く役に立たないどころか弊害となる典型例である(ダンカン・ワッツ『偶然の科学』など参照)。

 ただ、道徳の場合に特にやっかいなのは、こうして現代の世界では「共感」は道徳的行為の指針としては使えないことが明らかであるにもかかわらず(そしてわれわれがそう決めることができるにもかかわらず)、われわれの脳内の報酬システムは未だに共感ベースであるため、共感に基づく行為をすると気持ちよくなるようになっているということである。つまり、われわれは理性によって道徳的行為を行うべき時代にいるにもかかわらず、依然として共感による行為へのある種の生物学的「欲求」がある。

 だからこそ共感の「弊害」を説かねばならないわけだが、したがって、われわれは道徳の次元において理性を十分に行使するためにも文字通り十分に理性的でなければならないが、つまるところ現代において道徳的であるということは、思っている以上に骨が折れることなのである。しかし、それでもわれわれはそれをやるべきであるし、そう決めているのも理性である。われわれは、共感の誘惑に負けてはならないのだ。

 

Against Empathy: The Case for Rational Compassion

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赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源

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 邦訳されているポール・ブルームの本では本書がおすすめ。近代科学や哲学の大前提だった西洋的な「二元論」、つまり万物を物質と魂(ありていに言えば物と心)に分けて考える発想が、実は特殊なものではなく、われわれが赤ちゃんの時からすでに持っている基本的な認知機構と符合している、というところから始まるエキサイティングな一冊。二元論は、デカルトではなくデフォルトの世界観だったのである。


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