フリー哲学者ネコナガのブログ

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なぜ何もないのではなく何かがあるのか

www.scientificamerican.com

 

 「なぜ何もないのではなく何かがあるのか(why is there something rather than nothing?)」。これは、ウィキペディアにもマニアックなエントリーがあるが、昔から多くの人間を悩ませてきた、広い意味での哲学における有名な問いである。Scientific Americanにこれに関連する記事が出ていたので、これを機に少しみてみたい。

 

 上の記事は「無を想像してみてください」で始まるが、実はここからもわかるように、そもそもこの問題の核心には「無(nothing)とは何か」という問いがある。つまり「何もないとは何か」であるが、要するに「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」という問いは、われわれが宇宙あるいは世界を「何もないのではなく、何かがある」とみていることを前提としているからこそありうる、と考えることができるのである。

 そこで「無とは何か」だが、最も単純には「無という概念はそもそも成立しない」という発想がある。これは実際に「何もない」を想像してみればわかるが、例えば、あらゆる物質も現象もなければ空間も時間もない状態は、想像などできないことがただちに判明する。想像した瞬間に、そこには「何か」があるからである。つまり「nothing」はすでに「something」なのである(「nothing」は「何もない」と当時に「何もないようなものがある」と読める)。

 これは、ただの言葉遊びにも思えるかもしれないが、実は問題の根源を含んでいるとも言えるのである。あるいは、例えば神を信じない人と神を信じる人の話が通じないのは、どのような手段で「神は存在しない」と主張しても、「もし神が存在しないなら、あなたがそこで言う『神』とは何を指しているのか。存在しないのであれば、存在しないものについて存在しないと言って何の意味があるのか」と言われうるからである。これにどう反論すればよいのだろうか(気になる人は考えてみてください)。

 (ちなみに、記事でおもしろかったことをついでに書いておくと、『創世記』の天地創造のシーンで、英語版聖書で「creation」と訳されている元のヘブライ語「bara」の意味をよく研究すると、これはむしろ「separate」や「divide」に近いらしい。つまり神は天地を「創りだした」のではなく、天と地に「分けた」のである。そこでは「何を」分けたのかは示されていない。)

 

 ではあらためて「無とは何か」だが、この問題は、われわれの言語表現や認知能力の限界によって生じていると考えることもできる。要するにわれわれは、否定形によってしか「無」の存在を示すことができない。もっとも、逆にいえば「無」がそうした論理的な操作によってのみありうる概念だとすれば、実はわれわれが「何もない」を不可思議に感じるのは、われわれにとっての「自然な状態」が「何かがある」だからかもしれないと考えることもできるだろう。

 これについては記事で触れられているが、つまり「何もない」を自然な状態だとすると「何かがある」ような状態を説明することが求められるが、実際にはわれわれにとって自然なのは「何かがある」方なのであって(だから「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」である)、それなら「何もない(無)とは何か」はわれわれには答えられないか、あるいは問い自体が間違っているのである。本当は「なぜ何かがあるのに何もないなのか」と問うべきなのかもしれない。

 実際、論理的には「無」と言うことによって「相対的には」われわれは「何もない」という発想を了解することができるが、厳密に言えばやはりその都度「何か」がそこにあるということからは逃れることができない。あるいはそれは、確固たるものに見える物理的な世界でもそうで、あらゆる物質を吸い出した「真空」を作ってもなおそこにはエネルギーがあり、ランダムな揺らぎで素粒子が誕生してしまうことなどはもはや常識であるが、ともかく「絶対的な無」というものは、どうやら思っていたような形では存在しないのである。

 

 こうしてみれば、実は「something」と「nothing」の関係こそが問題となるが、結局のところこの問題は「カテゴリー・ミステイク」の発想で説明すると話が早いのではないかと思う。これはギルバート・ライルが『心の概念』で導入した概念だが、本人の例は、オックスフォード大学を案内された人が、カレッジや図書館、その他の建物を見たあと、「ところでオックスフォード大学はどこですか?」と問うというものである。つまり「オックスフォード大学」を特定の「建物」だと思っているわけで、これは帰属させるカテゴリーを誤っているのである。

 あるいは「チームプレーは誰の担当ですか?」というのもあるが、同様に、ここでも「nothing」がそもそもどういう性質のものであるかというところで錯誤が生じているのである。つまり、先に見たように本当は「nothing」はそれ自体が常に「something」なのであり(その中身は場合によるが)、いずれの場合においても「何もない」は「何か」の一部であるのだが、にもかかわらず「何もない」を「何か」とある意味で同列なもの、あるいは対置させるべきものと見てしまったという時点で誤りが生じていたのである。だからこそ答えようのない問いが出てきたということだ。

 

 もっとも、こうなると「何かががある」と「何もない」の境界がほとんどなくなってしまうが、これについては「空」という仏教の概念を知っておくといいのではないかと思う。以前の記事「お経を読んでみよう(第十三回)」などでも触れたが、「空」とは「有」と「無」を包摂する概念である。つまり「あるのでありないのであり、あるのでなくないのでない」ような状態である。だから「すべては空である」と説かれる。

 そして仏教では「すべては心が生み出している」というのが大前提だから、どんな存在、物質も現象も考えも、存在としては空であり、あなたの心がその瞬間瞬間に、絶対的か相対的かということまで含めて、「ある」とみたり「ない」とみたりしていると考えるのである。これなら、あるものがそれ自体として「あるかないか」と問うことに意味がなくなる。すべては空であり、どうとでもみえるからである。これは宗教に思える人もいるだろうが、精神論ではなく、実は初期の仏教は思い切り哲学なのである。

 

「無」の科学

「無」の科学

 

 「無」というテーマで(強引なものもあるが)科学と数学の範囲で各分野の専門家が関連する概念や現象について平易に語ったものをまとめたアンソロジー。日本の読書人にもおなじみのポール・デイヴィーズやイアン・スチュアートも複数の記事を寄せている。元は雑誌記事なので、さらりといろんなのを読んでみるのに便利。例えば、プラセボ効果は知っていても、ノセボ効果は知らない人は多いのではなかろうか。


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