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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

現代「肉食」考─肉を食べるとはどういうことか

人間・自然・社会

wired.jp

 wired.jpに肉食に関する記事が出ていたので、これを機会に「肉食」について書いてみたい。上の記事によれば、スタートアップの「Beyond Meat」は、植物性タンパク質をベースに肉の代用品をつくる試みをしているが、味や匂いなどの面で「肉」と見分けがつかないほどのものをつくるという目的をすでに80%ほど達成しているという。

 これは、簡単にいえば畜産業による深刻な環境破壊を前提として、それでも多くの人は肉食文化を離れることができないので、どれほどコストがかかろうとも代用肉をつくろうということだ。本当はみんなが肉食をやめるか、少なくとも減らせば話は早いのだが、確かに嗜好の問題については水掛け論になるのが常だというのは一理あるだろう。

 

 もっとも、現代において肉食を語るなら、記事では全く触れられていないし(これ自体が宣伝なのかもしれないが)、一般的にもよく知られているとは言えないが、最も重要な問題は別にある。それは、実は肉食が飢餓を生み出しているという構造的な問題である。これは自動車の利用と同じく、負の側面が全く覆い隠されている一例だ。

 これについては以前にも少し書いたが(ホッキョクグマの共食いが衝撃なら、現代人の「共食い」はどうなのかという話)、要するに、現代のわれわれが食べている肉の生産には穀物が大量に必要で、したがって穀物をそのまま食糧とする場合に比べると、肉を生産しているというだけで全体としての食糧がものすごく減ってしまっているのだ。

 数字はいろいろあるが、例えば牛肉1キロを生産するには10キロの穀物を牛に食べさせる必要がある。豚や鶏ならもうすこし少ないが、それでも育てる過程で最終的に生産される肉の何倍もの穀物を消費するということには変わりがない。だから肉を食べるということは、他の何人かの分の食糧まで食べているということなのである。

 もちろん、経済学の基本中の基本だが、分配の偏りとパイ(総量)の大小は別の問題である。しかし、計算上は穀物を穀物のまま人間が食べれば全人類の食糧をすでにまかなえるにもかかわらず、世界中で未だに十億人以上が飢餓状態にあるという事実がある以上、やはり肉食と飢餓は密接不可分の関係にあると言えるのである。

 

 さて、ここからは、とは言え「今日から肉食をやめよう」というのもまた安直だという話をしてみたい。もちろん、結局のところこうした問題はすべて、各自の思考と実践の連続であり、最終的には個人の自由ではある。しかし、やめるのがいいことだとしても、ただただ肉を食べなければ終わりかと言えば、話はそう簡単ではないだろう。

 というのも、肉を食べるか食べないかと、なぜそうするかは別の問題だからだ。確かに食糧問題だけを見れば、肉を食べない方が明らかに飢餓は減るのだから、食べない方がいいだろう。しかし、これは言わば実践だけで思考がなく、結局「思考停止」に陥っているという点では変わりがない。思考と実践は、常に両方必要なのである。

 なぜなら、本当はここには様々な問題が複雑に絡み合っていて、そのそれぞれにおいて各人が多種多様な考え方をとることが可能だからである。そんなことは当然だと思う人もいるだろうし、逆にそれに向き合いたくない人もいるだろうが、こうしたことをいちいち考えないと、少なくとも民主主義というものが成立しないのは明らかだろう。

 例えば、これは多くの場合に菜食主義にも通じる話だが、肉を食べないからといってただちに牛や豚や鶏と無縁かと言えば、やはりそんなことはない。例えば鶏の卵をはじめとして、鶏ガラやコンソメ、ポークエキスやビーフエキス等々、動物由来のものはかなりの料理に使われているからだ。それはいいのかというのは別の問題だろう。

 あるいはここには、他者の気持ちがわかるかという問題もある。例えば、だから「肉食は悪だ」と言うなら、世界には「肉しか」食べない人たちもいることを忘れているだろう。一部の極寒地域に暮らす人々は、周囲に植物がないから、生き延びるためには動物を食べるしかない(実際は肉以外の部分も食べるので、肉だけではないが)。

 

 こうして細かく見ていくと、同じ「肉食」を考えるにしても、何に注目するかによって重視するべきことが全く変わるということが少なくともわかるだろう。あるいは政治的な問題と思想や宗教的信念の区別、個人の体質の問題、文化の違い等々も考慮に入れると、結局のところ最初から人類レベルで考えているのが一番早いということになる。

 そこで初めに戻って論理的に整理すると、まず「飢餓を生じさせるから肉食は問題だ」があり、では仮に全員に食糧が行き渡るのなら肉食万歳なのかといえば、次に「畜産業が環境に対して破壊的な影響を持つから問題だ」がある。しかし、それなら環境問題もケアした上での肉食なら問題ないかといえば、次には倫理の次元もあるだろう。

 倫理の次元とはつまり、何を取るにせよ、そもそも人類のあり方としてそれでいいのかという問題である。ここで急に議論への参加者が増えるのだが、もっとも、多くの場合においてこうした複雑な問題に答えを与えるのは、最終的には倫理的な判断である。それは、倫理の次元での主張が基本的に「定言的」であることからもわかるだろう。

 「定言的」とは、前提なく無条件に、ということである。例えば人を殺すのがいけないのは、殺したら殺されるからではなく、罰せられるからでもなく、あるいは人の命が大切だからでさえもなく、端的に「殺してはいけないから」なのである。これは、それ自体としてそのまま内面化している場合にしか実践しようがない類のものだ。

 そして、こうした「倫理」こそ、その人が依って立つ思想そのものなのであり、結果として数多の具体的な問題を考える際にも影響を及ぼすことになる(そうでなければ嘘つきである)。だから「肉食」に関しても、まずは各人が倫理の次元における自分の考え方を徹底的に吟味するというのが、実践のためには致命的に重要となるのである。

 

 そこであらためて「肉食」をどう見るかであるが、要するにこれは「共感」の問題だとまとめることができる。つまり、まず人類の中で「他者の気持ちがわかるか」という問題であり、次には「他の動物の気持ちがわかるか」という問題である。もっとも、重要なのはもちろん人類の飢餓をなくすことだが、実は後者の問題も全く無視できない。

 というのも、前者は肉を「食べるか食べないか」の問題であるのに対して、後者はそもそも動物を「殺すか殺さないか」という問題だからだ。当然ながら、殺さなければ肉を食べることはできない。したがって、実は後者のレベルで考えることによってこそ、同時に両方の問題について矛盾のない立場を見出すことができるのである。

 もちろん、先に見たように、ここで即座に「肉をいっさい食べない」という選択を取ることはありうるし、どうしても何も考えたくない人は思考停止したままそうすればいいだろう。しかし、これでは他者との相互理解は難しいし、また論理がない以上、議論の前提や状況が少しでも変われば自分の態度を決めることができないことになる。

 あるいは人類史を見れば、人類が大量生産よりもはるかに以前から家畜という発想とともにあり、また狩猟によって食糧を担保してきたことを考えれば、やはり「全く絶つべき」と主張するにはそれなりの論理が必要だろう(ここで安直に「時代は変わる」と言うなら、金持ちの道楽にしか見えない「代用肉」なども同時に認めることになる)。

 いずれにしても、好き放題にやるのが極端なら、いっさいやらないのもまた極端なのである。だからどちらも長続きしそうにないということがわかるが、したがって多くの人は「ほどほどに」という常識的な結論に至るはずである。しかし、ここでも問題はやはり背後にどのような倫理と論理があるかである。これについて最後に見てみたい。

 

 唐突だと思われるかもしれないが、仏教には「中道」という考え方がある。これは、もともとは王子として生まれた釈迦その人が、出家して苦行に身を投じて、しかし快楽も苦行も無意味だとして「瞑想」に入った後に悟りに到ったことを指すが、一般化されて「矛盾対立するどちらの立場からも離れた自由な立場」を意味するようになった。

 ここで重要なのはつまり、中道の「中」(「道」は実践を指す)が、単に二つの立場の「中間」を意味するのではないということだ。言わば、水平軸上で中間点をとるのではなく、垂直軸上で上に上がって、両極端を見渡せる地平に立つのである。これは私も常々実践につとめているものだが、社会的な問題を考える際にも非常に役に立つ。

 そこで「肉食」における「中道」だが、これついて私が最も共感するのはヨーガ行者の成瀬正春氏の考え方であるので(『時間と空間、物質を超える生き方』)、それを紹介することにする。成瀬氏はヨーガ行者なので中道とは言っていないが(とは言えもともとヨーガと仏教は表裏一体だが)、まさに中道を感じさせられる思考と実践である。

 私なりにまとめると、肉食についての成瀬氏の判断基準は「動物虐待」がキーワードとなっている。つまり、先に見たように「食べるか食べないか」以前の「共感」の問題である。簡単にいえば、まず自然界では文字通り弱肉強食は「自然」のことであるので、そうした現象は止める理由がない。実際、これがなければ食物連鎖も進化もない。

 しかし、現代人が食べている肉は、自然からとってきたものではない。それは、人間に食べられるために生まれた瞬間から囲いの中で強制的に太らされ、殺されるべく運命づけられた動物である。そこには動物の自由がない。これがつまり「動物虐待」だが、動物を「殺すかどうか」以前に「自然かどうか」という基準もあるということだ。

 

 私の食の選択は、身体に良いからということではないのです。(中略)「動物を殺すことをなるべく避けたい」というものです。生きるということは、何かを犠牲にして食を得ているので、「完全菜食主義者」になって、「私は動物を殺していません」という姿勢を取る気はないのです。私の考えていることを、もう少し表現するなら、「動物を殺したくない」というより、生まれてきた動物が、その生命を「全うできるように」と思っているのです。(p.186-7)

 

 つまり、自然の中で生まれて、その動物としての自然な生活を送る中で、より強い動物に食べられてしまうというのは、自然の摂理そのものなので仕方がない。この場合には、その動物にとっての生は全うされていると言えるからだ。だからこそ成瀬氏は、わざわざ「動物を殺しません」とは言わないのである。それはそれでおかしいからだ。

 しかし、一方でできるから何でもやっていいわけではないということである。無批判な肉食には、明らかに他の動物への慈しみや尊敬が欠けている。つまり問題は、食べるか否かではなく、そもそもどういう倫理観を持っているかである。それがそのまま実践に現れるのであり、動物に共感を持つほど、肉食は必然的に減ることになるのだ。

 成瀬氏の倫理観は「生まれてきたことと生きることは、あらゆる動物に等しく与えられた恵みだ」とまとめられることになるが、こうした抽象的な思考や体感があるからこそ、それが実践の次元にそのまま降りてきて、肉を食べようとすると嫌悪感を感じることにもなるのである。そして、その根本にはやはり「共感」の問題がある。

 

 そこで「共感」をどう担保するかだが、それはまさに、こうした現実に向き合えるか、あるいはきちんとした知識を持っているかにかかっているだろう。その上で動物に共感を持てるように訓練を積むのだ。例えば、食卓で肉を目にしたら、その肉がなぜ、どこからどのように「私に食べられるもの」としてやってきたのかを考えるのである。

 これは、見える世界を広げるために細かい情報まで「意識に上げる」ということで、成瀬氏の言い方では「意識の拡大」となるが、仏教でも瞑想の基本として広く説かれていることだ。こうして目の前だけでなく様々なものが体感レベルで見えるようになっていくと、肉を目にしただけで嫌悪感を抱くという状態にはわりとすぐに至るだろう。

 実際、私自身もある時からこういうことをやっていたら、すぐに嫌悪感を抱けるようになった(変な言い方だが)。もっとも私の場合はもともと食に喜びや楽しみを見出す習慣がないし、肉食も平均的な人と比べるとはるかに少なかったので、それで早かったというのもあるだろうが、ともかく誰にでもすぐに実践できるのは間違いないだろう。

 

 かけ足で実践の方も見てみたが、ともかくこうした倫理観、あるいはその前提となる知識や実践する方法を広めることが、結局は人類が肉食から離れるいちばんの近道ではないかというのが言いたかったことである。というのも、先に書いたように「倫理」というのは論理的な結論とは違って、体感レベルで内面化するしかないものだからだ。

 したがって、まずは現状認識ということで事実を広めると同時に、成瀬氏のように実践のやり方を様々な角度から広めるということにものすごく価値があるだろう。歴史を見ても、人類の誤りはたいてい「無知」から生じているので、知識を広めた上で良心に期待するというのは、的を外さないどころか、最終的にはそれしかないのである。

 あるいはもう一つ私が実践しているのは、みんな肉を食べそうな食事の席でも、あえて肉を食べないというものである。そうするとほぼ必ず理由をきいてくるので、こうした知識を広める機会を持つことができる。そして共感する人が増えれば、「焼肉大好き」みたいな文明社会における野蛮人も次第に認識を改めてゆくと考えられるだろう。

 ちょっと肉食について書きたかっただけなのに結構な分量になってしまったが、とりあえず終わりにすることにして、まとめると、人類レベルで考えれば明らかに先進国における肉食は減らしていった方がいいのであり、またそれを人類レベルで行うには、結局は倫理的な意識を身近なところから広めてゆくことが重要だという話であった。

 


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