フリー哲学者ネコナガのブログ

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「名言」とは何か─名言はなぜ誤解されるのか、あるいは名言の本当の使い方

 「名言」というものがある。一般的にはこれは「偉人たちが残した」簡潔な言葉であり、時に「人生の役に立つ」とされているものである。そういった本も大量に出ているし、それだけ出るということは読んでいる人も多いのであろう。

 しかし、一方で「名言とは、誤解されるものである」と言ってもよいくらい、名言はしばしば誤解されている。こちらはこちらで、本やブログで具体例が指摘されている例も少なくない。

 そこで今回は、そもそも「名言とは何か」ということを考えた上で、「名言はなぜ誤解されるのか」にふれつつ、さらに「名言(本)の本当の使い方」について考えてみることにしたい。

 

 最初に結論から言えば、名言とはある種の「インデックス」であり、中身を理解するのには時間がかかるものである(逆に言えば、理解するのに時間のかからないものは名言ではない)。したがって「なぜ誤解されるのか」を言えば、端的に「そもそも理解しようとしていない人が多いから」となるだろう。順番に見てみる。

 

 まず、一般的にイメージされる「名言」の特徴は、それが「簡潔であること」、そして「にもかかわらず深みのあるメッセージを含んでいること」だと言えるだろう。これが両方あるからこそ「名言」と呼ばれているし、広まっているわけである。多言を費やして深みのある内容を語ったものなら、哲学書などはみなそうだが、たいして読まれないし、逆にいくら簡潔でも、中身がなければ意味がない。名言は、あくまでもシンプルであり「かつ」深みを持っている言葉である。

 もっとも、それなら「名言」にふれた時は、その「短い言葉」から深みのあるメッセージの全貌つまり「意味」を引き出す必要があるわけだが、実際にはそれは簡単な作業ではないだろう。何しろそこには明示されていないのだから、自分で補う必要がある。つまり相応の知識や経験が求められるわけだが、だからこそ、名言とは「理解するのに時間がかかる」ようなものだと言える。

 これに従えば、名言を「誤解」している人、あるいは「名言本を読めば、少ない労力で有益な知識が得られる」と思っている人は、実際には「名言にふれていない」とさえ言えるだろう。要するに、その言葉を本人が言った意味で理解できているかどうかには興味がなく、あくまでも自分で勝手に解釈して、やる気を出したり心の支えとするのに「利用している」わけである。時には、言ったのが誰かということすら無視される。

 もちろん、こうした「使い方」をするのも自由だし、それはそれで効用はあるのだろう(いや、ないからこそ次から次へと形を変えて名言本が出版され続けるのかもしれないが)。しかし、何らかの効果があるとは言え、それによって「誤解」を蔓延させたり、誤った知識をつけていても仕方がないというのもまた事実だろう。結局のところ、こうした「使い方」は一種の娯楽にすぎないわけである。

 

 そこで「名言とは何か」をもう少し詳しく見てみると、「名言」を「情報量」の観点から考えることもできる。これについて少しみてみたい。

 基本的なところから進むと、今日の社会で「情報量」と言えば、ビットで測られるようなもの(いわゆるシャノン情報量だが、ここでは確率の問題を無視している)をイメージする人も多いだろう。つまり、取りうるすべての場合の数の対数をとる。

 例えば、喫茶店に入ってまずコーヒーにするか紅茶にするかを選ぶ(この喫茶店では、メニューはコーヒー1種類と紅茶1種類しかないものとする)。次に、どちらにしてもミルクの有無と砂糖の有無を選ぶものとすると、2^3で選択肢は8種類となるが、ここで指数の3がそのままビット数である。だからこの喫茶店での注文は、すべて3ビットで表せる。

 こうしてすべてを二択の組み合わせととらえると、情報を定量的に扱えるようになる。もっとも、これは日常的な意味での「情報量」とは大きく異なっているだろう。なぜなら、一般的に言う「情報量」とは「われわれにとってどれほど有益か」の尺度なのであり、ビット数が多ければいいというわけではないからだ。名言の場合で言えば、何と言ってもビット数はむしろ「少ない」ことに特徴がある。

 

 そこで、情報論に「意味の深さ」を持ち込むための一手段として、その情報を生み出すプロセスで「どれほどの情報を捨てたか」をみるという考え方がある。トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』に倣ってこの「捨てた情報」を「外情報」(「information」と対を成す「exformation」という造語の訳語)と呼ぶと、長くなったが、「名言」とは「外情報が多い情報である」ととらえることができる。

 つまり、実際に現れたものは簡潔だが、それを生み出すまでに捨てた情報が多い。言いかえれば、膨大な量の経験が抽象化され、表に出てくる情報が減らされている(外情報が増えている)のである。もっとも、実はこれ自体は日常的な「会話」でも行われていることである。例えば「ジョンが来た」と言えば、「ジョン」という名前の人物は世界中にいるにもかかわらず、今言った「ジョン」がどの「ジョン」を指すかは伝わる。

 要するに、われわれのコミュニケーションは本来的に「コンテキスト」を共有していることによって成り立っているのだが(「意味」の問題については「言葉の意味はどこにあるのか~「村上春樹は、むずかしい」」や「「重複表現」の問題(2)なぜ「違和感を感じる」に違和感を覚えるのか」も参照)、それなら「名言」から意味を読み取る際にも、やはりコンテキストを共有する必要がある。つまり、われわれは名言そのものではなく、その外情報、言わば「外名言」の方をこそ理解しなければならないのである。

 そこで「外名言」とは何かであるが、実は多くの場合、外名言とはその名言を言った人の人生そのものなのである。つまり、その人のありとあらゆる経験の蓄積、思考の蓄積を圧縮して最後に表に出てきたのが「名言」なのであり、したがって、名言とは「言った人の全人生を文脈として解釈しなければならない言葉」ということになる。つまり、名言とは外名言を知るための入り口であり、名言本とはそれ自体が索引のようなものなのだ。これが「名言とはインデックスである」ということの意味である。

 

 もっとも、「言葉の意味は、それを言った人の全人生を文脈として成り立つ」というのも、理論上は全ての言葉について言えることである。多くの場合には、単にその必要がないだけで、例えば「リンゴ」という言葉をやり取りするには、自分の人生と相手の人生の中でリンゴに関する「似たような経験」があればそれで事足りる。つまり、多くの人がリンゴの色を実際に見たことがあるし、リンゴを食べた経験があるから意味が通じる。アンドリュー・ぺリング氏のように、リンゴに人間の細胞を移植した経験は必要ない(リンゴから耳を作るマッドサイエンティスト | TED Talk)。

 反対に「名言」というのは、それを言った人の人生における経験が、多くの人のそれとはかけ離れている。だからこそ、そのような経験を共有していない人にとってきわめて興味深い、有意味なものになるのであり、一方で「すぐには意味がわからない」ことになる。要するに名言とは、「その人のような生き方をすれば、どのような景色が見えるか」を教えてくれるものなのである。だからこそ、言った人と切り離したら何の意味もないし、自分の経験の範囲内で勝手に解釈すると、大きく誤解することになる。

 

 したがって、最後になるが、これを逆から言えばそのまま「活用法」となる。つまり、名言本を読むなら「こんな言葉が出てくるような体感を味わってみたい」という言葉を見つけて、それを言った人の人生について徹底的に知るのである。要は「ロールモデル」を見つけるために名言本を利用するわけだが、だからこそ新たなことを学ぶきっかけになりうるし、時にはまさに自分の人生に影響が出るほどになったりする。ともかく名言本の読書というのは、名言本を読んだだけでは完結しないということである。

 

 あまり目新しいことは言わなかったかもしれないが、「名言とは何か」をそれなりにハッキリさせることには成功したのではないかと思う。まとめると、名言とは「相対的に特殊であるような膨大な経験を圧縮したもの」であり、したがって「それ自体の情報量(ビット数)は少ないが、潜在的情報量(意味)がとてつもなく多い言葉」である。だから理解するのに時間はかかるが、そこから多くを学べる、ということである。

 

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

  • 作者: トールノーレットランダーシュ,Tor Norretranders,柴田裕之
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 原著は20年以上前の本だが、今読んでも新鮮なところがある。タイトル通り「意識は幻想である」という面がよく注目されているが、最大の特徴は領域横断性にあり、宇宙は情報でできているということに思いを馳せるのに最適な一冊。


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