フリー哲学者ネコナガのブログ

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なぜ「科学」はいくつかの分野に分かれているのか─どこまで科学で扱えるのか

nekonaga.hatenablog.com

 

 先日の記事「ものすごくざっくり言うと「科学」とは何か」を踏まえる形で、科学についてもう少し書いてみたい。前回見たところによれば、理念としての「科学」の特徴は次の通りである。

 

  • 自然現象を、背後にある「法則」の存在を探るために見ること
  • 普遍的な法則かどうかを確かめるために「実験」を行うこと
  • 共有可能性を担保するため、数学的に記述すること

 

 これが、ざっくり言うと「科学」を他の知的探求から分かつものとなる。もっとも、言っておいたように現実に「科学」と呼ばれている全てがこの通りかは疑問の余地もあるし、当初の科学と現代で言う科学を比べると、付け加えることはたくさんある。

 そこで今回は、「科学は何をどこまで扱うのか」という問題、そして「なぜ科学はいくつかの分野に分かれているのか」という問題を考えることで、別の視点から「科学とは何か」を描いてみることにしたい。

 

 まず「科学は何をどこまで扱うのか」だが、最初に踏まえておくべきは、「科学」というのは人間が行うある種の営みにつけた名前であるから、理論上は「科学が扱うべき領域」というものが初めから決まっているわけではないということだ。つまり、「科学的かどうかは、対象ではなく方法による」。科学的な方法で研究すれば、対象が何であれそれは科学になるのである。だから、真っ先に「非科学的」とされる「超常現象」のようなものでも、科学的な方法に則って研究できるのであれば、科学の範疇に入り得ないわけではない(現在入っていないのは、今のところそれが難しいからである)。

 

 では「現実的には」科学の扱う領域はどのように決まっているのかであるが、ここで重要なのは、科学には「実験」が不可欠であるという点である。実は、人間が行う「科学」が扱う範囲が(あるいは、ある時代ある場所で扱う範囲が)本来的に制限されるのはこのためなのだ。そもそも、実験を行うには大前提として実験結果を観測する「人間」が必要だから、人間の感覚器官で認知できない現象については本来的に扱えないし、研究内容にふさわしい技術や道具が整っていなければ、適切な実験を行えないからこれもまた科学にはならない。

 実は「テクノロジー」というものの発達具合が「どこまでを科学で扱えるか」と密接な関係にあるのもそのためだが、これが領域という意味での「科学」を規定する一つの大きな要因となっているのである。例えば、ヒッグス粒子の存在を確認できたのはLHCのような巨大な実験装置を建設できたからこそだが(ここからもわかるが、現代では「科学で扱える領域」は政治的・経済的な理由でも制限されうる)、ニュートンの時代に「素粒子」の話をしてみても、検証できないから科学にならない。

 あるいは「数学」の発展もまた、同様に科学が扱える範囲を左右することになる。数学は結果を表すためにも必要だが、研究の過程では思考の道具でもあるからだ。実際、再びヒッグス粒子を持ち出すと、その研究に莫大な資金が投入されたのは、その存在が事前に数学的に予想されていて、観測できることがきわめて確からしかったからである。伝統的に物理学は特に数学的思考を抜きにしては成り立たないが、最近では生物学なども数学なしで研究を進めることは難しくなっている(イアン・スチュアート『数学で生命の謎を解く』)。

 まとめると、「現実的には科学は何をどこまで扱えるのか」は、人間自身の認知機構による制約を大前提として、伝統的な意味での「科学的な方法」をどこまで踏襲できるかという意味で、実験環境を整えるだけの技術的・社会的状況、そして数学の発展・応用範囲の拡大に制限される形で、ゆるやかに定まっているということである(科学が扱える範囲について「現実的に」ではなく「理論的に」の方を突き詰めて考えたければ「科学哲学」という専門分野があるが、それについてはまたの機会にしよう)。

 

 では「なぜ諸分野に分かれているのか」に進むが、その前に「社会科学は科学か」という、誰もが一度は思い悩む問いについても触れておこう。ジョン・サールは、「自らを科学と呼ぶものは科学ではない」というお手軽な判定法があるとしつつ、例として「Christian Science(クリスチャン・サイエンス)」や「military science(軍事科学)」を挙げているが、実は「社会科学」もそうかもしれないと言っていたことがある(『心・脳・科学』)。確かに、社会学や経済学、政治学の研究が物理学の研究と同じ性質のものであるかは、にわかには判定しがたい。

 実際、自然科学者だけに訊いてみたとすると、社会科学は科学ではないとする人がおそらく多数派だろう(ちなみにサールは哲学者)。というのも、社会科学と呼ばれている諸分野では、ここまで見てきたような「科学的な方法」を(原理的に)適用しづらい部分があるからである。「社会」のレベルで「実験」を行うのは簡単ではないし、意志を持つ人間が絡んでくると法則も見出しづらく、数学的に記述することも難しい。あるいは、人間がリアルに見えるレベルでは、研究の途上での倫理的な問題も多くなるという制約さえある。

 もっとも、そうは言っても「検証を行いつつ観察を重ねて法則を求める」という点では、社会科学を他の「科学ではないもの」と同じくバッサリ切り捨ててしまうのもおかしい気がするだろう。そこで以下では、「階層性 (hierarchy)」という考え方を持ち込みつつ、ひとまず「諸分野に分かれている理由」についてクリアに見渡せる視点を描いてみることにしたい。これがわかれば、「社会科学は科学か」という問いは、実は問い自体がナンセンスであることがわかる。

 

 最初に、ひとまず科学的な研究には「階層性」がある、と断定しよう。大まかに諸分野を配置しておくと、下から順に物理学、化学、生物学、社会学である。なぜこうした形になるかは後で説明するので、とりあえずイメージしてもらいたい。もちろん別のパターンも考えられるが、階層構造の中身はここでは本質的なことではなく、「階層性がある」ということの意味を理解するのが重要であるため、ひとまず最も無難だと思われる範囲にしておこう。ちなみに、当然これは分野間の優劣の評価とは全く関係がない。

 では「何によって階層構造ができるのか」だが、最初に結論を言えば、たとえば物理学と化学とでは、自然現象を扱う際の「記述のレベル」、あるいは「視点の高さ」が異なるということである。それによって階層構造の中での上位/下位が決まり、またここまで見てきたような「科学性」とでも言うべきものをどれほど担保できるかも異なってくることになる(つまり、ある研究が科学的かどうかはイエスかノーかで答えられるような問題ではなく、「どの程度か」が言えるだけなのである)。順番に見てみよう。

 

 まず、「科学」というものがその始まりにおいてはもっぱら今で言う「物理学」であったことに注目する。ここに異論の余地はないはずである。当初のそれは物体のふるまいについての法則を探るものであったが、たとえばケプラーは観測によって天体の運行法則を、ガリレオは実験によって地上における物体の運動の法則をそれぞれ記述した。そしてニュートンが「引力」という発想のもとで、同一の数式によって天上/地上にかかわらず物体一般のふるまいを説明できることを示した、という具合である。

 もちろん、現代の物理学には絶対空間も絶対時間もなく、相対論によれば時間と空間は時空という一体のものであり、質量によって歪んでいるし、観測者の運動速度によって伸び縮みする。あるいは、不確定性原理によれば何事であれ確率的にしか語れなくなってしまうし、相対論と量子論を統合しようとする超ひも理論などでは、五次元以上の余剰次元を導入しなければ宇宙の構造は説明できない。だから二十世紀以降の物理学は、理論上はニュートンの時代の物理学とは相容れないものとなっている。

 もっとも、これらを「物理学」ということで括るなら、営みとしてはそれほど変わっていないのがわかるだろう。つまり、その時代の観測技術と使える数学の範囲内で、この世界の基本的な構成要素とその相互作用の法則を探っているということだ。確かに、時代を追うごとに扱う概念はかなり増えているが、「最も根本的なものを探る」という原則自体は一貫しているのである。そして、これこそ物理学が科学の中で最も基盤的なものとなる理由なのだ(つまり階層構造の中で最も下に位置する理由である)。

 

 では、次に「なぜ上の階層があるのか」であるが、わかりやすくするために問いを立ててみよう。たとえば、「細胞分裂は物理学的に記述できるのか」である。答えは、「できないことはないが、しない」となる。どういうことかと言えば、要するに「個々の現象には、それにふさわしい記述のレベルがある」ということである。そんなことは当然だと思うかもしれないが、これは、科学という営み全体を思い描くにはきわめて重要な視点なのだ。

 まず、なぜ「できないことはない」かと言えば、「細胞分裂」とは、「細胞」という一つのまとまりが見出されるようなレベルで見れば確かに「一つの細胞から新たに二つ以上の細胞が生じている」のであるが、視点の高さを落としてもっと細かく見ると、実際にそこにあるのはやはり原子や素粒子といったもっと小さな存在の相互作用だからである。したがって、どんな現象についてであれ、物理学的に研究しようと思えばできないことはない。

 にもかかわらず、なぜ「しない」のかと言えば、ひとえに記述のレベルとして不適切だからである。実際、「細胞分裂」という現象を原子や素粒子一個一個のレベルで見る必要はまったくない。なぜなら、もともと「細胞」や「染色体」、「DNA」といったものがそのような「ひとまとまりのもの」として見出されるレベルが、特定の視点の高さに限られているからである。つまり、物理学の視点の高さでは、細胞レベルでの現象は「見えない」のだ。だからこそ、「個々の現象には、それにふさわしい記述のレベルがある」と言えるのである。

 

 別の言い方をすると、視点の高さは「扱う現象の複雑性によって決まる」と言い表すこともできる。つまり、最初に挙げた階層構造でいえば、物理学の視点の高さつまり現代で言えば「極小のレベル」で記述するには複雑性が高すぎるような現象の場合に、もう少し視点の高い化学の領域が扱うことになるのであり、以下同様に、化学でも扱えなければより視点の高い生物学へ、ひいては社会学へという形で、現象の複雑性が上がるにしたがってより上のレベルで扱うことになるわけである。

 あるいはここからもわかるように、同じ現象をみていても、より上の視点に立つと「潜在的な情報量が増える」というのもある(いわゆる「創発」による)。つまり、先に「どんな現象も物理学的に研究しようと思えばできないことはない」と言ったが、そこで対象となるのはあくまでも「物理学の視点で見える範囲」に限られるのであって、実際にはそのレベルであらゆる現象を記述しようとすると、見落としてしまう側面が不可避的に生じるということである。

 これが「結果として諸分野に分かれる理由」となるのだが、もう少し付け加えておくと、そもそも現象のレベルに高低が生じるのは、われわれ人間自身が様々な視点の高さを行き来しながら物事を見ているからに他ならない。視点の高さによって「見える世界が違う」とさえ言ってもよいが、考え方の違いや使用する観測技術の違い等によって様々な「視点の高さ」をわれわれが持つからこそ、それぞれのレベルにおける「見える世界」をそのまま記述する必要があるということである。

 

 ともあれ、こうして階層性があることがわかれば、これまで強調してきた「実験によって検証できる」や「数学的に記述できる」という要件を担保できる程度が、階層構造の中での高さにそのまま対応することがわかるだろう(そしてこれは「体系」の作りやすさにも直結する)。つまり、上に行くほどこうした要件を満たしづらく、下に行くほど満たしやすい。だから、上に行くほどどうしても「科学的である」程度が落ちてしまうのである。これが、物理学者が社会学者を見た時に、やっていることが同じだとはなかなか思いづらい理由である。

 あるいは「社会科学は科学か」の謎も解けると思うが、要するに「自然科学/社会科学」というのは、こうして暫定的に見出されるような「科学」の全体としての階層構造の中で、「比較的下の方」を自然科学、「比較的上の方」を社会科学と呼んでいるだけなのである。つまり全ては程度問題なのであって、ハッキリと「自然科学/社会科学」に分かれるわけではないのだ(だから分野によってはどちらに入れるか迷うことになるが、そもそも分野の境界も確固たるものではないということだ)。ともかくこれらは後付けの名称に過ぎないのであって、本質的な区別があるわけではないのである。

 

 さて、まとめる必要はないと思うので、最後にここからわかることをもう一つだけ指摘しておこう。いわゆる「脳がわかれば心はわかるか」というポピュラーな問いについてであるが、先に見たような理由で「現象によってそれにふさわしい記述のレベルがある」ということがわかれば、これに対する答えが「ノー」だということはすぐにわかるだろう。要するにこの問題は、「物理がわかれば細胞分裂がわかるか」という先ほど見た問題と実は同じものだからである。

 つまり「上のレベルで観察される現象は、下のレベルでの記述に還元できるか」ということだが、すでに見たように、大前提としてある現象が初めて見出されるレベルがそのレベルなのであれば、そのレベルのまま研究して、そのレベルのまま記述すべきなのである。なぜなら、それより下のレベルに還元しようとすると、「還元しきれないもの」が必ず残ることになって、その現象を見ていることにはならないからだ。言いかえれば、「部分の総和は全体とイコールではない」。

 したがって、心のはたらきに対応する構造が、より下のレベルである脳の方に部分的に見出されるとしても(認知科学における発見が脳科学によって裏付けられるとしても)、そもそも「心」という存在が始めて見出されるレベルが脳よりも上のレベルである以上、脳がいくらわかってもそれは依然として脳がわかっただけであり、心がわかったことにはならないのである。だからこそ、たとえば「意識とは何か」「思考とは何か」といった問題については、脳科学では答えは出ないのだ。脳がわかることは、心がわかることとははるかにかけ離れているのである。

 

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