フリー哲学者ネコナガのブログ

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ものすごくざっくり言うと「科学」とは何か

 「科学とは何か」ということをものすごくざっくり描いてみたい。もちろんこれについて何らかの正しい答えがあるわけではないが、多くの科学者・科学哲学者が同意しているであろうという範囲においてみてみることにする。

 

 最初に言葉を見ておくと、科学(science)という言葉は、ラテン語(scientia)の時代から変わっていないようだが、元々の意味は「知ること」である。派生語でも、例えば「全知全能の神」という時の「全知」は「omniscience」、つまり「omni (all) + science (knowing)」であるし、「conscience」なら「com (with) + science (knowing)」で「良心」であるが、いずれにしても核は「知ること」である。

 もっとも、当然ながらこれは現代における用法とはギャップがある。したがって元々の意味での「science」と区別されるところの、現代的な意味での「science」というものが歴史的に形成されてきたことになるが、以下ではそれについてざっくり見てみることにしたい。ちなみに、「science」の訳語としての「科学」という日本語が使われ始めたのは19世紀になってのことである。

 

 さて、現在言うところの「科学」という営みが形を成してきたのは、大まかに言ってガリレオやニュートンの時代である。いわゆる近代科学の始まりだが、ルネサンス、宗教改革の流れで、徐々に教会の権威から逃れつつ、自然を(神学的こじつけを交えずに)自然のまま見始める人たちが出てくる。自然現象を独断的に解釈するのではなく、その裏に「法則」があるという前提で理解しようとしたのだ。この「法則を探る」という発想そのものに一つの新規性があったと言える。

 もっとも「法則」を探ると言っても、局所的なものではだめである。それは偶然の所産かもしれないし、根本的に間違っているかもしれない。科学が求めるのはいわゆる「普遍的な法則」、いつでもどこでも成り立つ言明である。したがってここで言う「法則」を見つけるには「仮説」を立てて「実験」を行う必要があるが、実はここが重要なところである。つまり、科学において自説を主張したければ、それが確からしいことを「実験」によって検証せねばならないのである。

 これは、今からすればあまりにも当然のことだろう。しかし、それ以前の知的な営み、例えば宗教的、哲学的な探求においては、この「検証」というプロセスは少しも当たり前ではなかった。なぜなら、知的探求は個人的なものだったからである。宗教においては目的は救済であり、信じることで心が安らげばそれでよかったし、哲学においても、他者や共同体に影響を及ぼすことはあれ、やはり個人的に納得すればそれでよかった。つまり、本人が納得しさえすればそこで終わりである。地球が平らでもよいし、万物が水からできていてもよい。納得すれば成立したのである。

 しかし、科学が求めるのは別のものである。個人的な考えではなく、共有可能な、「普遍的な」法則である。納得するかどうかではない。正しさが確かめられ、かつ誰もがそれを認めうるようなものかどうかが重要なのである(だから科学には「定性的」のみならず「定量的」側面もまた求められることになる)。ともあれ、したがって「科学」であるために第一に必要なことは、自然現象がその通りに起きていると思われるところの「法則」なるものを見出すために、仮説を検証するべく「実験」を行うということなのである。

 

 科学的であるために次に重要なのは、上で「共有可能な」と言ったが、ある個人の研究内容を、没個人的に他人と共有できることである。一般的な言葉でいえば「客観的」とか「中立的」ということであるが、理論上は相手が人間なら誰とでも共有できる必要がある。これができなければやはり「普遍的」とは言えないし、あるいは研究が蓄積されることもないから、科学が「発展する」ということもない。したがって「法則」を記述する際には、世代を超えて地域的限定を超えて共有できるフォーマットに則っている必要がある。

 これを担保する上で欠かせないのが、他でもない「数学」という言語である。自然の探究は、数学と結びついたがゆえに「科学」となったとさえ言えるだろう。実際、自然言語はどれもこれも、言葉の意味が次々と変わったりするし、使われている地域も限定的で、曖昧な表現も多い。これに対して数学的表現なら、時代や地域によって意味が変わるということはないし、学べば誰でも使えて、意味の明晰性は抜群である。これでこそ、むやみに誤解を生むこともなく共有できるし、研究の過程でも無駄を省くことができるのだ。

 これも今からすれば当然ではあるが、数学的に記述できるというのは、ことほどさように科学にとっては外せない要素なのである。余談だが、ある宇宙天文物理学者は「宇宙の謎を解明した」というメールをいつも受け取るのだそうだが、下手に返信すると大量のメールが押し寄せてくるのに対して、「数式で説明してくれないと何とも言いようがありません」と答えると返事がなくなるのだと言う(マリオ・リヴィオ『神は数学者か?』)。ともかく「共有」できないものは、科学にはなり得ないということだ。

 

 さて、さくさくと科学の特徴を挙げてみたが、まとめると次の三点くらいとなる。

 

  • 自然現象を、背後にある「法則」の存在を探るために見ること
  • 普遍的な法則かどうかを確かめるために「実験」を行うこと
  • 共有可能性を担保するため、数学的に記述すること

 

 「ものすごくざっくり言うと」、ひとまずこれが、科学という営みの特徴である。もっとも、これは言わば「理想的な」ありかたであって、現実に「科学」と呼ばれているすべてがこうなっているわけではない。あるいはそれもあって「科学とは何か」については付け加えるべきことがたくさんあるのだが、長くなるので続きはまたの機会に。

 

この世界を知るための 人類と科学の400万年史

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科学の発見

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 この二冊はどちらも今年邦訳が出たものだが、一般向けで読みやすいながら、科学とは何かを理解する、または考える上で示唆に富んでいておすすめだ。英語圏でのサイエンス読み物の充実ぶりはうらやましい限りである。

 

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