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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

人間以外の動物に「意識」はあるのか─動物の心がわかるか

 現代社会では、特定の仕事に従事している人を除いては、人間以外の動物に目を向ける機会はあまりない。機会がないというか、必要性がないことが多い、と言ったほうがいいだろう。あるいは動物にふれていても、どこまで動物として扱っているかは別の問題である。とは言え、ひとたびほかの動物を意識し始めると、誰でも疑問に思うことは山ほどあるだろう。

 

 こうした興味に始まる探究は、ものすごくざっくり言うと二つ(の段階)に分かれる。一つは、人間からみて、例えば犬は何をやっているのか、と問うことである。これは、独りよがりにならずにきちんとやれば「科学」の範疇に入ることになる。要するに「客観的な見方」というものだが、誰にでも理解できる形で示せるものを追い求める(ただし「人間の間において」というのがポイント)。

 実際、客観的に動物を見ているのは科学者くらいであろう。たいていは、ものすごく擬人化して見ている。例えば、飼っている犬が嬉しそうだとか悲しそうだとか言うが、はたして犬は本当に嬉しがったり悲しんだりするのであろうか。人間が勝手に人間性を犬にあてはめているだけではないのか。これは、追求すればするほど考えているよりも難しい問題であることがわかる(念のため書いておくと、犬にもおそらく意識はある。問題は、人間にその中身がわかるかである)。

 

 もう一つは、逆に「主観的な見方」である。これは、一定の距離を置いて観察するというよりは言わば共感的なアプローチだが、もっとも、これでいくと最終的には今言った擬人化の罠にはまることになる。なぜなら、どこまでいっても相変わらずこちらは人間だからである。その状況からは、原理的に逃れようがない。どれほど先入観なく見ようと思っても、人間が見ているという事実は変えられないからである。

 この問題は、突きつめればトマス・ネーゲルが『コウモリであるとはどのようなことか』という有名な論文で明快に描いていることに到る。要するに、われわれが言うところの「客観性」を追求すると同時にそれは「人間にとっての」視点を突きつめることにもなるが、それとは別に「それ自体としてそのまま」という視点が確実にあるということである。その全体性を崩してしまったら、それは見ていることにはならない、というわけだ。

 例えば、コウモリなら「コウモリにとってコウモリであるとは」という問いが確固たるものとしてあるということである。もちろん人間が人間なりにこれに答えようとするのは勝手だが、本当の意味でこの問いに取り組むのは、人間とコウモリとで生物学的なつくりがまったく違う以上、はじめから無理な相談なのである。いくらコウモリの主観的な感覚を理解しようと思っても、超音波を発して周囲の情報を得ているその感覚などいったい、想像もできないだろう。

 つまり、人間は人間としてコウモリについて理解することはできるし、コウモリはコウモリにしかわからない世界に生きている、という事実そのものは理解できる。しかし、人間がコウモリの体感そのものを体験することは絶対にできないということである(別の言い方をすると、人間の脳は他の動物の身体性を完璧にエミュレートできるほど高性能ではない)。したがって本当の意味でコウモリが見ている世界については、人間からは知りようがない。

 

 さて、人間以外の動物に意識はあるのか、である。結論から言えば、あると思われるが、それが「どのようなものか」については、例えば科学で答えが出るかはかなり疑わしいだろう。もちろん、あると「思う」ことと「主張する」ことは別の問題であり(科学的にそうであると認められるには、きちんとした手順を踏まなければならない)、「ない」と言うよりは「ある」の方が可能性は高そうである。ただし、それは最終的には「確かめようがない」という点でやはり直感に過ぎないのである。

 マリアン・ドーキンズ『動物たちの心の世界』を読むと、最初にこうした主張が二つに大別されている。一方は「懐疑派」であり、実験や観察によって他の動物にも意識がありそうに見えても、ひとえに「証拠がない」という理由で否定的な見解をとる。これは、科学的態度としては全く正しいだろう。つまり、主観的な判断を持ち込むことを避ける。「ありそうだ」を「ある」と「思い込む」のはご法度だということだ。したがって、あえて言うなら「ない」という結論となる。

 もう一方には、当然ながら積極的に「ある」と主張する人々がいるわけだが、もっとも、日常的な感覚で言えば誰もが(全部ではないにしても、少なくとも何らかの)動物にも意識はある、と感じているにもかかわらず、こちらはこちらで、よく検討するとどれも論理が弱いということになる。つまり、科学的には「ある」という決定的な証拠はやはりない。したがってこの問題については、「ある」と言っても「ない」と言ってもある種の誤りを含む主張になるという、おもしろい事態となっているのである。

 

 結局のところ、この問題は人間が取り組むには大きすぎるのであろう。そもそも、他の動物の意識以前に、人間の意識についてすらまだ何かが明らかになったとは言い難いし、あるいは、先にみた「人間であることから逃れようがない」という根本的な問題は常にある。人間にとっての「意識」なるものの構造が、おそらく人間に固有の「身体」と密接に結びついていることはかなり確からしいからである(だからこそ、コウモリの主観的経験は人間からは知りようがない)。

 もっとも、おもしろいのは「人間には意識がある」ということについては、誰も疑わないということだろう。実はこれも科学的にそう言えるかは微妙なのだが、少なくとも哲学的には間違いなく言える。確かに、他の動物の主観的体験にアクセスできないのと同じ意味で、人間の間でも他人の主観的体験については、最終的にはわからない。しかし、われわれはなぜか、「自分自身に意識がある」ということについては、どうしても疑わないのである。このことは、いくつもの重要な問題を提起してきたし、これからも提起するだろう。

 

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

 

 「コウモリであるとはどのようなことか」(What is it like to be a bat?)は論文の名前で、『Mortal Questions』に収録されているが、同書の邦訳本ではこのように本自体のタイトルにもなっている。オリジナルの英語論文はネットで探せば見つかるはず。

 

動物たちの心の世界

動物たちの心の世界

 

 「意識」の問題に細心の注意を払いつつ、動物の主観的感覚について言及することの難しさを描いている一冊。多くの実験・観察、そこから生じた諸説が紹介されている。立場としては中立的で、ある派もない派も論理を再考せよと迫る。

 ちなみに、本書では著者名「Dawkins」が「ドーキンズ」と表記されている。リチャード・ドーキンスなどは慣習で「ス」になっているが、英語の発音では濁る。しばしば見かける例だが、日本語では最後が「ズ」は読みづらいということであろう。


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