フリー哲学者ネコナガのブログ

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「良書」とは何か─本であることの利点が活かされているか

 「良書」とは何かについて、少し考えてみることにしたい。ちなみに、日本で出版されている本に限る話である。

 

 まず辞書で「良書」を引くと、いくつかみてみたが、いずれも「読んでためになる書物」と出ていた。まあ、辞書だから仕方がない。これなら「良い書物」とでも書いてある方がまだ清々しいくらいだが、ともかく、読んでためにならない説明である。

 

 気を取り直して考え始めると、「書物」の意味はとりあえず自明であるものとして、問題はもちろん「良い」の方だろう。「良いかどうか」は見るからに主観的な判断を伴うものだから、言うまでもなく人によって異なる。

 というより、それ以上に「状況」によって異なるだろう。ある友人は(普段は文学や日本思想史ばかり読んでいる人である)、人間関係で嫌なことがあった帰りに書店で岸見一郎『嫌われる勇気』を発見、衝動買いして、読むやいなや号泣したという。これは明らかに、状況が生んだ「良書」だろう。

 要するに、良書かどうかは個人個人のその時々における結果論である。何となれば、一回読んで「時間の無駄だった」と感じた本でさえ、いつか何かの拍子に読んだら感想が一変することもあり得るだろう。したがって、良書とは「良書だと感じたもの」としか言いようがない。ここまでは簡単に思いつくことである。

 もっとも、「だから良書かどうかを客観的に判定することはできない」と言い切ることもまた早計ではないか、というのがここで考えたいことである。つまり、「実感として良いかどうか」はひとまず脇に置くことにして、あくまでも客観的に語れる範囲で語ってみようということだ。言わば「理論的良書」を描こうという試みである。

 

 そうなると真っ先に思いつくのは、実は「良」ではなくむしろ「書」の方に注目する見方である。簡単に言えば、「本であることの利点が活かされているかどうか」という視点があり得るということだ。

 これなら、感想として良いかどうかは関係がない。なぜなら、実感としていくら「良い」と思っても、本であることの利点を活かしていないものであるなら、それは別に本でなくてもよかったのであり、良「書」とは言えない、という見方が可能だからである。

 

 小言幸兵衛みたいだと思われるかもしれないが、最後まで読んでいただければ言いたいことはなんとなく伝わると思うので、このまま続けよう。

 まず、本であることの利点とは何かである。これについてはいわゆるメディア・リテラシーというもので、常識の範囲内とも言えるが、以前の記事(「本のよさ」とは何か~実用的価値と歴史的価値)で触れたことを補足しつつ簡単にまとめておこう。

 「本であることの良さ」はそれ自体では語るのが難しいので、他のものと比べることになるが、ひとまず「活字メディア」という括りを持ち出すと、比較対象は「新聞」および「雑誌」となる。これらと比べると、少なくとも「本は内容の質がいい」と考えられる(ちなみにネットもあるが、これはコンテンツがどこからどこまでを一単位とするかが定かではないこと、公開前に第三者のチェックを受けていないものが混ざっていることなどから、客観的に語ることは難しいので、ここでは考えないことにする)。

 その理由はいくつも挙げられるが、まず言えるのは、新聞で文章を書いている人は、あくまでも取材やライティングのプロであって、書いている内容についてのプロではない、ということである。つまり、専門家ではないから深みのある分析・批評・考察等には限りがあるし、多くの場合はそもそも求められてもいない。言うまでもなく、新聞で第一に重要なのは、事実を正確に報道することだからである(ちなみに新聞から得られる情報量は、記事が出来上がるまでの事情を知れば知るほど多くなる。松林薫『新聞の正しい読み方』などは読んでおいて損はない)。

 一方で本はと言えば、基本的には扱っている対象そのものについてのプロが書いているし、あるいは発表までに相対的に長い時間をかけられるというのもある。つまり、こちらは深みを出すことのみが求められるわけである(逆に、文章力にはかなりのバラツキが出る)。要するに役割の違いだが、本の取り分はその意味で「中身の質の良さ」を担保することだから、「本の方が質がいい」のは言わば当然となる。ここで新聞と本のちょうど中間くらいに位置するのが雑誌である。

 さらに、本は言論の自由度が高いというのもある。新聞や雑誌なら同業他社との競争、あるいは社内や誌上での権力争いも時には絡んでくるし、ネタをどこからとってくるか、資本をいかに確保するかまで考えれば、自由に書ける範囲や内容が最初から制限されているとも言える。本なら、何か問題が起こりそうでも時期や出し方を見計らって出すことができるし、広告主に配慮したりということからも基本的には自由である。

 あるいは、新聞も雑誌も本も、出しているのは株式会社であって、それなら「売れなければ話にならない」という根本的な問題もあるが、これについても本は有利だと言えるだろう。なぜなら、本の場合は「どのような経緯で一冊の本に仕上げるか」、あるいは「広告宣伝費をいくら出すか」等を考える時点で、もともとその本を「どのくらい売るか」がある程度計算されているからである。つまり、「売上のための本」と「中身の質を追求した本」は、ある程度はっきりと分かれている。

 

 さて、それなら、ここで言う「中身の質を追求した本」を選ぶ、というのがひとまず「良書」を絞り込む基準として使えることになるが、実際にはこれらを見分けるのはそんなに難しいことではないだろう。ざっくり言えば、「書店でどこに置いてあるか」というのが一つの基準となるからだ。

 たとえば、「ビジネス書」なり「実用書」なり「タレント本」などは、第一に「売上のための本」にあたるものである。これらは資本主義下の出版社としての「勝負どころ」と言ってもいいものだが、要はただちに売れることこそが期待されているのであるし(賞味期限が短い、とも表現される)、そもそも、内容ではなくその意味での出版スタイルにおいてジャンル分けされているというのがわかるだろう。

 あるいは、読書家は放っておいても本を買うし、買い手がはっきりしている本(学術書など)は何にも増して質を担保することが重要なのに対して、これらはむしろ、放っておいたら本など買わないような人たちをターゲットとしている本である。だからマーケティングの重要度も上がるし、編集者や(ゴースト)ライターの個性もポイントとなる。

 もちろん、どれが優れているというわけではなく「役割」の違いがあるということだが、普段あまり本を読まない人(あるいは雑多な属性の人々)をターゲットにしているだけあって、これらは中身の充実度よりもむしろ「読みやすさ」の方を重視していると言えるから、その分、中身が薄く・軽くなるのは仕方がないだろう。これはトレードオフだが、マスに配慮するなら共有・共感可能である必要もあるから、どうしても深みは出せない。映画で言えばハリウッド映画的なポジションである。

 もっと言えば、こうしてできた本に深みが出ないのは、いわゆる「行間」が生じようがないからである。もちろん「行間を読む」という場合の「行間」だが、わかりやすいこと、時流に則していること、即効性があることなどは、「深みがあること」、あるいは「繰り返し読む価値があること」などとは根本的に相容れないものがある。そこでは、言わば「書いてあることがすべて」であり、「書いてあることの向こう側」という発想がそもそもないのだ。

 さらに、これらの本は本来的に「分業」ベースだという意味でも、中身の質は一定のところで頭打ちにならざるをえないというのもある。そもそも、どんな本であれ深みを出そうと思えば、最終的にどう整えるかはともかくとして、「ひとまとまりの構築物を創る」という段階ではどうしたって一人でやらざるを得ないからである。それは、作曲家が普通は一人で作曲するのと同じであり、映画撮影において監督が二人はいないのと同じである。

 

 さて、いずれにしても上で挙げたような本はひとまず「良書」とはみなさないことにすると、「インタビュー本」や「対談本」も同様の理由で外れることになるだろう。これらは、人によっては読みやすさや独自の価値を感じているであろうが、根本的なところを一人でやってないという意味では、やはり「中身の質」は頭打ちになると言えるからだ。

 まず「インタビュー本」と呼んだのは、文字通りインタビューを体裁だけ整えて(もしくは中身を手直して)書き起こした本であるが、これはたいていインタビュアーの方が主導権を握っているので、むしろ「何が引き出されるか」という別の観点から味わうものとみるべきであり、メインであるインタビュイーによって生み出される価値は当然、単著に比べると低くなるだろう。なんでも引き出せばいい、というものでもないからである。

 (もっとも、バジーニ=スタンルーム『哲学者は何を考えているのか』で指摘されているように、相手が「ものを考えること」の専門家である場合、本人が自分で発表するのはそれなりに確固たる形にまとまってからのものであるので、十分に成熟していない構想やふとした発想を聞き出したり、本人が自覚していない何らかの思想的特徴を「あぶりだせる」という意味では、インタビューでしか出せない「深み」もある)。

 あるいは「対談」もあるが、これは、言い方は悪いが基本的に「抱き合わせ」であり、二人になったからといって単著よりも深みが出るということはまずないだろう。もともと「お互いが共有している土台」の上でしか展開することができないし(お互いに何を持っていようが結局は「対話」のレベルになってしまう)、あるいはテーマが決まっていても話は逸れて行くのが対談の常であるから(それが対談本の味でもあるのだが)、統一感がそもそもない。さらに「相手が誰であるか」によっても語れることは制限されるから、いずれにしても形式による制約がかなり大きくなると言える。

 その意味では、「講演録」もまた同じである。これは、たとえ一人で語っているとしても、特定の時に特定の場所で特定の聴衆に向けて語ったものであり、やはり諸々の制約の下にあるからだ。そもそもこれは、あくまでも「結果として本になった」という類のものであり、それなら「本というメディアに特有の価値」を活かしきれないのは当然だろう。要は二次的、派生的な産物だからである。講演なら実際に講演を聴くに如くはないということだ。

 さらに「共著」はどうかと言えば、これも複数人の著者がいるところがまず制約となる。一つの内容を二人で語る場合、やはりどこかで「対話」のレベルに落とし込まれてしまうし、あるいは、特定のテーマのもとで各著者が文章を寄せている場合などは「一冊になっていると便利だから」という理由で成立しているものが多く、いずれにしても「一冊の本としての完成度」にもともと重きを置いていないと言える(その意味では、著者が一人であってもバラバラの文章を一つの本に集めたものなどは同じである)。

 

 こうしてみれば、ここで問題となっているのはある種の「純度」だということがわかるだろう。最初に戻って「活字メディア」ということで考えてみると、そもそも文字言語による表現であることの利点は、抽象的なもの(思考)をそれなりにそのままの形で語れることである。もともと言語というのは抽象の産物であるが、何らかの具体的な形、たとえば視覚的な表現に落とし込んでしまえばその分「削られるもの」が多くなるのに対して、言語の場合は抽象的なものをある程度そのまま、発信者と受信者の頭の中同士でコミュニケーションすることができる。

 これが、本来的には活字メディアのよいところだが、そこに「本である」ということが加わると、先にみたように、十分な時間をかけて創り上げたひとまとまりのものを、十分な分量で表現できる、ということになるから、端的にそれを活かせているかどうかが良書を見きわめる上で最低限のポイントとなるだろう。「読書とは著者の思考を追体験すること」たる所以だが、それなら、間に他の人が入らなければ入らないほどいいのは当然だということである。

 あるいは、実はこれは「オリジナル」であることに価値があるということと同義だが、たとえばデカルトの『方法序説』を読もうと思えば、それを解説したものよりはそれ自体を読むほうが良いに決まっているし(いったん解説者の頭を通すと削ぎ落とされてしまうものがあるから)、さらには日本語で読むよりも元のフランス語で読む方が良いに決まっているだろう(翻訳者の解釈に加えて翻訳作業そのものによる必然的な歪みが入り込んでしまから)。

 同様に、内容の純度(著者の思考そのままであること、あるいはそれが有機的な結びつきとともに著者によって一つの流れにまとめられていること)がどれほど確保されているかというのが、客観的に「良書」を判定する一つの基準となるだろうということである(それ以上は、ひたすら好みの問題だろう)。その意味では、以前に書いたが、ショーペンハウエル『読書について』にあるアドバイスなどは、やはり今でも参考になると言えるだろう(ショーペンハウエル『読書について』には結局何が書いてあるのか)。

 

 まとめると、「良書」を見出そうとするなら、ひとまず「何が良書ではないか」、あるいは「本独自の役割・利点とは何か」を考えることで、あるていど絞り込むことは可能だということである。もっとも、あくまでも「理論的な良書」と最初に言ったように、これが肌感覚としての「良書」とどこまで合致するかは別の問題であって、最終的にはやはり「良書と感じたものが良書である」としか言いようがないのだろう。ただ、こうした基準の存在を知っておくのも無意味ではないということだ。

 

新聞の正しい読み方:情報のプロはこう読んでいる!

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 先述の通り、活字メディアという意味では対極に位置する「新聞」の性質について考えてみると、「本」というメディアの持つ独自の価値はある程度クリアに見えてくる。本書では、多くの人が新聞社の配信記事をネットニュースで読むという時代状況をふまえつつ、新聞記事が出来上がるまでの過程、新聞表現のルールなどをわかりやすく解説していて、一読の価値がある。ジャーナリズム的側面が軽視されているのは少し残念だが、それ自体も日本の新聞業界の構造をよく表していると言えるだろう。

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

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