フリー哲学者ネコナガのブログ

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「教養」とは何か─教養観のいろいろ、あるいはなぜ教養が必要なのか

 「教養とは何か」。一見すると不毛な議論になりそうな問いではあるが、これについて考えられる限り考えてみたい。いくつかの議論を参照しつつ、なるべく多様な「教養」観を挙げてみることにするが、特に目新しいことを言うつもりはないので、流し読みしつつ、自分なりに「教養」について考える踏み台としていただきたい。

 

 「教養」とは何かを探るのが難しいのは、そもそも言葉としての「教養」が、定義されないままに比較的自由に使われているからだろう。「教養」はその内容以前に、言葉の意味自体が時代や地域によって異なる。あるいは同じ社会でも複数の意味が混在していたりするが、現代の日本に限っても、その意味は明らかに自明ではないだろう。

 日本における「教養」という言葉は、少々おどろきだが、もともとは「education」の訳語として使われ始めたものらしい。もっとも、それをもって「教養」が「教育」と同じ意味だ、というのは明らかに実感とはズレているから、おそらく「教養」という言葉は、使われているうちに全く新たな意味が定まっていったということになる。

 したがって少なくとも、いわゆる本来の意味での「教養」、その言葉が運用され続けるうちに定まった意味での「教養」(こういうのを運用的定義といったりする)、さらには、普遍的な意味での教養なるものがあると仮定した場合に見出される「教養」(これは本質主義といったりする)など、多くの側面から語れると言えるだろう。

 

 最初に「こういうものではない」というところから言うと、ビジネス書コーナーなどに並んでいる本で「ビジネスマンのための教養講座」などという時の「教養」という言葉は、明らかに不用意に使われていると言うことができる。なぜなら、そうした本の中身は多くの場合、形式・内容はどうあれ特定の知識の羅列に終始しているからである。

 端的に言えば、そこでの「教養」はいわゆる「常識」とおそらく混同されているのだが、教養と常識がイコールかと言われたら、これも明らかにズレているだろう。次元が違うものを並べている気さえする。なぜなら、ここで言う「常識」の実体は個々の知識の集合に過ぎないものだと言えるが、「教養」は少なくともその限りではないからだ。

 なぜそう言い切れるかというと、「教養」が単に無味乾燥な知識の集まりなのであれば、たとえばコンピュータが教養を持つことも可能なはずだからである。これは端的に変だろう(ちなみに以前「「常識」とは何か」で書いたように、常識にも「ふるまい」の側面はあるが、ここでは試験で必要となるようないわゆる「知識」を指している)。

 ともかく、ここで言う「常識」が単に「広範な基礎知識」とか「大人としてもっているべき最低限の知識」くらいの語感で使われているのに対して、「教養」となると、どれほどのものであれ、少なくとも単なる知識の集合ではないということである。「教養がある」というためには、ただの物知りではなく、それ以上の何かが求められるのだ。

 

 ではそれが何かであるが、まずは知識を「活かせること」だと言えるだろう。「血肉化した知識を様々な場面で活用できる」という説明はそれなりに妥当だが、つまり教養には、ある種の「能力」という側面もある。「cultured」(教養がある)という言葉もあるが、cultureは本来「土地を耕す」で、ここでは「精神が耕されている」である。

 つまり、単に素材(知識)がそのままの状態で特定の場所にあるだけではなく、あるていど耕され(咀嚼され)、全体として何らかの意味での「素地」たるに十分な状態となっている。それでこそ「その上で何かを育てる」こともできるわけだ。実際、あとでみるが、「一般教養」という言葉が適切なのはこうした意味においてである。

 

 さて、続いて少し変わったアプローチを先にみておくと、教養には個人の次元では完結しない側面がある、と捉えることも可能である。つまり、「教養」という概念が成立するのは、実は「集団」的な次元かもしれないということだ。これは特殊な視点ではあるが、阿部勤也『「教養」とは何か』で論じられているので少し紹介しておこう。

 そもそも同書の議論は『「世間」とは何か』の延長なのだが、そこでまず「世間」とは、阿部氏によれば、西洋で言う「社会」とは異なり、比較的小さな範囲で大人同士が結んでいる「目に見えない人間関係の絆」である。ニュアンスとしては「運命共同体」とも言えるものだが、日本人は伝統的に世間という次元を持っている(いた)とする。

 ここで「大人が」という以上は「子どもは含まれない」というのがポイントだが、それはまさに「子どもは教養がない」とみなすことができるからで、これで言えば、教養とは「世間において必要とされるもの」というように逆からみることもできるわけである。つまり、集団の次元において初めて現れる類の「身に付けているもの」である。

 そこで阿部氏の定義では、「自分が社会でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」が「教養がある」状態となるが、もっともこれは、「世間でうまくやれる人」=「教養がある人」ということだから、結果論でもあるし、かなり一般化された定義である。

 そもそも、阿部氏は「個人の教養」と「集団の教養」を区別しているのだが、本来の意味たる「個人の教養」は、「私はいかに生きるべきか」という問いとともに現れたという。これは、十二世紀ごろからヨーロッパで「職業選択の自由」が部分的に現れ始めた(親の職業を継ぐ以外の選択肢を持つ人々が出てきた)ことと密接な関係にある。

 つまり、本来のニュアンスでいえば「私はいかに生きるべきか」という問いに答えるために必要とされたのが「教養」だったわけだ(ちなみに当時のそれは、少なくとも「ラテン語を習得」して「古典を読む」ことで担保されたものである。実際、これは最も典型的というか、今でも思いつきやすい「教養がある人」のイメージであろう)。

 とは言え、職業を選べる状況にあったのはいわゆるエリートだけで、実際にはそうでない人の方が多数派だったというのが実情である。それなら「教養」はほとんどの人には無縁ということになってしまうが、だからこそ一つの妥協案として、「世間に組み込まれている人=教養がある人」という言い方が導き出されるということである。

 

 さて、これが腑に落ちるかはともかく、個人の次元でもう少し考えると、上でみたように「教養」というものは本来的にある種のエリート主義と親和的なものであって、少なくとも誰もが身に付けるというものではなかった。今でも「教養がある」というと、たとえば「お高くとまった」といったような、否定的なニュアンスも根強いと言える。

 実際に日本でも、良いか悪いかは別として、一昔前の「教養主義」などは明らかにエリート意識と結びついたものだったと言える。それは、たとえば総合雑誌で論文を読んだり、ドイツのレクラム文庫や、それを真似て創始された岩波文庫を読んだりして、日夜議論に励むのが当たり前であったような、特に大学生が共有した態度のことである。

 これは、大学生であることが珍しくなくなり、ある種の使命感(これが自分たちの仕事であるという意識)が失われたことや、出版文化にも変化が起こって「読書」そのものが大衆化したことなどとともに消失するが(詳しくは竹内洋『教養主義の没落』)、ともかく日本でも一時期は、こうした「教養」観が存在したことはあったわけである。

 

 もっとも、こうして教養が「一部の人々だけが身に付けるもの」ではなくなったからと言って、誰も身に付けなくてよくなったわけではもちろんない。むしろ反対に、誰もが身に付けねばならない時代になったのだと言えるだろう。「教養」が「共有されているべきもの」というニュアンスを帯びてきたのにはこうした経緯もあると言える。

 実際、今でも先進国ならどこでも、「大学に入る者は誰でも教養を身に付けて当然」という前提で言わば「社会」が成立している。日本の大学で「一般教養」がむしろ「おまけ」程度に学ばれているのとは対照的だが、少しみてみよう(もちろん大学にもいろいろあるが、ここでは各国で「ザ・大学」とみなされているようなところに絞ろう)。

 たとえばアメリカなら、少なくともブラウン、ハーバード、イェール、コロンビアといったいわゆる「アイビー・リーグ」の各大学は、今でもリベラル・アーツ、つまり学部生のあいだは専門を持たずに幅広い教養を身に付けるのが基本である。一般教養こそが「メイン」であるわけだが、さもなければ専門など持てない、という価値観がある。

 ちなみに「リベラル・アーツ」とは、ヨーロッパで始まったものだが、伝統的には「論理・文法・修辞学・天文学・算術・幾何学・音楽」の計七科目を修めることである。もちろん現代では具体的な科目名は違うが、幅広く学ぶという精神は同じである。その意味では、現代ではリベラルアーツが最も根強いのはアメリカかもしれない。

 もっとも、本家ヨーロッパでは廃れたのかと言えばそんなことはなく、こちらは大学入学「前」に一般教養を身に付けるのが基本である。ドイツ語圏ではギムナジウム、フランス語圏ではリセと呼ばれる大学予備門の存在は有名だが、そこで「アビトゥア」なり「バカロレア」という卒業資格を得て初めて大学に入れるシステムである。

 ちなみにバカロレア試験の問題などは日本でも有名だが、その中身は、たとえば「未来は過去の延長なのか」とか、「個人の利益と秩序の利益が矛盾する場合はどのような判断が可能か」とか、「芸術作品とは理解できうるものか」とかいった問題が出る。もちろん論述だが、要するに「知識」の「暗記」では絶対に答えられない問題である。

 つまり、「何をどれほど身に付けたか」ではなく、「何をどれほど身に付けていようが、それを活用して、社会性のある形で(他人に理解可能な言葉で)自分の考えを述べる能力がどれほどあるか」を問うているわけである。それなら、ここで必要とされるものこそ、まさに「教養」としか言い表せないものだと言えるだろう。

 ちなみにイギリスはどうかと言えば、こうした統一的な資格はなく、入りたい大学ごとに個別の条件なり試験なりで審査されるのが基本だが、大学に入る以前に幅広く教養を身に付けていることが求められるという点では同じである(アビトゥアやバカロレアの場合は、どの大学に入るかは資格を得てから自分で選ぶことができる)。

 

 さてまとめると、こうしてすでに成立しているような「教養」の在り方を前提にしてそれを表現しようとすれば、教養とは「自らの人格を形成するために必要なもの」だと言うことができるだろう。これもよく耳にするものではあるが、つまるところわれわれは、「その上で(社会で)何を行うかを決めるため」に教養を身に付けるのである。

 あるいは、「一個の人格として自立するため」とも言えるが(ここまで来るとどれも同じ意味になるが)、そう思えばドイツ語で教養を指す「Bildung」はとてもしっくりくる言葉だろう。これは英語の「building」に近い言葉で「造り上げる」というニュアンスだが、教養とはまさに「自分を造り上げるもの」だと言えるわけである。

 

 総論すれば、結局「教養」それ自体については、こうして多角的に理解するしかないのだろう。もともと中身がそれ自体では定義できないものであるし、あるいはその意義は「活かされてはじめてわかる」ようなものだから、非常に逆説的な言い方だが、われわれはある意味、「教養とは何か」を理解するために教養を身に付けるのである。

 もっとも、最後に付け加えておくと、教養は単に文字通り「身になるから」という理由だけで意義があるのではない。何となればそれは、社会性や倫理性を担保するものでもあるからである。あえて断言すれば、「教養がない人は危険である」。これについて村上陽一郎『あらためて教養とは』から引用しつつ、この記事を終えることにしよう。

 

 「私にとって教養という言葉の持っているぎりぎりのものというのは、人間としてのモラルです。教養という言葉を揶揄するときの常套句に『理性と教養が邪魔をして』というのがありますね。でも、慎みを忘れそうになったときに、『理性』と『教養』とが邪魔をしてくれなければ、それは人間じゃない、とさえ言えるのです」(上掲書)。

 

「教養」とは何か (講談社現代新書)

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教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

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あらためて教養とは (新潮文庫)

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 ちなみにこの記事を書こうと思ったのは、ビジネス書の新刊コーナーで「お金持ちになるための教養」みたいな本を見つけたからであった。その本は声高に「教養にはお金になる教養とならない教養がある」と主張していたが、結果論としてはともかく、「お金になるかならないか」という尺度を「教養」にあてはめること自体が的外れだろう。

 その理由についてはこの記事で述べたことから明らかだと思うが、個人的には「教養にはお金になる教養とならない教養がある」という言葉を目にした時の衝撃は、言わば「花崗岩にはおいしい花崗岩とおいしくない花崗岩がある」と言われたのと同じくらいのものがあった。まあ、本も商品だから、売るためには仕方がない面もあるのだが。


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