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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

なぜ雑多な本を読んだ方がいいのか─濫読にするか、座禅にするか

読書論・メディア論

nekonaga.hatenablog.com

 先日「フィルターバブル」の話をしたが、今回は「なぜ雑多な本を読んだ方がいいのか」ということで、そこからさらに進んだ話をしてみたい。前回の記事を読んでいない人のために、以下に要点をまとめておこう。

 

 (1)検索サイトやSNSを使い続けていると、そこでの行動データは個人レベルで集積されてゆく。

 (2)サービスを提供する側(企業)は、データをもとにユーザーの好みを判断するアルゴリズムを持っている。

 (3)企業は、その第一目的(利益を上げる)に照らして、ユーザーの好みに合うものだけが表示されるように絶えず最適化を行ってゆく。

 (4)その結果、ユーザーにとっては、意識していようがいまいが、自分の好みに合うものだけしか見えなくなる。

 (5)問題点A。自我が一定範囲に固定されてしまい、本質的に新しいものに出会えなくなってしまう。

 (6)問題点B。個人が互いに孤立するため、好みが合う人同士でのみ交流して、異質な他者への理解ができなくなってゆく。

 (つまり)検索やSNSといったサービスを少しでも利用する人は、あくまでも見えない泡をまとった状態においてインターネット空間を漂っている。

 

 さて、前回は「自我のインターネット」とかいってあくまでも「インターネット」に注目していたが、今回の主題は、インターネット上であろうがなかろうが、人間は本質的にこの問題に陥りやすいところがある、ということである。

 どういうことかといえば、われわれは日々、外部の何を使うよりも前に、自分の頭の中であらゆる物事についての絞り込みを行っているということだ。したがって、何であれ「自分の好みで」選んでいるなら、結局は同じ問題が生じているということである。

 たとえば、いつも話す人が同じであるとか、いつも買い物に行く場所が同じであるとか、いずれにしても「いつも同じものばかりに触れている」という人は、企業にやられずとも、まったく同じメカニズムで視野を狭めることを自分で行っているのである。

 ここで「好み」というのは感情的に好きか嫌いかとは関係なく、無意識にどれほど重視しているかの「傾き」のことだと思っていただければよいが、われわれは常に、全宇宙の中で自分の自我のフィルターにかかったものだけをみているということだ。

 したがって自我を特定の範囲内にとどめずにその「外側」を知る、つまり「学ぶ」ということに興味があるなら、他ならぬ自分自身の影響を極力排除した方がいいということになる。自我とはつまり、記憶というデータを利用するアルゴリズムなのである。

 要は、そこで言う自分とは過去の自分である。だから、過去に引き戻されることや現状に留め続けられることはあっても、本質的に新たな世界に出会うことはない。しかし、現状に満足せずに「学び続ける」人が注目するのは、むしろ未来の自分だろう。

 つまり、学びを大きくするには(人生を豊かにするには)、なるべく偏りが出ない形で雑多なものにふれた方がよいことになる。ギャップが大きいほど学びも大きい。そこで本題だが、おすすめなのはひとまず「日常的に雑多な本を読むこと」である。

 

 なぜ本をそんなにすすめるかと言えば、物理的に動くに越したことはないが、それでは制約が大きいからである。重要なのは、書物の内容は時空を超えているということだ。つまり、本を通してなら古今東西のあらゆる人に出会うことができる。

 もちろん、ここで本を選ぶにあたって重要なのが、自分の視点を入れないということである。それならどうするかと言えば、やり方はいろいろある。たとえば、書店で平積みになっている本を全部読む。誰かが手に取ってみている本を全部読む、など。

 読書自体に慣れていないなら、日本の読書家なら一度は通る道だが、新書を片っ端から読むというのもあるだろう。書店においては文庫と新書だけは中身のジャンルで分かれておらず、ただ大きさが同じだというだけで並んでいる。だから雑多である。

 新書がいいのは、一冊が薄いから読み通しやすいこと、著者がたくさんいること、扱っているテーマもニッチなものからかなり射程の広いものまで幅広いこと、そして何より安いことである。新品で買っても一冊千円以下だし、古本屋ならもっと安い。

 文庫より新書がいいのは、文庫はフィクションが多いからだ。フィクションは楽しみで読むのはいいが、学びという意味では、一度に大量に読んでもあまり意味がない。学術系レーベルのみなら文庫もありだが、これはある程度知識がつかないと読めない。

 他人の視点を使う方法もある。たとえば、これまでの自分なら絶対に読まないであろうブログをいくつか探して読む。そこで本が紹介されたら必ず読むと決めておく。これは、そのブログを読んでいる時点ですでに外側に出ているからその意味でも効果的だ。

 あるいは、どうにかして読書スピードがだいたい同じ人(もしくは約束を守れる人)を探して、何人かで回し読みする方法もある。一人いくらと決めておいて、お互いランダムに選んで、買った本を全員が全部読む。これは書籍代の節約にもなる。

 もちろん、結果的に全員が同じ本を読むからといって、読書会みたいなのをやったらだめだ。それは読みを深めたり親睦を深めたりするためのもので、本来的にフィルターバブル化する傾向を持っているので、ここでの目的にはそぐわない。

 いずれにしても、興味をもとに読むのではなく、自我がなるべく介入しない基準を何か決めて、あたった本を片っ端から読むのである。最初は気にもならない本にお金や時間を使うのに抵抗があるかもしれないが、学びを実感するとそれは気にならなくなる。

 ちなみに、読むときにもやはりできる限り「自分の視点を離れる」必要があるから、そこにも工夫が必要となるが、これについては「ショーペンハウエル『読書について』には結局何が書いてあるのか」の最後のところで少し書いたのでみてほしい。

 

 ということで、フィルターバブルを抜け出る、見える世界を広げるために雑多な本を濫読することをおすすめする。しかし、最後にさらに高度なワザに触れておくと、「瞑想」というのもある。これについても、実践すると確実に自我の固定化が避けられる。

 これが高度なのは、最終的にはフィルターを自分自身がリアルタイムで操作できるようになるからである。仏教には「観自在菩薩」(=観世音菩薩、観音菩薩)という菩薩がいるが、これは「自由自在に観ることができる菩薩」という意味だ。

 実際、仏教において「座禅」を行っている人がやっているのは、このフィルターの意識的な組み換え作業である。つまり、まず最も詳細な意味で「自分は何にとらわれているか」=「現在の自我はどうなっているか」をつぶさに観ているということだ。

 日本では座禅は「無になること」とも言われるので、何も考えていない、真空のような状態になることだと思われていたりするが、そうではない(たとえば道元禅師が言う「無になる」は「自分を縛る固有のフィルターが無になる」という意味である)。

 実際は頭をフル回転させて、自我=自分自身を徹底的に観るということだ。そして最終的には、「全部見えていながら、見えているものすべての間のどこにも優劣がない=何のフィルターもない状態」に至る。これが大乗の根本教理たる「空」の境地である。

 まあ、言うは易しだが、せっかくなので理論だけでも一応みておこう。たとえば中国天台宗の開祖、天台大師智顗が著した座禅マニュアルの一つである『天台小止観―坐禅の作法』には、次のようにある(天台宗では、座禅の作法を「止観」と呼ぶ)。

 

 「それ泥洹の真法は、入るにすなわち多途あれども、その急要を論ずれば、止観の二法を出でず。然る所以は、止はすなはち結を伏するの初門、観はまた惑を断ずるの正要なり。止はすなはち心識を愛養するの善質、観はすなはち神解を策発するの妙術なり。止はこれ禅定の勝因、観はこれ智慧の由籍なり。もし人、定慧の二法を成就すれば、これすなわち自利・利他の法、みな具足せん。」(『天台小止観―坐禅の作法』)

 

 つまり、涅槃に入る=悟るために最も重要なのは、「止」と「観」の二法である。「止」とは、煩悩を「止める」ことだ。煩悩を捨てるのは原理的に不可能なので(たとえば最低限の食欲がなければ死んでしまう)、「脇に置く」というニュアンスである。

 次に「観」とは「正しく観ること=フィルターを取り除いて観ること」だが、つまり「根本法則を知ること」を意味する。ともかく座禅においては、この二法をひたすらに実践するのが基本であり蘊奥であるということだ。言っていること自体は難しくない。

 ちなみに重要なのは「もし人、定慧の二法を成就すれば、これすなわち自利・利他の法、みな具足せん」とあることである。つまり、悟りによって自利と利他は言わば同じものになる。「人の役に立ちたい」というレベルでは、それもまた煩悩ということだ。

 そうではなく、自分と他人の区別すらなくなるところまでもっていく。逆にいえば、その努力をしないからあらゆる悩み苦しみ、争いが起こるのであって、だから濫読でも瞑想でも何でもいいが、常にフィルターを出んとする人が、私はまともな人だと思う。

 

天台小止観―坐禅の作法 (岩波文庫 青 309-3)

天台小止観―坐禅の作法 (岩波文庫 青 309-3)

 

 本書はいきなり読むのは難しいので、仏教の瞑想に興味のある人は、とりあえず初期のお経を読みつつ(「お経を読んでみよう」カテゴリも参照)、地橋秀雄『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』などを読んでやってみるのがよいと思う。なお、サンスクリット語で「止」が「サマタ」、「観」が「ヴィパッサナー」である。


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