フリー哲学者ネコナガのブログ

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「自我のインターネット」─思考の格差が、広がっているのだ

nekonaga.hatenablog.com

 

 以前、まったくの思い付きから「なぜアマゾンのおすすめはあてにならないのか」という記事を書いてみたが、同じ問題をもっと一般化して論じているイーライ・パリサー『フィルターバブル──インターネットが隠していること』という本を最近みつけて読んでみたので、それについて触れつつ、思いついたことを書いてみたい。

 

 まず、以前の記事でみたのは、一言でいえば「アマゾンに典型的なパーソナライズされたおすすめシステムは、おすすめシステムとしては原理的に破綻している」ということであった。なぜなら、われわれが「おすすめ」に期待するのは、他人の視点を前提とした上で「自分ではアクセスできないものに出会う」ということだからである。

 要するに、そこで「あなたはこれが好きなのではないでしょうか」と示されるそのおすすめは、他ならぬ自分自身の興味関心にどれほど「近いか」に基づいているため、どこまでいっても「自分の視点」を投影したものであるところに問題がある。そのフィルターは明らかに、もっぱら視野を「狭める」ものとして機能しているのである。

 したがって、こうしたおすすめシステムを真に受けて利用していると、結局は「少し変わっただけの、本質的には同じもの」に触れ続け、自我(認識体系)が変わることもないまま、狭い範囲の閉じた世界を巡回することになる。そこでは、潜在的には大量の情報があるインターネット空間だからこそ、逆に世界が狭く保たれてしまうのである。

 

 さて、先述の『フィルターバブル──インターネットが隠していること』を読むと、この構造は「フィルターバブル」と名付けられていた。著者がとくに取り上げていたのはグーグル体験、フェイスブック体験だが、ともかくこうしたシステムの中にいればいるほど、あまりにも狭い範囲の情報にしかアクセスできなくなるということである。

 あるいは、上でみた「自我の固定化」については「自動プロパガンダ装置」とも形容されていたが、要するにわれわれは、ネット上での行動を通して「自分はどんな人間か」を各企業に教え続け、一方でサービスを通して「あなたはこういう人間だ」と教えられ続けるという相互作用の中で、「自我」を特定の範囲に留め続けているのだ。

 で、ここがポイントだが、こうした構造の何が問題かというと、そのシステムのアルゴリズムが、どこまでいっても「ユーザー側からは不可視である」ということである。つまり、そうした「見えない部分」があるということ自体にいくら自覚的でも、結局「実際にそれがどのようにして影響を及ぼしているのか」については知りようがない。

 したがって本書は、こうした構造があるのを踏まえた上で、いちいち自分の行動に自覚的であれということを説いているが、一方で著者の関心は公共性にもある。つまり、個人がフィルターバブル化しているところでは、他人が何を見、感じ、考えているかに鈍感になるという意味で、実は民主主義の存立基盤も相応に脅かされているのである。

 これについては、ニュースを特定のサイトでみることにつきまとう危うさとも密接な関係にあるだろう。ニュースとはそもそも「new」の複数形であり、新しいことづくめであるはずなのだが、パーソナライズが進むと、具体的な内容は違っていてもどこか既視感があるものばかりとなり、本質的に「新しいもの」は流れてこなくなってしまう。

 もっとも、個人でシステムに抗うのには限界があるから、本書ではもう一方の当事者である企業に対する主張も展開されている。いわく、フィルタリングシステムの透明化、およびネット上での行動履歴を含む広い意味での「個人情報」を個々人がすべて自分で管理できる仕組みを整えることが、現代社会における最低限の企業倫理である。

 こうして本書は「警告の書」として終わるのだが(著者は、リベラル系の一大市民政治団体を率いる活動家なのである)、その提言の妥当性はここでは脇に置くとして、ともかく分析ツールとしての「フィルターバブル」という概念は、こうした構造を一言であらわすのにとても便利だろう。結構いろんな分析に使えそうである。

 

 さて、そこで本題だが、個人的に「フィルターバブル」という概念を知って思ったことが二つある。まず一つは、上でみたように「こちらが示す私」と「あちらが示す私」の相互作用によって「リアルな私」が生成されているのなら、無自覚にインターネットを使う人は、自分自身がすでにネット上のシステムと不可分であるということだ。

 要するにそこでは、ある意味で「自我」そのものがすでにインターネットにつながっているのである。これは「自我のインターネット」とでも呼べるだろう。もちろんいま流行りの「モノのインターネット」をもじったものだが、身近なあらゆるものどころか、人によってはすでに本人がインターネットにつながっていたというわけである。

 これはもちろん、おそろしい。いや、実際にはそうなっていて困るのはその人自身だが、とは言えこれは程度問題だから「どこで考えるのをやめるかによって、どれだけ自由が失われるかが決まる」とでも言っておけばいいだろう。要するに現代社会では、考える(問う、疑う)のをやめた瞬間に、システムの一部として操られざるをえない。

 そもそも、モノのインターネットとはご存じのように「Internet of Things」の訳だが、「things」はもともとモノだけでなく「コト」を含んでいるように、モノがインターネットにつながり始めたというのは実は話が逆で、実際はあらゆる物事の情報化が先にあり、モノ同士が直接つながるというのは、単にアクセスがよくなるにすぎない。

 つまり、いわゆる「情報化社会」とは、一般的にはパソコンやネット環境が普及することだと思われているが、実際には「あらゆる物事を情報として見るようになる」という世界観の変化の問題なのである。その結果として「あらゆるものがインターネットに乗る」のであり、今や「自我」までもがインターネットに乗っている人がいるわけだ。

 

 さて、見通せない範囲が広がるということでいえば、多少話は飛ぶかもしれないが、思ったことの二つ目は「だからテクノロジー脅威論はなくならないのだな」ということである。テクノロジーへの脅威というのは、時代ごとにテーマを変えつつ人類史の中に繰り返しあらわれているものだが、今ならさしずめ「人工知能脅威論」である。

 人工知能を怖がっている人は、「人工知能はもうすぐ人間より賢くなってしまう」とか、「シンギュラリティ(特異点)を超えてもはや人間にはコントロール不可能になり、人工知能の方が主となってしまう」とか言うのであるが、結局おそれているのは、見通せない範囲、管理不可能な範囲がますます広くなってしまうということだろう。

 つまり、それが「理解できない」から怖い。これは一面で人間の本性でもあるのだが、歴史的に言っても人類は、まず隣の部族を怖がり、都市ができれば外国人を怖がり、世界がそれなりにつながったあとには宇宙人を怖がってきた(「エイリアンはそんなにバカじゃないという話」も参照)。つまり、基本的に「外側」が怖いわけである。

 それなら、確かに「高度に専門的なテクノロジー」についても、相応の知識を持っていない人にとっては「外側」に位置するわけだから、怖がるのも当然だろう。もっとも「人工知能は人間を超えるのか」でも書いたように、人間が作ったものなら、少なくとも作った人にはそれは理解可能な存在だというのは忘れてはいけないことである。

 要するに、人工知能ならプログラムにあたるが、問題は「誰がどんな意図で作るか」である。どんなテクノロジーでも、よいことにも使えるし悪いことにも使える。それは作る人と使う人の思惑次第であり、「人工知能が人類に反旗を翻す」みたいな極論を言う人も、実はそこで最も考えるべきなのは、いかに人間の倫理観を保つかなのである。

 したがってグーグルやフェイスブックに「アルゴリズムを公開せよ」というパリサー氏の言い分もまあわかるのだが、もっとも、公開したところでそのような問題意識自体がない人はそもそも関心を持たないだろう。つまりここには、「どこまで考え続ける(学び続ける)主体性を持っているか」という別の問題が確固としてあるのである。

 実際、「自我のインターネット」という現象も結局は「思考停止」が招いているものであり、よくみてみるとこれは、伝統的に言うところの「信仰」に近い態度である。つまり、無批判にフィルターバブルの中にいてシステムに自我を規定されている人は、本人が自覚しているかはともかく、客観的には神を信仰している人にそっくりである。

 要は、自分よりも情報量が多い(とみなしている)存在にコミットするうちに、むしろそれに取り込まれ、気がついたら操られる側になってしまっている。人間はもともと不完全な存在だが、だからこそ放っておくと「より大きなもの」に身を委ねがちであり、容易に操縦されてしまうのである。これは決して大げさな喩えではないだろう。

 

 結論をいえば、結局はやはり、自分自身が問い、疑い、考え続けるしかないということである。少なくともそうしていれば、 知らないあいだに何かに操られているということは起こりづらいし、根拠のない不安や怖れを抱くこともなくなる。強調しすぎることはないと思うが、人間は、考えるのをやめたら、それ以上の自由はないのである。

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

 

 


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