フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

なぜ自然は汚くないのか、あるいは自然は本当に美しいのか

 「なぜ自然は汚くないのか」。ありていに言えば「なぜ自然は美しいのか」だが、ともかくこれについて考えてみたい。さしあたり「自然とは何か」という問題もあるが、これについては深く考えず、日本語における最も一般的な用法としての「人工物がまったく、あるいはあまりない環境」くらいの意味でとらえておくことにしたい。

 

 さて、「自然」の定義に立ち入らないとすると、考えるべきは「美しさとは何か」ということになるかもしれない。しかし、ここでは「美」の定義についても立ち入らない。というより、結論を先取りすれば、われわれは全く異なるいろいろな判断を「美しいと感じている」とみなしているのである(したがって美に本質はなさそうである)。

 ともかく、ここで考えたいのは、たとえば自然の風景をみた時に「美しい」とは思っても、だれも「汚い」とは思わないのはなぜか、ということである。もちろん実際には汚いと思う人もいるかもしれないが、大多数の人が「自然」に触れてポジティブな反応を示すのは事実だろう。したがってここには、何か普遍的なものがあると考えられる。

 そこで「人類」のレベルで考えることになるが、最初に思いつくのは、われわれの脳(=心)そのものに、自然を美しいと感じさせる何らかの基盤があるのではないかということである。実は「なぜ美しいか」ではなく「なぜ汚くないか」の方が答えに迫れそうなのもそのためだが、要するに自然は「嫌いようがないもの」かもしれないのだ。

 

 そもそも、現代人の視点をはなれて「人類にとって自然とは何か」ということになると、第一にそれは「圧倒的に親しみのある環境」であろう。人類の歴史の99.9%以上は狩猟採集生活なのであり、われわれはずっと自然の中で暮らしてきた。だから人類の脳も当然、自然環境の中で最も適応的に振る舞えるように進化していると考えられる。

 したがって、いくら「現代人」といっても物理的基盤としての脳は古代人とたいした差がないわけだが、それなら、今でも自然の風景を認識したときに基本的にポジティブな反応が引き起こされるのは、ある意味で当然だろう。というのも、神経科学によれば、われわれは何かを「すばやく処理した時に」ポジティブな反応を得るからである。

 なぜ処理のすばやさが「快」に結びつくかといえば、脳の最大の仕事は「問題解決」だからであるが、つまり入力情報に対する処理が簡単であるに越したことはないからである。要するに「自然」に関する知覚は、われわれがそれに「慣れている=情報処理が最適化されている」がゆえに「快適」であり、それがある種の「快」となるのだ。

 

 ということは、われわれが自然を「美しい」という時の「美しさ」は、実際は「それを認識する際のプロセスにおける心地よさ」なのであって、自然そのものが美しいという感覚は、実は「錯覚」かもしれないであろう。実際、逆に「大自然の驚異」などという時の「自然」は、自然界においては(脳にとっては)むしろ不自然なものである。

 つまりそこでは、日常的な生活の中で「自然」にふれて「美しい」という時とは別のメカニズムがはたらいていると考えられる。いわゆる「大自然の驚異」は、非自然的だからこそ特別なものを感じるのであり、それはまた別の情報処理に基づくものであろう。つまり、こちらはむしろ自然という対象への、いわゆる「畏れ」だと考えられる。

 実際、「宗教」というものは、原始的には明らかにそこから生じているだろう。宗教においては、言葉が基本的構成要素となる以前は、どこでも自然崇拝が基本である。ともかく、それなら日常的な自然にふれている時と、滅多にないような「自然」を目の当たりにしている時では、実際に感じている「美しさ」は大きく違うことになる。

 

 要するに、「美しい」にもいろいろある。もっとも、ここでみたのはどちらも言わば「本能的」な情報処理に基づくものであって、より高次には「意味解釈」を含むレベルというのもあるから、それについてはもっと立ち入った議論が必要だろう。実際、この問題は「環境美学」という一分野を形成しているほどである(『分析美学入門』)。

 ともあれまとめると、われわれが自然を美しいと思う(もしくは、汚いと思わない)のは、それが最も馴染みがある知覚であるがゆえに処理が簡単である、つまり「脳にとって心地よい」からである。言いかえれば、感覚のレベルでの認知を無理に言葉で表現しようとした結果、たまたま「美しい」等々の言葉が出てくる、ということである。

 

 ちなみに、この「心地よさ」についてもう少し追求すると、自然環境が脳にとっては「普通」のものであるがゆえに、そこが「基点」となっているから、という説明もできるだろう。以前の記事で「肌の色は脳にとっては無色である」という説を紹介したが(「ヒトの脳という見えないフィルター」)、論理としてはそれと同じことである。

 つまり、われわれの知覚は「変化」を認識するために発達してきたため、なんであれどこかに基準があり、ここでいう「自然」の知覚も、脳にとっての「基点」かもしれないということだ。それなら、われわれが認識する「自然」はニュートラルなもので、だから本能的には好きでも嫌いでもなく、ただ副次的作用によって「快」なのである。

 

人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線

人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線

  • 作者: マイケル・S.ガザニガ,Michael S. Gazzaniga,柴田裕之
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  • 発売日: 2010/02
  • メディア: 単行本
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 神経科学的な基盤についてはひとまず本書を参照した。もっと射程が広い本だが、「芸術の本能」と題する一章で多くの研究が紹介されている。ちなみに、程度は違えど心理学にも「単純接触効果」(=接する機会が増えるだけでその対象に好意を持つようになる)というのがあるが、まことにわれわれは、慣れ親しんだものを好むのである。

 

分析美学入門

分析美学入門

 

 分析美学では、この記事でみたような本能的に感じる類の「美」とは別に、知識や経験をもとに、より積極的・能動的に見出すような高次の「美」を扱う。諸説紹介されているが、著者によれば、どれも一理あって相互補完的である。なぜなら、自然には「作者の意図」がない、つまり鑑賞を導くための要素が、もともと存在しないからである。


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