フリー哲学者ネコナガのブログ

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借りた本に書き込みをする人は何を考えているのか(文字通りの意味で)

 「借りた本に書き込みをする人は何を考えているのか」。人に本を貸して、返ってきたら書き込みがなされていて、「何を考えているんだ」と思った経験のある人はそれなりにいるだろう。あるいは、逆にあなたは「借りた本に書き込みするのが問題なのか」と思っている側の人かもしれない(今ではこちらの方が少数派と思うが)。

 これについて、私自身は「何を考えているのか」と思う側の人だったが、それはさておき興味があったのは、文字通り先方は何を考えているのかということである。別に嫌がらせをしようとしているわけではなさそうだから、あちらにも言い分があるのだろうということだ。何であれその点を問わねば相互理解は始まらない。

 こういう実感を知るには、意外とネットが役立つこともある。そこで軽く検索してみたが、もっともそこでは文字通りではない意味の方、つまり愚痴を垂れ流している人ばかりだったので(借りたものを相手が嫌がるように使うのもどうかと思うが、ただ愚痴を垂れ流して同情を誘うのも大人としてどうかと思う)ほとんど参考にならなかった。

 ただ、個人間よりも図書館の本の扱いでこの問題が頻発していることはわかった。そこでまず推測できるのは、これは人間関係の問題や好みの問題ではなく、もっと深いところに対立の原因があるということである。つまり、当事者が何者であれ、あるいは貸し借りされるものがなんであれ、それは本質的には関係なさそうである。

 したがって問題は個人の内面の次元にありそうだが、結論からいえば、これは広い意味での「法意識の違い」というのが理由の一つとなっていると考えられる。つまり、建前上の「共有されているルール」を「どのようなものとみなしているか」が根本的に違うのだ。だから、何が「当然」であるかも異なる。今回はこれについて書いてみたい。

 

 実をいうと個人的にこの問題が解けたのは川島武宜『日本人の法意識』を思い出したからであるが、全然関係ない本を読んでいたら川島氏についての言及があって「そうか、これも法意識の問題だ」となり、そこで同書を読み返してみたら、この「借りた本をどう扱うか」という問題はまさに身近な一例として挙げられていたのである。

 したがって同書を紹介しつつ説明することにするが、ただ、ここからわかるのは、この問題はそれほど根が深いということである。川島氏は「借りた本に書き込みをする」ような態度が「近代以前の日本社会ではむしろ普通であった」ということを指摘しているのだが、つまりその意識が今も続いているのだとみることもできるからである。

 

 順番に説明するが、まず「法意識」とは何かである。本書によれば、それは法に関係する意識、それも狭い意味での「意識」だけではなく、むしろ法に関係する「無意識的な」心理状態を指している。つまり、本人がそれに意識的であるかどうかとは関係なく、法のもとで本人が「実際に」どのようにふるまっているかが問題となる。

 ここで重要なのは、それゆえに「法を立てさえすれば社会や個人の意識が変わるわけではない」ということである。本書は一般向けに書かれているのでそのあたりの解説も最初にあるが、要するに「法」を立てたところで、それが運用されうるだけの「地盤」が当該社会にない場合には、期待されるような効力を持たないということである。

 あるいは、運用されるとしても、それが「どのように運用されるか」はやはり社会の地盤次第となる。したがって、地盤に合わない法を立てた場合は当然、法と現実が大きくズレる(これについてはモンテスキュー『法の精神』も読むとよいが、普遍的な法など存在しないから、どこでも「社会に合わせた」制度を整える必要があるのである)。

 

 そこで本題だが、結論からいえば、ここで注目すべきなのは「私的所有権」に対する法意識の違いである。これについて「近代的な法意識」を持っているかそうでないかが問題の根源となる。つまり、同じ「私的所有権」といっても近代と前近代では意味が違うのだ(ここでいう「近代」は社会学的概念だが、それについての説明は省く)。

 川島氏によれば、近代的な意味での私的所有権の特徴はまず、それが「客体に対する全包括的・絶対的な支配権であること」である。つまり、ある人があるものを所有しているという場合、その人はそのものに対して文字通り「何をやってもいい」ということである。どう使っても使わなくても、捨てても売っても破壊してもかまわない。

 もっともこれは、近代法の一つである現在の日本の法体制を「当たり前」のものとして内面化している多くの現代日本人からすれば、文字通り「当然」のことであろう。「私のものを、私がどう扱おうと勝手である」。だからこそ、逆に「私のものではないものを」私のものであるかのように扱う人に対して、「何を考えているんだ」となる。

 ところが、これは長い歴史の中で考えてみると非常に特殊な感覚であって、近代社会に固有の発想(意識的・無意識的)であるというのがここでのポイントである。つまり、前近代社会においてはこんな考え方は少しも「当たり前」ではなかったということだ。これについて川島氏は、わかりやすく土地利用の実態を例としてあげている。

 

「近代以前の社会では、土地・山林・原野・河川等については、それぞれの『物』の性質・効用に応じて、またそれぞれの主体に応じて、限定された異る内容の権利が成立したのであり(たとえば、耕地に対しては、Aは耕作する権利とそれに伴う地代支払義務とをもち、Bは耕作者から地代をとる権利をもつ、というふうに)、そうして、それらの権利は言わば並列的に、ひろい意味での『所有』と呼ばれていた」(岩波新書『日本人の法意識』初版1967年)。 

 

 要するに前近代社会では、同じ対象について重層的な所有意識が成立しえたのである。これは、先にみた近代的な所有権の考え方とは矛盾する。なぜなら、近代的な私的所有権の場合はただちに「全包括的・絶対的な支配権」が正当化されるのであり、全支配権を持っているか、少しも支配権を持っていないかのどちらかしかないからである。

 ところが前近代社会では、こうした「全包括的・絶対的な支配権」という発想そのものがなかった(もっといえば前近代社会には、今でいうところの「法」という発想そのものがなかった)。つまり、あらゆるものがいったい誰のものか、客観的には定まっておらず、それはただ「事実」としてゆるやかに曖昧に成立しているだけだったのだ。

 そこで次に重要となるのが、「所有」と「占有」の区別である。川島氏によれば、近代的な私的所有権のもう一つの特徴は、それが「観念的・論理的に決定されるものである」ということである。つまり、所有権(全包括的・絶対的な支配権)を有しているか否かは、現実にそのものにどのような支配を及ぼしているかとはまったく関係がない。

 わかりやすくいえば、「占有しているからといって所有しているとは限らない」ということである(逆に、所有しているからといって占有しているとも限らない)。たとえば、賃貸マンションに住む人はその部屋を占有しているが、所有権は貸主にある。つまりそこでの所有関係は、抽象的な取り決め「のみ」によって決まっているのである。

 まとめると、近代法の枠内での「私的所有権」は(1)全包括的・絶対的なものであり、それは(2)観念的・論理的に決定される。したがって、誰が何をどう扱ってよいかは、すべて事前に決定されている(ちなみに、近代社会においてのみ「裁判」というものが可能になるのもそのためである。前近代社会では裁判など成立しえない)。

 

 さて、そこで日本社会はどうなのかといえば、ご存じのように現在の日本社会は西洋社会を基盤とする「近代法」を採用している。つまり、制度的には近代的である。ところが最初にみたように、法とは「それによって人々の意識が決まる」ようなものではなく、むしろ人々の意識に基づいて運営されるものである。ここにギャップがあるのだ。

 要は、日本社会は制度的には近代法を採用しているが、それを運用するにふさわしい「法意識」の方が根付いてはいないのである。これは日本の社会科学における根本的な問題の一つだが、日本社会は「不平等条約を撤廃するという政治的な目的のために」(川島)近代法を採用したため、実態と法とのズレが大きくなってしまったのである。

 

 こうした大きな問題意識からいうと、もはや「借りた本への書き込み問題」の根源は明らかだろう。要するに、近代法を運用するにふさわしい法意識が根付いていない、いや、教育によって部分的には根付いても、その内面化の度合いが個人によって大きく違うということである。だから、人によっては占有する本をあたかも所有してしまう。

 もっとも、そこで話が通じないからといってどちらが正しいというわけでもないのが、社会を考えるにあたっては重要な点である。なぜなら民主主義においては、「国民の意識」に合わせて法が立てられ、運用されるというのがやはり正しいからである。だからこれは、どのような対処がふさわしいかを常に「全員」で議論すべきことなのだ。

 私が、借りた本に書き込みをする人に対して「頭がおかしいんじゃないか」くらいの勢いでただ愚痴を垂れ流している人について、それはそれで幼稚だと感じるのは、そうした人も「自分が絶対に正しい」と思いこんでいて、他の可能性をいっさい考えていないという点では少しも違いがないからである。結局、思考が停止している。

 つまり、そこでは確かに、所有権についての近代的な法意識はあるかもしれないが、一方で近代社会の根幹である「民主主義」については、少しも顧みられていないのである。これは、優等生として先生には褒められるかもしれないが、社会に参加している意識がないという意味では、大人の態度とみなせるかはきわめて微妙だろう。

 

 話が膨らんでしまうのでそろそろ終わりにするが、まとめると、借りた本の書き込み問題は決して些細な問題ではなく、そのまま日本社会の根本的な問題につながっているということである。したがって、今のところ「法的には」どちらが正しいかは決まっているが、それが絶対的な「正義」ではないことはいつも頭に置いている必要がある。

 

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

 

 川島氏は、かの末弘厳太郎氏に師事した日本の法社会学の大家だが、丸山眞男、大塚久雄両氏とともに「戦後日本の三大学者」とも呼ばれている知の巨人である。ここに挙げた4人の各一般向けの著作はいずれも今でも容易に手に入るので、この記事がおもしろかったという人は問答無用ですべて読んでみるといいと思う。貼っておく。

 

役人学三則 (岩波現代文庫)

役人学三則 (岩波現代文庫)

 
日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 
社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス (岩波新書)

社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス (岩波新書)

 

 

 また、一つだけ付け加えておくと、法意識が法に先立つべきである「にもかかわらず」日本社会は例外的に法に合わせて法意識をつくるべきだ、と考える人が少なくないのは、日本社会はすでに、全体的に言って「制度的には」近代的な枠組みを採用しているからである。つまり、近代民主主義、近代資本主義、近代法の各枠組みである。

 問題は、これらが本質的に相互依存的だということにある。たとえば川島氏も指摘しているが、近代的な私的所有権は、資本主義の成立にとっても不可欠である。なぜなら、あるものについての「所有権」が先述の条件を満たしているのでなければ、そのものは「商品」として流通しえないし、それなら「市場」も成立しえないからである。

 あるいは、むしろ近代法は「資本主義を円滑に運営するために」ととのえられてきた歴史があるし(西洋の文脈で)、それなら権力側が勝手に法を決めるのでも困るし(だから民主主義であり、また近代法は必ず「権力から市民を守るためのもの」という性質を持つ)、要するにすべてはつながっていて、部分的に採用するのは無理なのである。

 だから、すでに部分的に根付いてしまった以上、あるいはまさに近代という時代状況に即していえば、それを採用してしまうよりほかに選択肢がなかった以上、「どうせ採用するなら、最もうまく運用すべきだ」ということである(あるいはもちろん、こうした価値観を今のところ人類が思いついた最善のものと考えるから、という人もいる)。


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