フリー哲学者ネコナガのブログ

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ダーウィン的思考法のすすめ─古典を読むべき本当の理由

 唐突だが、ダーウィンの「思考法」について考えてみたい。ダーウィンの最も有名な業績である「進化論」については以前の記事を読んでいただくとして(ダーウィン進化論の何がすごいのか)、ここではあまり知られていない晩年の著作にふれつつ、ダーウィンの著作に共通してみられる「思考法」の一つを抽出してみることにする。

 

 取り上げたいのは、死の1年前に刊行された『ミミズと土』である(ちなみに『種の起源』と同じく、本書も実際のタイトルはむやみに長い。原題は『The Formation of Vegetable Mould, Through the Action of Worms, with Observations on Their Habits』、『ミミズの作用による肥沃土の形成、およびミミズの習性の観察』である)。

 タイトルからわかる通り「ミミズの研究」をまとめたものだが、もっとも、進化論という壮大な学説を展開したダーウィンが、ミミズ「も」研究していたと知れば驚く人もいるだろう。しかし、実はこれはサブ事業ではなく、いわゆるライフワークである。ダーウィンは、じつに40年以上もかけてミミズの研究を行っていたからである。

 ダーウィンはもともと1837年に「土壌形成について」というミミズにかかわる論文を発表していたが、遺作となった本書が発表されたのは1881年のことである。その間ずっと、できうる限りの注意を払いながらミミズを研究し続けていたのだ。その意味で集大成とも言えるものだが、本書を通してダーウィンの「思考法」に迫ってみたい。

 

 『ミミズと土』は、ミミズの「習性」についての観察結果を述べるところから始まっている。というより、最初の三分の一ほどはそれであり、ただただミミズの性質について述べている。これだけなら、あるいは「物好きの本」と呼ばれても仕方なかったかもしれない(実際、刊行された当初はそのように評価されたらしい)。

 もっとも、それだけで終わらないのがダーウィンのすごさである。ダーウィンは必ず、身近なところから出発して、最後には壮大なストーリーに到る。たとえば進化論においては、身近な動植物の観察から「遺伝」と「変異」の事実を確認して、そこから自然淘汰説を導き、結局は「なぜ多様な生物が存在しているのか」まで説明した。

 本書でも、その思考スタイルは変わっていない。ダーウィンは、ミミズの構造や感覚、行動パターンを「事実」として確認したあと、最終的には「世界の歴史においてミミズが果たした役割」にまで到達するのだ。実際にはダーウィンの結論に今日では異論もあるが、ここでは論理が重要であるので、そのまま紹介しよう。

 

 ダーウィンが観察の結果として結論づけたことは、まず「ミミズは大地をかきまわす」ということである。今では「ミミズがいる土は肥えている」というのは常識だが、これを言い出したのは実はダーウィンなのである。そしてダーウィンの考察によれば、ミミズは第一に、われわれが思っている以上に土をかきまわしている。

 実際、最終的にどこへ行くかといえば、ダーウィンは「遺跡」について述べているのである。つまり、われわれは古代遺跡を「発掘する」という事実に大した注意を払わないが、そもそも「なぜ遺跡は埋もれているのか」という話で、ダーウィンによれば、これはミミズの仕業なのである。ミミズは、古代遺跡の保存事業を行っているのだ。

 このあたりの数字、ミミズが日々どれほどの量の土を動かしているかについてはかなり細かく述べられているが、ロジック自体は実に単純である。まず、ミミズは雑食性である。ちょうどクジラが海水ごと飲み込んでから餌をこしとるように、問答無用で土を体内に取り込んでから、食物となるものだけを抽出する。そして残りは排出する。

 この時、ただ排出するだけではない。ミミズの体内を通った土は(実際には、われわれが「土」と呼んでいる地表面の土はほぼすべてミミズの体内を通っていることになるが)、消化器官の一部である「砂のう」において細かく砕かれている。したがってこれが繰り返される結果、土の粒子はだんだん大きさが平均化されてゆく。

 もちろん、こうして「砕かれてゆく」のはミミズが体内に取り込めるものだけだが、だからこそ、地表にあってミミズが食べないものは、だんだん沈んでいくのである。なぜなら、ミミズは取り込んだ土を地表に排出するからである。つまり、ミミズは絶えず「下から上に」土を運んでいる。その結果、地表のものが埋もれる。

 あるいは、同様に長い時間をかければ、こうしてミミズは「山をも崩す」と言うこともできる。というのも、ミミズが排出する土の塊は、粒が細かいために風や雨によって容易に崩され、運ばれ、結果として地表面が「ならされる」からである。つまり、平らな場所にミミズがいるのではなく、ミミズがいるから表面が平らになる。

 ちなみに、ダーウィンが引用しているヘンゼンの試算によると、ミミズの数は1エーカー(およそ63メートル四方)あたり5万3767匹である。ここでは土を「動かす」ことに注目したが、実際、これほどいるからこそ土が肥える、つまりミミズの排出物に含まれる肥料成分が、植物の成長にかなりの影響力を持つのである。

 

 さて、そこで「思考法」だが、結論からいえば、ダーウィンの思考の特徴は「時間軸を導入する」というところにあるだろう。つまり、成立している事実の中から何らかの単純な「規則」を見つけたら、「それが繰り返されるとどうなるか」を考えるのである。それも、実感が持てる範囲だけでなく、何万年、何億年のスケールで考える。

 これは、ダーウィンの著作で初めて「進化論」について述べられた『種の起源』においてもベースとなっているし、あるいはここでみた『ミミズと土』はもちろん、ダーウィンのあらゆる著作にみられるものだ。ダーウィンは常に、数少ない手がかりから何らかの「全体像」を見出すが、それは時間を超えた推論を行っているからである。

 あるいは、ダニエル・デネットは『種の起源』におけるダーウィンの業績について、「ダーウィンは、アルゴリズムというものの力を発見したのだ」と表現している(『ダーウィンの危険な思想』)。アルゴリズムとはご存じのように解を導くための計算手続きのことだが、ここでは「自然の摂理」がそれにあたるわけである。

 要するに、どれほど単純な規則であっても、それが適用され続けていると「思いもよらない結果」を導くということである。逆にいえば、観察できる何らかの変化が(ランダムではなく)何らかの「方向性」を持っているなら、その後ろにはかならず原理、つまり規則があることになる。だから「説明」というものが可能になるのである。

 こうして、単に規則に注目するだけではなく、時間軸をとてつもなく引き伸ばし、言わば「思考空間を四次元にする」ことで、目の前で観察できることをもとに「はるかな過去」に想像を巡らすことができるのである。実際、『ミミズと土』の解説でグールドは、本書が「歴史科学の基本的な推論様式」を示していることを指摘している。

 

 もっとも、「思考法」ということで重要なのは、実は「時間軸はどちらに引き伸ばしてもかまわない」ということである。つまり、過去を知るだけではなく、同じ方法で未来を「予測」することも可能になる。そして、これは科学的な研究においてだけではなく、日常生活において、あるいはビジネスにおいても十分に使えるものなのだ。

 実際には、考察する空間が自然界ではなく「社会」になると、かならず「人間」という変数(自由意志を持つ、ふるまいが予測しづらい存在)が入るので複雑性は上がるが、「それでもしかし」、一人一人は自由に動いているように見えても、「全体としてみれば」何らかの規則が見出されるということは事実である。

 実際、いわゆる「社会科学」はここから始まったのである。そもそも「個人の行為の総和が社会ではない」=「考察空間として社会という独自の次元を設けねばならない」というところから「社会学」なるものが創始されたわけだが、現在「社会科学」と呼ばれる諸分野、たとえば経済学や政治学、法学等々はそこから分岐したものである。

 あるいは、再現実験が原理的にできない(客観的に検証することが難しい)ことから「社会科学は科学ではない」と言われることもあるが、「科学ではない」というのは「意味がない」ということではない。例外が生じるのは避けられないが、大まかな「見えない規則性(法則)」を見出すというところに社会科学の存在意義があるのである。

 そして、これがなぜ日常生活やビジネスでも使えるかと言えば、まさに「何が原因かわからない」ような問題を考えるのにふさわしいからである。つまり、目の前で観察できることだけでなく「時間軸を引き伸ばして」思考を巡らすと、局所的な原因だけでなく「根本的な原因」が見えてくる(社会科学では「構造的な問題」という)。

 あるいは、多くの人は問題が生じてから解決策を考えるが、実際にはこの「思考法」が役に立つのは、むしろ未来を見通すことができるからこそである。つまり、事態が生じる前に問題を発見できるのだ。結果が生じる前に些細な「変化」に意識を向けておくことで、「規則」を事前に見つけて、それが繰り返された結果を予測できるのである。

 またこれは、いわゆる「自己分析」にも使える。人の一生は自然界のスケールからすれば一瞬ではあるが、それでも「習慣」が大きな結果を生むことはよく知られている。たとえば、とくに「無意識に」毎日やっていることについて、「やってきた結果」どうなっているのか、あるいは「やり続けると」どうなるのかを考えてみるとよい。

 

 さて、以上がとりあえず「ダーウィン的思考法」の説明である。もっともダーウィン本人がどこまで意識的であったかは定かではないし、あるいはこれだけがすべてではないので、ここでは「ダーウィンの思考法」ではなく「ダーウィン的思考法」と呼んでおこう(あるいは、そう呼びたければ「哲学的ダーウィン主義」と呼ぶこともできる)。

 もっとも、これがダーウィンだけのものかというと、もちろんそんなことはない。というより、「とてつもない時間」の導入については、ダーウィン自身もおそらくラマルクの『地質学原理』に多くを依っているだろう。しかし、ともかく言いたいのは、古典と呼ばれる書物の多くは、このような抽象的な推論を含んでいるということである。

 実際、そこで述べられていること、あるいはその結論に至った思考の原理が「時代や場所や考察対象を限定しない」からこそ、古典は時間も空間も超えて読み継がれているのであり、あるいはあらゆる対象に「応用」され続けているのである。要するに、われわれが古典から学ぶべきは、結論ではなく、そこに至った方法論、「思考法」なのだ。

 ときどき、「最新知識だけ学べばいい」と言って「古典」をまったく読まない人がいるが、端的にそれは間違いだということである。どちらに偏るのもよくないが、少なくともどちらかを捨てるのは、学ぶという意味では明らかに誤った選択である。これが、この記事のもう一つのタイトルである「古典を読むべき本当の理由」となる。

 

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

 

 ちなみに、実際には「学問」ということで言うなら、「問題が生じたから解決する」とか、「問題が生じないように事前に対処する」とかではなく、「興味を持ってしまったことを追究して自分の好奇心を満たす」というのが原動力である。実際、ダーウィンがなぜミミズを研究し始めたかというと、「土をいっぱいつめたポットでミミズを数か月観察している間に、私はミミズに興味を抱くようになり…」とあるが、「そもそもなぜ土をいっぱいつめたポットでミミズを数か月観察していたのか」という問題もあるから、要するに「興味を持ったから」としか言いようがない。

 あるいは、ダーウィンはミミズの感覚を探るために試みたことを記しているが、「ミミズの近くで呼子笛の鋭い音をだしても、バスーンの最も低く最も強い音をだしても平気であった」とか、「ミミズは私がかみタバコをかんだあとの息やミレフルアの香水を数滴、あるいは酢酸を数滴たらした脱脂綿を口に含んで、息をはきかけても、同じように無関心であった」とか、興味がなければこんな試みは思いつきもしないだろう。「何の役に立つのですか」などと言ってみても仕方がない。社会にとってどういう意味を持つかは結果論であって、おもしろいから研究するのが正しいのである。


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