フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセーです。

「重複表現」の問題(2)なぜ「違和感を感じる」に違和感を覚えるのか

nekonaga.hatenablog.com

 「重複表現」について、前回はそれを嫌うことの妥当性についてみてみたが、今回は「なぜそれが生じるのか」も含めてもう少し真面目に考えてみることにしたい。具体的には、なぜわれわれは「頭痛が痛い」という言葉を聞くと頭が痛くなるのか、なぜわれわれは「違和感を感じる」という表現に違和感を覚えるのか、ということである。

 

 最初に仮説を立てるなら、素朴には、われわれは「表現」ではなく「意味」の重複が特に気になるらしい、と考えることができるだろう。前回言ったように、「表現」における繰り返しはそれ自体が一つの技法となっていることもあり、その場合は「冗長だ」とは感じられないからである。たとえば、ここでの論点を際立たせるためにわかりやすく「文章」のレベルで例を挙げてみると、エミール・ファゲによる『読書術』の「一番最初」(これは重複表現だろうか)には、次のような文章がある。

 

 「読むことを学ぶためには、先ず極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして次には極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして、単に諸君によって読まれるという名誉を持つであろう最後の書物に至るまで、極めてゆっくりと読まねばならぬだろう」(石川湧訳『読書術』)。

 

 「表現」の重複を避けるべきなのであれば、これはまさに前回見たところの「冗長な」文章に当たるだろう。しかし、ここでは同じことを複数回言われることによって、「ゆっくり読むことがよほど重要なのだな」という強烈な印象を受け手に与えている。つまり、表現が重複するとしても、それによって「意味」の方にも何かが付け加わるのであれば構わないわけである。

 逆に言えば、特に大きな意味の変化は生じない、つまり意味としては何も付け加わらないにもかかわらず「同じこと」を何度も繰り返された場合は、文字通り「冗長だ」という印象しかなくなってしまう。例えば、次の文章のような場合である。

 

「ある家庭が火事をおこした場合には、何よりもまず、その左側の家屋の右側の壁と右側の家屋の左側の壁を保護することに努力しなければならぬ。何故ならば、例えば、左側の家屋の左側の壁を保護したとしよう。その家屋の右側の壁は左側の壁の右側にあり、ところが火事はこの両方の壁のさらに右側にあるのだから(というのは、われわれは、家屋は火事の左側にあると仮定しておいたからである)右側の壁の方が左側の壁よりもいっそう火に近いわけだからである。したがって、家屋の右側の壁は、もしそれが保護されていないと、保護されている左側の壁に火が燃え移るより先に、燃える恐れがある。左側の壁もまた保護されていないとしても、それでもやはり、保護されていない右側の壁の燃える方が早い。だから前者を放置して、後者を保護することが必要である。このことをはっきり頭に刻みこむためには、次のように記憶していればいい。家屋が火災の右側にある時は左壁を、家屋が火災の左側にある時は、右壁を保護せよ」(淡徳三郎訳『戦争論』より孫引き)。

 

 これは、クラウセヴィッツが『戦争論』の序文において「聡明な読者を尻込みさせるわかりきったおしゃべり」の例として挙げているリヒテンベルクの火災対策論だが、情報伝達が目的なのであれば、確かに冗長だとしか言いようがないであろう(ユーモアは生んでいるが)。実際、同じ内容を伝えるためには、じつに最後の一文だけで事足りるのである。

 これは、語のレベルで言えば前回見た「たまたま偶然出会った」と同じ事態だと言えるが(「出会った」だけで事足りる)、いずれにしても、重複それ自体が新たな意味内容を生むことなく、ただ表面的に無駄なものが増えているということである(もちろん、結果論としてはそうした事態も意味を生む場合はある。事実、このような機会に例として挙げられるというまさにそのことが一つの役割として成立している)。

 

 さてともかく、注目すべきは「表現」の重複ではなく「意味」の重複であるという考えは、それなりに的を射ているだろう。つまり「頭痛が痛い」が気になるのは、「頭痛」とすでに言ってしまった以上は「痛い」を加えても新たに何かが加わるということはないからである。これは素朴に思いつく説明だが、それなりの説得力はあるわけである。もっとも、話はここで終わらない。

 問題は、上の説明が正しいのであれば、「一番最初」の場合のように、慣習上許容されている場合、つまり比較的違和感を生じづらい場合はどうなのかということである。ここにおいても、「最初」に「最」とあるのだから、わざわざ「一番」を加えるのは冗長であり、意味の重複に当たるだろう。にもかかわらず比較的通用するのであれば、こうしたものも含めて説明するためには別の視点も必要になる。

 

 要するに、一口に「重複表現」と言っても「重複」が生じるレベルはいろいろあるということである。そこで結論を言ってしまえば、この問題は「言語」のレベルで分析している限り整合的な説明はできないと考えられるのである。というのも、ここでやっているような分析において「言語」として扱っているのは、話されるなり、書かれるなり、いずれにしても頭の中から実際に「外に出てきたもの」だけだからである。

 こうした表面的なものだけを「言語」と呼ぶのが古い考え方であることは言語学や言語哲学の歴史に照らしてみても明らかだが、要するに、認知的な意味での「言語」と、客観的に運用されている「言語」は決して一対一で対応していないということである。そもそも、たとえば「話し言葉」と「書き言葉」でさえ大きな隔たりがあるのだから、頭の中での「言語」が何らかの形でそのまま表現できると考える方がおかしいだろう。

 またそれとは別に、統語論(ざっくり言えば記号操作のこと)だけでは「意味」は生じない、という問題もある。ここまで「意味」と「概念」を区別しなかったが、実際には「意味」というのは、出てきた「言語」を分析することで導かれる「概念」とは別に、それが発せられた状況や解釈者の個人的な記憶も含めたある種の「全体性」とともに生じるものである。つまり、語なり文なりが表しているのは、比較的客観的である「概念」のみであって、そこから受け取る「意味」の方は、きわめて主観的で、広い意味での「文脈」によってばらつきがある、ということである。

 あるいは、もう一つこうした分析において暗黙の前提となっているものに「語の意味の総和が文の意味である」というのもあるが、これも考え方としてはすでに主流ではなくなっている。つまり、あくまでも運用されている言語を分析・説明する過程において「語」を基準とするのは自由だが、実際のわれわれの脳(心)における情報処理、つまり認知的なレベルにおいては、「意味」の最小単位として「語」を仮定するのは妥当ではないということである。

 要は、全体の意味が先にあり、それを割り当てていって初めて「語」の意味が決まる。したがって、われわれが「重複表現」に対して違和感を覚えることができるのは、先に全体としての意味を受け取り、その意味を実際に現れている言語表現と突き合わせた結果、その時点において「余分なものがある」と感じるからである。それなら、実は「表現と意味のギャップ」こそ真の問題なのであり、そして、ここに主観的な「意味」がからんでいるのであれば、これ以上を論じることは難しくなってしまうだろう。

 

 まとめると、「重複表現」における違和感の根源は、個人的体験としての「表現と意味のギャップ」にあるのであり、したがって、いわゆる「重複表現」が「本当に」重複表現であるかどうかは、まさに「その時点でその解釈者が」違和感を覚えるかどうかにかかっているのであって、字面をいくら解析してもわからないし、ともかく「客観的に」判定しようとする試みには無理があるということになる。言語を運用するのは必ず、意識を持った人間だからである。これは、人工知能にはまだ通じない話である。

 

分析哲学講義 (ちくま新書)

分析哲学講義 (ちくま新書)

 

 こうした話に興味のある人は、とりあえず分析哲学の入門として本書をおすすめする。分析哲学とは、「言語」の分析を通して哲学的問題を解決しようとする、イギリスやアメリカにおいては哲学の中心となっている分野である。基本的に、それ以前の哲学とは相容れないスタイルをとる。二十世紀はこの分析哲学(あるいは科学においても言語の研究)が一躍注目を集めたために、しばしば「言語の世紀」と呼ばれている。


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト