フリー哲学者ネコナガのブログ

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ヒトの脳という見えないフィルター─マーク・チャンギージー『ひとの目、驚異の進化』『<脳と文明>の暗号』

 理論神経生物学者、マーク・チャンギージーの研究をご存じだろうか。いつかふれようと思って機会を逃していたのだが、ここで簡単に紹介しておくことにしたい。

 

 チャンギージーの著作で邦訳されているのは『ひとの目、驚異の進化: 4つの凄い視覚能力があるわけ』と『<脳と文明>の暗号 言語・音楽・サルからヒトへ』の二冊だが、大まかに言って前者が視覚、後者が聴覚についての本である。ただ、研究方法自体が新しいので、退屈な本ではまったくなく、むしろ多くの人が楽しめるだろう。

 両著作とも内容が豊富で示唆に富んでいるが、ここではチャンギージーの研究の基本的な視点と、二冊目の一部で扱われている「音声言語の本質的な特徴」についての話を特にとりあげることにしたい。ちなみに一冊目では、様々な側面における視覚の特徴について、従来の説明を順番に批判していて、下の動画のような内容もある。

 

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 さて、チャンギージーの研究の基本的な視点を私なりにまとめると、何を研究するにせよ「脳」というものの存在をちゃんと踏まえよ、ということである。脳が介在しない認知はありえないからである。つまり、われわれは必ず脳を通して物事を認知する。そして、逆に言えば「われわれの認知は脳の特徴によって制約を受けている」。

 それなら、人間の脳の認知的特徴はどのように探れるか。それは、人間の脳とて自然界の存在物であり、また生物としての人間の一部なのだから、「自然淘汰」の結果ということになる。つまり、脳は「自然界においてより適応的に情報処理を行えるように」進化・最適化されているはずである、となる。

 もっとも、ここまでなら現代ではどんな分野でも常識であるし、あるいはこれは、適応的観点から人間の行動や認知を研究する「進化心理学」という一分野の基本的な視点でもある。しかし、チャンギージーのユニークなのは、広い意味での「文化」の分析にもこの考えを適用して、次々と新しい議論を展開しているところである。

 つまり、脳が自然界に適応的にできているのであれば、「人工物」あるいは「文化」については、逆に「脳に適応的に」形成されるはずである、と考える。なぜなら、われわれが必ず脳に基づく以上、それが便利だからである。そこで人工物は、言わば「不可避的に自然に似る」ことになる。図にすれば次のような感じであろう。

  【自然界】─(自然淘汰)→【脳】─(文化的淘汰)→【文化】

 ここで、真ん中にいつも「脳がある」のがポイントということだ。脳は自然淘汰の影響下にあるが、一方で人間が作り出すもの(文化)は、逆に「脳に合わせて」文化的淘汰を受ける。だからチャンギージーに言わせれば、大自然の中であろうと大都会の中であろうと、「脳にとっては」その環境に「本質的な差異」はないのである。

 

 さて、基本的な視点をもう一つ付け加えておくと、脳の認知的特徴はまず第一に「変化を認識するものである」というのもある。つまり、われわれの認識はいつも相対的で、変化があるから認識できる。そこで、「変化」だから全体のどこかに起点が必要ということになるが、これについてチャンギージーは「肌色」問題をとりあげている。

 そういえば、日本では「肌色」というのがなぜか「差別的(日本人の肌の色を基準にしているから)」として今では使われなくなっているが、ともかくここでの問題は、それなら、それまで「肌色」と呼んでいた色はなんと呼べばいいのかということである。チャンギージーによれば、実はこれはどの言語、どの文化でも同じであるという。

 つまり、どんな肌の色が典型的であるところでも、それぞれの「肌色」つまり「自分たちの肌の色は」、それを呼びあらわす色がない。世界中のどの文化でも、あらゆる色はたいてい11色以内の基本分類のどれか一つに無理やり押し込めて呼ぶことができるが、「肌色」はどこでも分類しがたいのだという。なぜだろうか。

 チャンギージーによれば、これはまさに、色においては「肌色」が、脳にとっての「起点」に当たるからだという。要するに、「肌色」と他の色の差は、脳にとっては「色の違い」ではなく「色があるかないかの違い」なのである。これは、最も身近であるような色が自分の肌の色だから、ということで説明できるだろう。

 ちなみにチャンギージーは、肌の色は一方で健康状態等によっても変わるため、このように「生理的状態がダイレクトにあらわれる」という点でシグナリングの機能をもっていたのではないかとして、ヒトから体毛が失われたこととの関係も含めて考察を進めている。この話は一冊目にあるが、とても刺戟的であろう。

 

 おもしろくなってきたところで、最後に「言語」の話である。言語の本質は「音声言語」だが、これもヒトによるある種の「文化」だから、チャンギージーの視点でいけば、それは自然界のものに似ているはずである。つまりこの場合、自然界で生ずる「音」の性質と、言語を構成する「音」の性質および特徴は、似ているはずである。

 実際、チャンギージーによれば、言語音は自然界で聞こえる音とそっくりであるという。つまり、われわれが発する言語の音声的特徴は、脳が処理しやすいように、つまり自然界で発生する音と似るように「進化」してきたということである。チャンギージーは多くの実証研究をもとに自説を展開しているが、見事というほかない。

 言語を特定せず普遍的に認められるという意味で音声学の用語を少し使わねばならないが、例は英語でいこう。まず、自然界で頻繁に耳にする音は、大きく分けると三種類ある。「ぶつかる」「すべる」「鳴る」である。そして、これはそのまま、音声学でいう「破裂音」「摩擦音」「共鳴音」に対応するのである。

 まず「破裂音」は(ちょうどボールが地面にぶつかるように瞬間的な音)、言語音としては「b, p, d, t, g, k」にあたる。次に「摩擦音」は(文字通り摩擦とともに生じる音)「s, sh, th, f, v, z」などである。最後に「共鳴音」は(鳴り響く音、最もありふれた音でもある)、言語音としては「母音」と「l, r, y, w, m, n」にあたる。

 もちろん、これだけならそれだけの話だが、これをもとに音素の「組み合わせ」をみてみると、やはり言語音は、まさに自然界の音を模倣しているようなのである。たとえば、割合として「共鳴音」で始まる語が少ないのは、「何のきっかけもなく何かが鳴り始める」という音の出方が、自然界では文字通り「不自然」だからである。

 あるいは、「ぶつかる」には音の出方として実は二種類あり、たとえば鐘を鳴らすと「ぶつかったあとに鳴る」が、一方で現に鳴っている時にもう一度鳴らすと、むしろ音がおさまる。つまり「ぶつかる」には、「幅広い周波数を一気に出現させる」と「幅広い周波数を一気に抑える」の相反する二種類の効果がある。

 そこで「破裂音」の発せられ方はと言えば、やはり二種類あるのである。たとえば「t」は、語頭にきて「train」ではその後の「rain」が鳴る「きっかけ」となるが、一方で語末にきて「what」では、むしろそれ自身は発音されず、先に鳴っていた「wha」を「抑える」。要はここでも、「自然な」音の組み合わせになっているのである。

 

 キリがないのでこのあたりで終わりにするが、チャンギージーは二冊目ではこの手法のまま「音楽」、さらには「ダンス」との関係まで分析しているが、いずれもとてもおもしろく、少なくとも音楽の聴き方は変わるだろう。あるいは一冊目では「文字の形」がまさに「脳に合わせて進化してきた」として緻密な考察を行っていたりもする。

 チャンギージーの研究はとにかく、読むだけでもおもしろいが、同時にどこか「考えること」や「わかること」のおもしろさを再認識させてくれるところがある。あるいは感覚のおもしろさということで、普段の環境を見る目も変わるだろう。科学が好きな人はもちろん、メディア論やデザインに興味のある人まで、強くおすすめしたい。

 

ひとの目、驚異の進化: 4つの凄い視覚能力があるわけ

ひとの目、驚異の進化: 4つの凄い視覚能力があるわけ

 

 

<脳と文明>の暗号 言語・音楽・サルからヒトへ (KS一般書)

<脳と文明>の暗号 言語・音楽・サルからヒトへ (KS一般書)

 

 


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