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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「重複表現」の問題(1)「頭痛が痛い」は間違いなのか

 「重複表現」というものがあるが、これについてとりとめもなく考えてみたい。

  重複表現といえば、まず思いつくのは「頭痛が痛い」かもしれない。これは、最初の「頭痛」という言葉にすでに「痛い」という意味が入っているから、意味が二重になっている。だから「重複表現」というわけである。あるいは「違和感を感じる」というのも有名だが、これも話は同じである。「違和感」の中に「感」とある。

 こうした表現は、しばしば嫌われる。しかし、問題は「嫌っているのは誰か」ということである。もちろん、実際は誰でもいいのだが、言い換えれば「何が問題なのか」ということである。今回はひとまず、なぜこうした問題が生じるのかはさておき、重複表現を嫌うことの妥当性について考えてみることにしたい。

 

 嫌っている人たちを見てみると、重複表現に対する「嫌い方」には大きく分けて二つのパターンがあると言えるだろう。一つは「文法的に間違っている」という申し立てであり(こちらはかかわると面倒な人である)、もう一つは文字通り「冗長だ」、つまり「簡潔にしてくれ」ということである(こちらは何者だろうか)。

 まず前者について言えば、これは容易に反論することができる。そもそも「文法的におかしいからだめだ」という人は、「規則」という言葉を誤解して文法を法律のようにとらえていて、「文法には従わなければならない」というある種の強迫観念に支配されている。しかし、文法とは従わねばならないルールなどではない。

 そもそも文法とは何かといえば、それは単に言語学者が「人々が実際に行っている言語活動を」抽象化して規則をまとめたものであり、つまり「言語」なるものの本質を解明しようとする探究の「結果」として出てくるものである。決して、話したり書いたりするときに「従わねばならない」ものではない。逆である。

 とは言え、一方でまったく従わなくてよいというものでもない。というのも、あまりにも「おかしな」表現だと文字通り話が通じないからである。つまり「文法」は、実はそれが明文化される前から人々が「暗黙のうちに従っている」ものを書き取ったものである。だから、基本的にはみんな「文法通りに」話したり書いたりしている。

 もっとも、通じないのが問題なのであれば、通じれば問題はないということになる。文法は道具だからである。それなら、「頭痛が痛い」にしても、「その表現、ちょっと変だね」くらいは言うかもしれないが、別に意味は通じているのだからいいであろう。ともかく、「文法的に間違っている」は異議申し立てとしてナンセンスである。

 

 さて、では二つ目の「冗長だ」についてはどうか。これは、一理あるだろう。つまり場合による。簡潔なのが望ましい場合もあれば、そうでないことに何らかの意味がある場合もあるからである。簡潔性が求められるのは、典型的には公文書や科学論文、ビジネス文書等であるが、これらでは確かに、同じ意味なら簡潔な方が望ましいだろう。

 そもそも「できる限り簡潔にせよ」というのは、文章表現の技術においては、基本として広く言われていることである。たとえば、ジョージ・オーウェルが英語の乱れを嘆いている「政治と英語」という小論においては、「一語削ることが可能な場合にはつねに削除せよ」という規則がある(『オーウェル評論集 2 水晶の精神』)。

 あるいは、英語圏での文章指南の古典である『The Elements of Style』を書いたウィリアム・ストランクも、共著者で生徒の一人だったE.B.ホワイトによると、口癖は「Omit needless words!」だったそうである(意味は、まさにこの文章そのものが体現しているが、「needless=不要な」「words=語を」「omit=省略せよ」である)。

 とは言え、問題は「何が不要なのか」である。それはいつも定かではない。何を削ればよいかは、やはり目的によって異なるし、あるいは目的が達せられたかどうかという「結果」にもよるから、結局はすべて結果論ということにもなってしまう。その意味では、厳密にはどんな表現でも「間違い」というのは生じようがないのである。

 

 もっとも、言っておいたように、簡潔に内容を伝達するということ以外の目的がある場合は、いずれにしても話は別ということになる。つまり表現活動である場合である。こうなれば文字通り形式は自由であり、それは広い意味での芸術活動であるから、何となれば、誰にも意味が通じなくても構わないこともあるとさえ言える。

 あるいは、たとえば「強調」のために結果として重複表現的になるのは、特に口語においては珍しくないだろう。「一番最高」とか「永久に不滅」とかいったものがそれである。これは、われわれは文法規則に従っているとは言っても、少なくとも口語では特に、思っているほどには規則に従っていないということでもある。

 たとえば、「たまたま偶然出会った」という言い回しなどは注意深く会話を聴いていれば誰かが言っていそうだが、これなどはよくみてみると「偶然」が「たまたま」を表して、さらに実は「出会う」にも「たまたま」が内包されているから、三重になっているとも言える(意味を形式的に書けばこんな感じであろう:{ (会う) (偶然) * 3 })。

 

 あるいは、重複表現が強調を担うのは語句においてだけではなく「構文において」というのもある。例えば、ローリング・ストーンズの代表曲「Satisfaction」では「I can't get no satisfaction」とあるが、ロックバンドが「満足だぜ」と歌っていても意味がわからないので、これはもちろん「徹底的に不満である」という意味である。

 つまり、「二重否定は肯定」というのは、中学英語では「文法」として教えられているが、ここでの二重否定は「否定の強調」である。これはいわゆる「黒人英語」で、ストーンズは白人だがデビュー当初はブルースとかR&Bとかいわゆる黒人音楽をやっていたからであろう。ここではまさに「表現」としてこうなっている。

 (そういえば、「二重否定は肯定」をふまえて、「否定の否定は肯定になりますが、肯定の肯定が否定になることはありえません」と言う言語学教授に対して「はいはい」と返すジョークがあるが、これも言語表現の柔軟性を表していると言えるだろう(このジョークはもともと英語だが、『ヒトはなぜ笑うのか』にあった)。)

 

 まとめると、まず「文法的におかしいからやめなさい」は通じない。次に「冗長である」は、「正確な情報伝達」が目的である場面ではアドバイスたりうるが、表現活動の一環なら誰も文句は言えなくなる(文学ではむしろ、音楽における不協和音のように、この「嫌がられる感じ」を意図的に引き出して利用することもできるだろう)。

 

 ちなみに、あまりにも頭がよかったために人々から神ではないかとされて、それを確かめるべく火山の噴火口に飛び込んだ古代ギリシアの哲学者エンペドクレスは、「同じことを繰り返して言うべきではない」としつつ、だが「必要なことは二度でも言うがよい」と言ったのが残っている。要は昔から、問題は簡潔と冗長の間にある。

 つまり、あまりにも頭がよかったために人々から神ではないかとされて、それを確かめるべく火山の噴火口に飛び込んだ古代ギリシアの哲学者エンペドクレスは、「同じことを繰り返して言うべきではない」としつつ、だが「必要なことは二度でも言うがよい」と言ったのである。要は昔から、問題は簡潔と冗長の間にあるのだ。

 

オーウェル評論集 2 水晶の精神

オーウェル評論集 2 水晶の精神

 

  『一九八四年』等があまりにも有名なオーウェルだが、短い評論も結構たくさん残していて、定評がある。少しペシミスティックなところもあるが、冷徹なジャーナリズム。

 

The Elements of Style, Fourth Edition

The Elements of Style, Fourth Edition

 

 スティーヴン・ピンカーの『The Sense of Style: The Thinking Person’s Guide to Writing in the 21st Century』なども出ているようにスタイルマニュアルのスタイルも随分変化しているが、ともかく古典である。電子版なら探せば無料で読める。

 

ヒトはなぜ笑うのか

ヒトはなぜ笑うのか

  • 作者: マシュー・M.ハーレー,Jr.,レジナルド・B.アダムズ,ダニエル・C.デネット,Matthew M. Hurley,Jr.,Reginald B. Adams,Daniel C. Dennett,片岡宏仁
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 2015/02/25
  • メディア: 単行本
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 今年邦訳されたものだが、「ユーモア」なるものの本質に認知科学的に切り込む冒険の書。マシュー・ハーレーの博論をもとに、哲学者デネットと心理学者アダムズを加えた三人での議論と研究の蓄積で、けっこうボリュームがある。都合上、ジョークが大量に出てくるのでいろんな意味で勉強になる。

 

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