フリー哲学者ネコナガのブログ

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ショーペンハウエル『読書について』には結局何が書いてあるのか

 ショーペンハウエル『読書について』(1851)を再読したので、それについてふれてみたい(私の中では「ショーペンハウアー」の方が自然なのだが、引用文献の表記に従うことにする)。読書論の古典として読み継がれているものだが、基本的には現代でも通用するアドバイスを含んでいるものである。

 ちなみに、日本語訳ではそのまま『読書について』というタイトルで本が出ているが、実際にはこれは本ではなく、『余録と補遺』という一冊に収められたアフォリズム形式の文章群である(日本語訳するとたった20ページである)。ただし、ここでは本として扱うことにする。

 

 最初から余談になるが、『読書について』と言えば、よく引用されるのは次の部分である。

 

読書は、他人にものを考えてもらうことである。(岩波文庫、斎藤忍随訳。以下同)

 

 この一文は、しばしば「名言」として扱われていたりする(同じ言葉は、別の文書『思索』の中にもある)。しかし、多くの「名言」の例にもれず、これが引用される時には、けっこう誤解されていることがある。そのあたりをまず簡単にみておきたい。

 そもそも、上の部分は主張の前提であって結論ではない。つまり、この抜粋はかなり恣意的である。したがって、この一文は前後の文脈を抜きにしたらほとんど情報量がない。だから、これだけが引用されるとおそろしい誤解を生んでしまう。

 中でも最たる誤解は、「読書は無益だ」というものである。実際、ひどい場合は「ショーペンハウエルも言っているように、読書なんかしなくていい」とか言われていたりする。ショーペンハウエルがきいたら泣くであろう。

  当然だが、ショーペンハウエルは「本を読むな」などとは一言も言っていない。ただ、読書は他人の思考を追体験するだけの過程なので、それ自体とは別に、自分の軸を持って自分で思考することももちろん重要ですよと言っているだけだ。

 そもそも、こんなに短い文章を読みもせずに引用する人がどれほど何も考えていないかがわかるというものだが、「本を読むな」と「本」に書いてどうするのだ。本を読んでいるのに本を読むなと言われたら、じゃあこの本はなんだという話である。

(ちなみにこれで思い出したが、作家の佐藤優氏に対して寄せられた相談で「夫が佐藤さんの本を買ってきて困っています」というのがあった『インテリジェンス人生相談 個人編』。氏は「書籍を買うなという助言をする作家はいないのです」と言っていた)

 

 さて本題だが、最初に『読書について』を私なりに要約すると次のようになる。

 

  • 古典を読め

 

 以上終わりである。これだけ抜き出すとそれはそれで怒られそうだが、実際、本人の頭の中を想像するといちばん言いたかったのはこれだと思う。あとはその注釈のようなものである。

 

つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。

 

 精神のための清涼剤としては、ギリシア、ローマの古典にまさるものはない。

 

 こんな具合に、古典礼賛の文章がある。そもそも、この本の中では「古典」と「良書」はほとんど同義である。つまり本書は、全体として「古典=良書を読むにあたっての注意点」を語っているとみることができる。その視点から続けよう。

 

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

 

 ショーペンハウエルは、古典=良書をすすめる一方で、反対に「悪書」を見きわめて「読まずにすます技術」が重要だと言っている。その技術とは、「技術」と呼ぶかはともかく、次のようなものである。

 

 多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は一年である。

 

 重要なのは最後の部分だが、要は、流行に左右されるようなものに手を出すな、評価の定まっているものを読め、ということである。今風に言えば、ビジネス書を読むな、「超訳」を読むな、芸能人本、アスリート本を読むなという感じであろう。

 もちろん、こうした類の出版物に価値がないということではない。それぞれに目的があり、あくまでもショーペンハウエルがここで前提にしている読書の目的にはそぐわないという話である(本人は本気で価値がないと思っているかもしれないが)。

 

 ところで、もう一つ『読書について』で頻繁に誤解されているのは、「多読」について語られている部分である。つまり、「ショーペンハウエルも言うように、多くの本を読む必要はない」とかいったものである。結論から言えば、これも誤読である。

 

 ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。

 

多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。

 

 こうした部分だけを見ると、確かに多読を批判しているように見える。しかし、それはまさに、こうした部分だけを見るからである。前後の文脈を見れば、これらは明らかに「多読即悪」の意味ではない。順番にみてみる。

 

 まず、ショーペンハウエルが多読をなぜ疑っているかというと、まさに「読書は、他人にものを考えてもらうこと」であるがゆえに、それ一辺倒になると「しだいに自分でものを考える力を失って行く」からである。

 つまり、「多読」そのものがまずいのではない。多読によって「自分でものを考えなくなる」のがまずいのである。逆に言えば、自分でものを考え続けている上で多読するなら、一向にかまわないわけである。

 事実、ショーペンハウエルは「良書を読みすぎるということはない」とも書いているし、ともかく「多読」そのものを嫌っている感じではない。だからこれは、一貫して「自分でものを考えることを忘れるな」と言っているにすぎない。

 次に、「一日を費やす」という表現を使っていることからもわかるが、ここで言う「多読」とは「冊数」ではなく「時間数」についてのことである。つまり、自分で考える時間がなくなるほど他人にものを考えてもらうのはまずい。それなら、自分で考えることをやめないでいられるなら、いくら読んでもかまわないのである。

 

 いずれにせよ、ショーペンハウエルが呈する「多読」への疑義は、あくまでも「自分でものを考えるのが重要だ」という原則の裏返しである。つまり本書の論理が見渡しづらいのは、「読書は他人にものを考えてもらうことである」とすると、「古典を読むことの重要性」を説く一方で「自分で考えることの重要性」についても強調するというのが、どことなく矛盾しているように見えるからである。

 しかし、ここまでみてきたように、きちんと整理すればこれらは「矛盾」するものではない。それどころか、まさにこれらを、どちら一方でもなく「両方やるべきだ」というのがショーペンハウエルの本質的な主張だとも言えるだろう。

 

 まとめると、(1)良書を読むことが重要であるがゆえに、悪書を極力読まないように心がける一方で、(2)読んでばかりでは他人に考えてもらうばかりになるので、自分で考えることを怠るな、となる。

 こうしてみれば、今から見ればあまりにも当然のことである。しかし、これが実践できているかどうかが重要ということであろう。その点はアドバイスとして今でも変わっていないと思われる。

 最後に、この解釈を裏付けると思われる部分を、『読書について』と相補的な文書である『思索』から引用しておこう。ちなみにここで言う「思想家」とは、ただ多読するだけの「博学多識」に対して「自分でものを考える人」という意味である。

 

 思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない。だがその精神ははなはだ強力で、そのすべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる。つまりその精神はたえず視界を拡大しながらも有機的な組織を失わない壮大な洞察力の支配下に、その材料をおくことができるのである。 

 

 ということで、「読書=他人の思考を追体験すること」と「思考=自分の軸に基づいて自分で思考すること」を「両方やる」ことが大事なのである。それだけの話である。

 

 ちなみに、私が『読書について』の中で最も広めるべきだと思うアドバイスは次のものである。

 

 重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。

 

 これは、あまり耳にしないアドバイスだが、きわめて重要なものだ。実際、その本を初めて読む段階では、内容はほとんど理解しようがない。なぜなら、読んだことがない状態での自分の視点で部分部分を理解していくしかないからである。しかし、一回読み終えていると今度は「全体像」を曲がりなりにも知っているから、部分部分がどのように連関しているかを理解することができる。それを繰り返すことで、最終的には全体を一つのものとして理解できるのである。

 これは、「部分の総和が全体」という考えに対して、「部分と全体は双方向的」とする発想に基づいているが、つまり、部分がわからないと全体はわからないが、全体がわからないと部分もまたわからないということだ。あらゆる認識でこの原理がはたらくというのは20世紀のゲシュタルト心理学以降に定着した考えだが、つまりショーペンハウエルのアドバイスは、正しく人間の認知的特性に則したものとなっていたのである。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

  今回とりあげた『読書について』と併せて、最後に少しふれた『思索』、そして『著作と文体』の三篇が収められている。いずれも短いので、この本自体もとても薄い。

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 
読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 この記事での引用は岩波文庫版からだが、もう少しやわらかい訳文がよければ、こちらの光文社古典新訳文庫に新訳がある。収められている内容は全く同じなので、お好みで。


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