フリー哲学者ネコナガのブログ

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「か国語」の謎とこれから

 「か国語」という単位の謎について、まじめに考えてみたい。単位というか数え方だが、「10か国語話せる」とか、「50か国語話せる!それはすごい!」とか、そういったコミュニケーションに違和感を覚えたことはないだろうか。

 少なくとも私は違和感があり、この類のコミュニケーションがいったいどんな情報をやり取りしているのか、少しも理解できないのである。とにかく、「か国語」という単位がまったく腑に落ちないのだ。

  もちろん、日本語での一般的感覚として、「か国語」というのが言語、とりわけ外国語の数を数える単位だということはわかる。しかし、外国語であれ何であれ、なぜ「2言語」とか「10言語」ではだめなのか。いや、考えてみればそれもおかしいのだ。

 

 順番に説明するが、わかりやすくするため、ひとまず「語」というのを除いてみよう。そうすると「か国」となるが、これはもちろん「国」を数える単位だ。つまり、「ジンバブエとエクアドルとニカラグアの3か国」とかいった具合である。

 それなら、そこに「語」をつけた途端におかしくなるのは明らかだろう。なぜなら、その瞬間に一国一言語主義が前提になるからだ。要するに、帝国主義的というか、ナショナリズム的というか、とにかくもはや現実をまったく反映していない。

 つまり、一国で話されている言語は必ずしも一つではないし(というか、一つの言語しか話されていない国を見つける方が難しいだろう)、ある一国でしか話されていない言語というのも、少なくとも誰でも知っている有名な言語においてはない。

 

 ということで、諸混乱の原因は、「基準がない」である。例えば、日本語ネイティブのある人が英語を話すとすると、一般的には、その人は「2か国語話者」である(母語を数えるか数えないかという最も単純な議論もあるが、ここではどうでもよい)。

 しかし、上でみたように「か国」を基準にするとどうなるか。イギリスで話されているのもアメリカで話されているのも英語である。あるいは、オーストラリアやインドやシンガポールや南アフリカで話されているのも、それぞれ多少違うが英語である。

 つまり、「か国」という表現に忠実なら、英語が話せるだけで「数か国語」、それどころか、おかしなことに「数十か国語」をすでに話せることになる(ここには、英語がどれほどどのように話されていれば数えるのかという問題もあるが、省略)。

 

 それなら、言語の方を基準にすればいいじゃないかと思うかもしれない。つまり、例えばフランス語が、フランスとカナダとスイスとコートジボワールと、あるいは何か国で話されていようが、「フランス語」で「一か国語」と数えるという考え方だ。

 感覚としては、実際にこれが一般的だろう。確かにこれなら、「か国語」という表現がおかしいですよというだけの問題であって、「指しているものがはっきりわかれば」意味がとれないわけではない。ところが、これもやっぱりおかしいのである。

 なぜなら、実際は何をもって一つの「言語」とするか、その基準はないからである。例えば、ある人によるとチェコ語とスロバキア語は、互いに相手の言語を知らないまま母語で話しても、普通に会話できる(最近は隔たりも大きくなっているらしいが)。

 つまり、言語名が違うからといって、中身がはっきり違うわけではない。X語しか話せないと本人も思っていたのに、Y語もZ語も「話せた」ということもあるのだ。程度はいろいろだが、インドネシア語とマレー語とか、こうした例はいくらでもある。

 

 これは、実は「方言」と「言語」が定義できないという問題でもある。つまり、どれだけ違っていれば別の言語か、基準がない。あるいはそれを調べようと思えば、今度は「どこでどのように話されているのがその言語の標準形なのか」という問題が生じる。

 実際問題として、この問題に暫定的な答えを与えてきたのは、言語学的研究ではなく、政治的事情である。つまり、本人たちは同じ言語だと思っていても、あるとき国家によって線が引かれてしまえば、それが理由で「違う言語」と「みなされる」。

 あるいは、逆も然りである。お互いに話が通じなかったりするのに、乱暴にも同じ一つの言語だとされてしまったりする。つまり、お互いに通じないほど離れた言語を話しているのに、同じ国で話されているからといって同じ言語名で呼ばれたりするのだ。

 例えば、知っている人には当然のことだが、日本語もそうした言語の一つである。実際、日本語の各「方言」はそれぞれ、基準によっては別の言語と扱われることが珍しくない。つまり、ここにはナショナリズムの問題も多分に絡んでくるのである。

 

 話が逸れそうなので元に戻すが、数えるのが不可能である理由はまだまだある。例えば、「話せるとは何か」である。何をもって一つの言語とするかがとりあえず定まったとしても、どのていど話せればその言語を話せると言えるのか。これも基準がない。

 例えば、趣味で、あるいは「目的なきスキルアップ」みたいな感じで駅前のスクールに通うような多くの人は、「話せる」と言えば基本的に「日常会話」をイメージしているであろう。いわゆる生活上必要なやり取りとか、雑談とかである。

 しかし、それなら、スラングとかも含め日常的な会話はほとんど自然にはできないが、学問的な議論ならバリバリできる、という研究者などはどうなのか(こういう人は少なくない)。どんな場面でどれほど話せたら、話せると言ってよいのだろうか。

 あるいは、ビジネスならビジネスでまた全く違う語彙や言い回しが求められるだろう。これは業種や役割によっても随分違う。営業マンとキャビンアテンダントで必要な語学力はもちろん違うだろうし、取引先に対して友達感覚の話し方もマズい。

 

 ともかくこうしてみると、「何か国語話せる」みたいな言い方は、どのみち情報量があまりにも少ないことがわかるだろう。ここまでみてきただけでも、「か国語とは何か」という問いを発した瞬間に、後ろにいくらでも問題があることがわかる。

 それなら、「何か国語話せる」みたいな表現は、実際問題として肩書やブランドのような役割以外はほとんどないことになる。そして、最後にあえて言うなら、現代での教養あるふるまいという意味でも、こういう表現はもうしない方がいいであろう。

 というのも、今後もますます国や言語には確固たる壁がなくなってゆくからである。したがってますます意味不明の表現になるし、また、外国人と接する機会が多くなるなら、こうした問題にこんなにセンシティビティが低いのもまたマズいということだ。

 つまり、「○か国語話せます」みたいなのは、別にこういう表現をする人に何の恨みがあるわけでもないが、今後は教養がない人だとみなされる可能性が高いし、いろんな言語ができるのに世界のことは知らないんですね、と思われる可能性が高いだろう。

 

はじめての言語学 (講談社現代新書)

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 ちなみに、「か国語」については「か/国語」という切り方で解釈することもできるが、結局問題は同じことである。また、この記事の中で「母国語」というこれまたよくみる言葉をあえて使わずに「母語」としたのも、「か国語」が意味不明な理由と同じである。さらには、これは使わざるを得なかったが、「外国語」という言葉も、実は同じ問題を持っている。要するにどれも、どうしても愛国主義的、排他主義的なニュアンスになってしまうのである。語彙も、もう少し時代に合わせて取捨選択してもいいであろう。


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