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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

ダーウィン進化論の何がすごいのか─ゼロからわかるオリジナルの「進化論」

nekonaga.hatenablog.com

 もうすぐこのブログも始まってから一年になるが、今トータルで見てみると、アクセス数がダントツで多いのはやっぱり上の記事である(進化論の誤解)。やっぱりというのは、アクセス解析を見ていると毎月かならずこれがトップになっているからである。進化論はとても頻繁に検索されるらしい。でも、たぶんこれは進化論が人気という意味ではない。

 勝手な推測ではあるが(あまり外れていないとも思うが)、要するに、ダーウィンや進化論があまりにもいろいろなところで言及されすぎていて、しかしなんだかややこしく、あまり詳しくもないから、何がなんだかよくわからない、という人が調べているのであろう。だから、たまたま「誤解」と入っているこの記事がよくヒットするのだと思う。

 もっとも、上の記事で書いたのは、最も単純な誤解のどこが誤っているのかという話で、科学や哲学における進化論の議論とは全くレベルが違う話である。つまり進化論の誤りではなく進化論の「解釈の誤り」の一例を書いただけだが、なんだかこの点がさらに「誤解」されて上の記事が広められていたりもしたので、それはやっぱりブログ程度の短い文章で伝わる限界があるということだろう。

 

 前置きが長くなったが、そこでこの記事では、あらためてダーウィン進化論について、今度は力を入れて書いてみることにしたい(皮肉にも上の記事は一番さらりと書いた類のものであった)。気が向いたら続編としてダーウィン進化論の「どこがおかしいのか」についても書こうと思うが、とりあえず本質的な主張を理解しないことにははじまらないので、今回は「何がすごいのか」に限る話である。

 ちなみに、「ダーウィン進化論」というのは、「ダーウィンが主張した進化論」であって、ダーウィンその人についての進化を論じたものではもちろんない。しかし、ここではこういう略称がふさわしいのは、単に「ダーウィン」とか「進化論」としたら、それはそれで不正確だからである。これについても煩雑になるので今は置いておくが、要は、進化論を提唱したのはダーウィンだけではないし、またダーウィンの業績は進化論だけではないということである。

 

 余談だが、ダーウィンが進化論を提唱した本のタイトルも、ある意味すごい。一般的には「On the Origin of Species (種の起源)」として知られているが、これは省略されたタイトルで、正式なタイトルは「On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life (自然淘汰、あるいは生存闘争における有利な種の保存による、種の起源論)」である。むやみに長いのは、文章までもやたらに飾り立てるヴィクトリア朝時代の風潮である。

 しかし、おもしろいが、実はこれは第一版(1859)のタイトルで(ちなみに第一版1250部はすぐに完売した)、さすがに冗長と思ったのか、後の版ではタイトルは短くなっているのだ。ところが、その簡略化されたタイトルというのが「The Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life」である。つまり、最初の「On (論)」をけずっただけだった。他にけずるところはなかったらしい(この話は、ピーター・アトキンス『ガリレオの指』から)。

 

 さて本題だが、しかし、実は上のタイトルの話は余談に過ぎるものではなく、言ってしまえばこのタイトルが、そのままダーウィン進化論の要約なのである。その意味では素晴らしいタイトルだ。つまり、生物は絶えず「生存闘争」をしているので、必然的に「生存闘争で優位に立つものたち」が生き残る(これを自然淘汰という)。そして、その観点から「種」が発生する理由(多様な生物がいる理由)について述べているということである。

 一般的には、進化論を語る際にはどうしても「進化」という言葉を使ってしまうからややこしくなるが、実はダーウィン進化論の骨子は要するにこれだけで、「進化」という言葉を使う必要すらないのである(前の記事で述べたが、ダーウィンが初めて進化という言葉を使ったのはこの本の第6版が最初で、時代の趨勢で最終的に折れたが、ダーウィン自身は「進歩」と混同されるのを嫌ってこの言葉の使用を避けていた)。

 あるいは、現代におけるダーウィニズムの宣伝マンであるリチャード・ドーキンスの本から引用すると、「ダーウィン主義とは、要するに、そこに遺伝的変異があって、しかもでたらめではない繁殖のもたらす結果が累積される時間がありさえすれば、途方もない結果が生まれる、という考えにすぎない」となる(『盲目の時計職人』より。他にもいろんな本でいろんな言い方をしているが、たまたまこの本が近くにあった)。

 いずれにしても、ダーウィンの主張自体はシンプルだということである。それなら、現代のわれわれにとってダーウィン進化論が理解しづらいのは、「言っていることがあまりに当たり前すぎるから」という側面もあるだろう。これは古典の宿命だが、つまり時代背景が違いすぎて「何がそんなにインパクトがあるのか」がわからないのだ。こういう時は、そうでない場合と比較するのが近道である。したがって以下では、初めに当時の実感と対比させてみることにしたい。

 

 まず、上のことからもわかるかもしれないが、ダーウィン進化論の影響の一つは、当時の世界観そのものをひっくり返したということである(その結果、今ではむしろそちらの方が普通になってしまったということ)。当時の世界観とは他でもない、神がすべてのキリスト教的世界観である。したがって「進化論」に関してまず注目すべきは、何かにつけて登場していた神という概念が、「登場しなかった」ということである。これがまず、社会的にはとてもインパクトがあることであった。

 ご存じのように、ヨーロッパではかなりの長きに渡ってキリスト教的世界観が支配的であり、それは単に言説上の話ではなく、体感レベルで根付いているものであった。だから進化論への反応は、従来の発想とどちらが確からしいかを考えるというレベルではなく、いわゆる「生理的に拒絶するレベル」だったということだ。神なしで説明してしまうということは、神を否定しているのに等しい。それは、とても恐ろしいことであった。

 つまり、ヨーロッパのキリスト教的世界観の中では、何を説明するにも「神」を持ち出すのがいたって普通のことであった。何であれ、神がやったから、あるいは聖書にそう書いてあるからそうなのである。この点がどれほどわれわれの感覚とかけはなれているかは、想像を絶するものがある。したがって、いずれにしてもダーウィンの主張の革命性は、同じ一つの問いに対してキリスト教的世界観の側がどう答えているかをみるとよくわかる。

 もちろん、ルネッサンスから近代科学、近代哲学以降の流れの中で、この世界観に対して局所的には(ガリレオのように有罪判決を受けたりしながらも)いろいろなところで疑いがはさまれていたのは事実である。しかし、疑義を呈するにはそれなりの論理と証拠がないとだめで、ダーウィンの時代になってようやく、これほどのスケールの主張が成り立つくらいの知的資源が整ったという意味でもある(神がやったという場合には、論理と証拠は必要なかった。なぜなら、みんなそれで納得したからである)。

 

 では、肝心の袂を分かつ問いについて両サイドの言い分を見てみよう。ダーウィン進化論の発端となった問いは、大まかに言えば「なぜ、こんなに多様な生物がいるのか」というものである。あるいは、もう少し文学的に言えば「なぜ、われわれは存在するのか」である。これはもちろん「どういう目的で」ではなく、「どういう経緯で」という意味だが、ともかく、これに対してどう答えるかが全ての分かれ目となる。

 まず、キリスト教的世界観では、当然ながら「神が創ったから」となる。聖書に収められた最初の一書である「創世記」には神が6日間ですべてを産み出す有名なシーンがあるが、「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」とか「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ」とか、こんな具合である(『聖書』日本聖書協会)。なぜ、どうやってを問うのは野暮である。そうだからそうなのである。これを信仰という。

 重要なのは、ここには「今いる多様な生物はすべて、誕生した時から今の姿形のままだった」という発想が含まれていることである。これを静態的世界観という。静態だから動かないのである。つまり、ありとあらゆるものは、「今あるこのありかたのまま」最初に神が創ったということだ。したがって重要なのは、何かが「変化する」という発想そのものがまず、当たり前ではなかったということだ。すべては最初に設定されたままなのである(これを「創造論 (creationism)」という)。

 一方、ダーウィン進化論は「変化する」という発想を抜きにしては成り立たないから、ここでまず大きく話がかみ合わない。ダーウィン進化論では、変化なくして「複雑な存在」が生じたりしないし、一足飛びに突然何かが生じるということもない。すべては、十分に長い時間をかけて些細な変化が蓄積されることで出来上がるのである(現代生物学ではちょっと違って、一足飛びに大々的に変化することも珍しくないというのが共通認識だが、ここではあくまでもオリジナルのダーウィン進化論の説明にとどめよう)。

 

 次に、時間感覚の違いというのもある。上でみたように、キリスト教的世界観ではすべてが聖書の記述に基づいている。だから過去の出来事についての解釈、つまり「歴史」についても聖書に書いてある通りとなる。で、あるとき聖書の記述を元にして、ノアの大洪水なども含め、いろいろな出来事の年代を計算した人たちがいた(このあたりのことは岡崎勝世『聖書VS.世界史』が詳しい)。ここがポイントなのだが、それによると「歴史」が始まったのは、なんと数千年前なのである。

 これは、文明の歴史とか、書かれた歴史とかいう話ではない。「この世界」が始まったのが数千年前だと思われていたのである。少なくとも17世紀くらいまでは、科学者ですら多くはこの枠組みにとりつかれていた。実際は人類の歴史だけでも数百万年、地球の歴史は46億年、宇宙の歴史は137億年であるが、このスケールのギャップを認識しないと、キリスト教的世界観が神に固執する理由はわからない。彼らの実感では最初の創造が全てであり、その後の「短い」歴史など取るに足りないのである。すべては神の設計通りなのだ。

 では、ダーウィン進化論はここにどうやって穴を開けたか。これについては、ダーウィンの独創ではない。幸い、時間感覚については当時すでにいろいろな分野で疑義が呈されていたのである。ざっくりまとめると、18世紀終わりごろまでには、徐々に「もしかしたら歴史は数万年、いや数十万年くらいあるのでは」くらいのざわめきが起こっており、さらに化石なども出始めたから、1830年頃に出たライエルの『地質学原理』では、すでに「数億年」のオーダーで主張されるまでになっていた。

 で、ダーウィンは有名なビーグル号での航海中、ライエルのこの本を読んでいたのである。もともと二人は友人だったのだが(ちなみに二人とも名はチャールズで、歴史上の偉大なチャールズベスト10みたいなリストの常連である)、これを読んだダーウィンは賛同して、自著でもふれることになる。いわく「(ライエルの地質学原理を) 読んでもなお、過去から経過してきた時間は広大無辺であることを認めない読者は、即刻本書を閉じてもらってさしつかえない」(渡辺政隆訳『種の起源〈下〉』p.78)。

 つまり、ダーウィンがむしろ「前提」として採用している「長い時間をかければ、単純なものから複雑なものが生まれる」という発想が、容易には受け入れられなかった理由の一つは、「神」の存在に疑いをはさまなかったというのももちろんあるが、要するにキリスト教的世界観の中では、「とてつもなく長い時間」という概念自体がリアルではなかったからなのである。だから、生物のような複雑なものが、超越者の力なくして存在するはずがない、となる。

 

 以上でとりあえず当時の実感はなんとなくわかるだろう。そして、ひとまずここまでで創造論には反論することができる。まとめておけば、自然界の歴史は数千年どころではなく、もっととてつもなく長いので、最初は同じ一種の生物しかいなかったとしても、些細な変化が蓄積するうちにそれぞれの差異が徐々に大きくなり、次第に多様性が生じるということである。驚くほど多様な生物がいるにしても、それらはすべて、同じ起源から徐々に枝分かれして生じたものなのである。

 もっとも、実はこれもダーウィンの独創ではない。最初にちょっと触れておいたが、進化論を提唱したのはダーウィン以前にも何人かいて(祖父のエラズマス・ダーウィンも主要な論者の一人である)、そもそも「生物の性質は変化することがある」ということ自体はすでに言われていたし、まとまった形で「進化論」を提唱したにしてもラマルクの方が先だし(『動物哲学』)、あるいは同時期にダーウィンと同じような進化論をひらめいたウォレスという人もいる。(さらにあともう一人いるが、それについてはまたの機会にして)ここで少し、ウォレスについて触れておこう。

 実は、ダーウィンは最初の着想のあと、証拠集めにかなりの時間をかけたり、他の研究に没頭したりもしていたので、そうこうしているうちに別のところでウォレスもひらめいてしまったのである。しかし、ウォレスは紳士的にもダーウィンを立てて、特に激しい自己主張はしなかった。だから「進化論と言えばダーウィン」となったのだが(この考えに「ダーウィニズム」と名前を付けたのもウォレスである)、こういう事情なので、ダーウィン進化論を語る時はウォレスも紹介するのがある種のマナーとなっている。

 話を戻すが、いずれにしてもダーウィンは、「進化」と言ったからすごいのではない(厳密に言えば、最初に書いたように本当は「進化」とは言っていないのだが)。それが起こるメカニズムを、それなりの証拠を示しながら整合的に説明したからすごかったのである。そして、先走ると、その説明の基本となる考え方が、前述の長いタイトルにもある「自然淘汰」というものだ。だから、ダーウィンの独創性を言うなら「自然淘汰に関する証拠を集め、単なる発想のレベルではなく、実証的に記述した」ということになる。

 

 では、ようやくダーウィン進化論そのものの論理を追うことにする。

 まず、自然淘汰とは何かである。言葉の意味は、読んで字の如く「自然に生じる淘汰=ふるいわけ」である。元の語は「natural selection」だが、「自然界の作用である」というのがここではポイントとなる。つまり、誰の意図が介入するわけでもなく、自然の摂理として結果的にそうなるということだ(「自然選択」と訳す場合もあるが、これは何者かが選んでいるみたいで誤解を生じるので、ここでは「淘汰」を使うことにする。ダーウィン自身も「selection」が誤解を招くことを気にかけていたようである)。

 で、何がふるいわけられるのかというと「生き残れるかどうか」である。実はここに重要な前提があるのだが、つまり「自然界では全ての生物が生き残れるわけではない」ということだ。この点はマルサスの『人口論』から着想を得たと言われているが、要するに、自然界の資源は有限であって簡単には増えないのに対して、生物は生殖によって掛け算で数を増やして行くので、「常に自然の許容量を超えるほどの生物が生まれてしまう」のである。この発想がなければ、それもまた進化論が成り立つことはなかった。

 というのも、この「全ての生物が生き残ることはできない」という摂理こそ、「生存闘争」が不可避である理由だからだ。有限の資源をめぐって、理論上、無限の生物が争う。だからこそ「どんな生物が生き残れるのか」という問いが出てくるのだ。だんだん話がつながってくると思うが、このようにダーウィン進化論の論理は重層的である。だから、わかっている人にとっては一言で表現できても、わかっていない人に一言で伝えるのは無理があるのである。前の記事で書いたような誤った理解をしないためにも、こうしたポイントをしっかり確認しつつ理解する必要がある。

 では「生存闘争」の中身だが、これはもちろん、広い意味での資源の奪い合い、つまり、テリトリーや食糧の奪い合いである。言い換えれば「生き延びて子孫を残していけるだけの環境の確保」となるが、これをうまくマネージできた場合に「適応的である」という。つまり、ある生物は、所与の自然環境に適応的であった場合にのみ、必要なリソースを確保して生き延び、子孫を残せるということある(現実的には「運」というのも影響してくるかもしれないが、これを入れると論理性が損なわれるので、科学ではそういうものは捨象する)。

 逆に言えば、所与の自然環境に適応できなかった場合には、子孫を残せないまま息絶えるしかないことになる。そして、それが局所的な問題ではなく、同じ種に属する他のあらゆる個体も同じ状況とあらば、その種は絶滅するのだ。だから、一言では「適応的であるものだけが生き残る」となる。逆に言えば、「生き残っている」ということは、それだけで「適応できた」という証でもあるのだ(間違ってはいけないが、長い歴史の中で生じた数多の種のうち、圧倒的大多数は絶滅しているのである)。

 

 いよいよ本題に近づいてきたが、「全ての生物が生き残ることはできないので、適応力が高い生物だけが生き残る」とすれば、次なる問いは「適応力を決めるのは何か」である。結論から言えば、これに対して「その生物が元から持っている性質の違いである」と答えるのがダーウィン進化論だ。つまり、自分たちが元から持っている性質が、たまたま環境にフィットしたら生き残れるのである。要は元々備わっている性質次第であり、その生物自身の力ではどうしようもないということである。

 例えば、よく挙げられる「キリンの首」の例を用いてこの流れをみてみよう。ざっくり言えばキリンは、他の生物が食べないような高いところにある葉を独占的に食べることで生き延びている(ここでは、キリンは葉しか食べないものとする)。しかし、キリンが最初から首が長かったわけではないとすると、「なぜ首が伸びたのか」という問いを立てることができる。これに対して、「いつかどこかで、たまたまある個体の首が伸びたから」と答えるのがダーウィン進化論の立場である。

 どういうことか。その前に前提を言えば、すでに存在している個体は、自力で性質を変えることはできないとする。次に、個体が持つもろもろの性質が、その子孫に対して部分的に受け継がれるということはあるとする(つまり「遺伝」である)。さらに、ある生物の性質は、その生物自身の「意志の力」では変化しないにしても、「何かの拍子に」変化することがあるとする。まとめれば、「どう変化するかを決めることはできないが、変化が起きたら、その変化は子孫に受け継がれる」というのが前提である。

 ちなみに、こんなに回りくどい言い方になるのは、当時は「遺伝」という発想はあっても「遺伝子」という発想(「遺伝には最小単位がある」という発想)はまだなかったからである。遺伝のメカニズム自体は全くわからなかったし、いったい何の拍子に性質が変化するのかもわからなかった(今では「DNAの損傷や転写ミスが原因だ」と一言で表現できる)。しかし、自然下や飼育下での動植物を観察していると、性質の変化があるということと、遺伝という現象があるということは少なくとも確からしかったのだ。こうしたごく断片的な手がかりから全体を見通したのがダーウィンのすごさである。

 続けよう。では、少なくとも「生物の性質は何かの拍子で変化することがあり、その変化は子孫に受け継がれる」とすると、いったい何が言えるのか。ここが発想力の見せ所だが、ダーウィンはここから、「局所的に起こった変化は、長い時間を経て次第に、必然的に、種全体に広がる」ということを見抜いたのである。これだけでもすごいのだが、ダーウィンはさらに、そこから「だからこんなに多様な生物がいるのだ」というところまで到達する。順番に見てみよう。

 

 まず、「なぜ、局所的に起こった変化は必然的に種全体に広がるのか」である。これは、もちろん広がらない場合もある。しかし、広がらないのであれば、何も言うことはない。なぜなら、広がらなかったということはその個体が子孫を残せなかったということであり、それなら、その性質は適応的ではなかったということだからである。つまり、たまたま生じた変化によって獲得した性質が、あくまでも従来の性質よりも「適応的」なものであった場合にのみ、その個体が生き延びて子孫を残す確率が高くなり、結果としてその変化した性質が「保存」されるのである(これが「自然淘汰」である)。

 つまり先の例で言えば、たまたま首が伸びたキリンは、首が短いために食糧不足に陥りやすい他のキリンと違って、生き延びて子孫を残しやすい。そして、それゆえに「首が長い」という性質が選択的に「保存」されていくのである。次第に首が長いキリンの子孫ばかりになってしまうのだ。だから、最終的にはキリン全体で「首が伸びる」のである(つまり、「キリンの首は高いところにある葉を食べるために伸びた」という言い方は、文学的な表現としてはありかもしれないが、科学的な記述としてはあまりにも誤解を招きやすい、少なくとも物凄い短縮表現だということだ)。

 次に、ここからなぜ、「だから多様な生物がいるのだ」と言えるかである。いよいよ大詰めだ。しかし、慎重に行こう。これには意味が二つある。一つは「いかにして多様になったのか」であり、これが本題であるが、一方で「いかに多様な生物が共存できるのか」というのもあるから、先にそちらの方を見ておこう。というのも、もし上のプロセスがすべてだったとすれば、極端に言えば、この世にはもはやキリンしかいないはずだからである。実は、ここにきて先の「自然は、全ての生物が生き残ることを許さない」という摂理が、逆向きに活きてくるのだ。

 つまり、常に自然のキャパシティーを超えるほどの生物がいるから「生存闘争」が不可避なわけだが、逆に言えば、自然のキャパシティーの範囲内であれば、争う必然性はないのである。だから、自然淘汰が避けられないとしても、それは単に「最も適応的なもの」を選択するだけではなく、二番手、三番手も残すし、あるいはまったく適応的ではないものまでも「一時的には」生き延びたりするのである。要は、それぞれの種がそれぞれで生存環境を確保して、相争うことなくたまたま均衡がとれたら、多様な生物はそのまま共存できるのである(そもそも、これは簡略化した説明であり、実際はどんな生物も他の生物に多かれ少なかれ依存している)。

 

 以上はどちらかと言えば「前提」だが、いずれにしても自然が、「すべての生物が生き残ることを許さない」一方で、「どれか一つしか残さない」というわけでもないからこそ、多様な生物がそれぞれ独自の道を歩むことができているのである。その上で、「そもそもなぜ多様になったのか」であるが、ここでようやく「発端となる問い」に答える準備ができたことになる。つまり「いかにして生物はこんなに多様になったのか」であり、ダーウィンのタイトルに戻って言えば、「種の起源」についての説明である。全く異なるような各生物種は、いかにして生じたのか。

 とは言え、ここまでをしっかり読んできた人なら、もう答えは見えているだろう。つまり、それはやっぱり「自然淘汰」があるからなのである。どういうことかと言えば、まず、何かの拍子に性質に変化が起こり、多様な性質の中から「自然淘汰」によって適応力が高い性質だけが保存されるとすると、その性質を持つ生物は、その性質を持っていてこそその後も生き延びることになる(そうでなければ、絶滅する)。要するに、変化は不可逆である。

 それなら、元々は同じ一種の生物だったとしても、ある時、何らかの環境の中でそれぞれ別の変化により別の仕方での適応を果たしたとすると、それ以降、各「進化版」はそれぞれ別の道を歩む中でそれぞれに生じた変化を蓄積してゆくことになり、その差異は、時間が経つほど大きくなる。つまり、「自然淘汰」が十分に長い時間にわたって続くと、最終的には全く違う種類であるとしか言いようがない数多の生物種が「結果として」誕生することになるのだ。だから古代のサルが、結果として現代サルになったりチンパンジーになったり、ヒトになったりしたのである。

 したがって、「生存可能な生物の数には限りがある」という事実と、「生物は性質を変化させることがある」という事実のもと、「自然淘汰」という自然の摂理が作用し続ける限り、多様な生物が生じるのはある意味で「必然」とも言えるのである。そして、この摂理が観察される限り、また、地球上に最初の生物が誕生してからとてつもない時間が流れていると考えられる限り、この流れを逆に辿ると、「全ての生物は、ある一つの共通の祖先から生じた」と考えることができるのだ。

 これが、「生物の歴史」が「系統樹」と呼ばれる一つの図で表現できる理由である。サボテンと恐竜ですら、親戚なのだ。生物は全体で一つの樹であり、あらゆる種は、同じ一つの根から養分を得て、徐々に枝分かれすることで生じた。それは、何らの超越者の存在を必要としない「自然淘汰」の結果である。これが、ダーウィン進化論のとりあえずの到達点となる。この「自然法則」を発見したからこそ、ダーウィンの業績は、まぎれもなくサイエンスなのである。「今ここで観察できること」だけを根拠として、整合的に説明したのだ。

 そして、生物学はここから始まったのである。上で「とりあえずの到達点」と言ったが、生物にかんするその後のあらゆる研究は、このダーウィン進化論を土台としてこそ成り立っている。よく引用される言葉だが、ダーウィン進化論と遺伝学を結びつけることに貢献したドブジャンスキーは、「進化論なき生物学は意味をなさない (Nothing in biology makes sense except in the light of evolution)」とまで言っている。実際、この言葉を否定することは難しい。

 もちろん、ダーウィン進化論に足りない部分もあるし、ダーウィン進化論に対する重要な批判もある。事実、ダーウィン以降、数多の科学者たちがダーウィン進化論を補強したり、部分的に否定したりもしている。あるいは根本から間違っていると言う科学者もいるし、また、いずれはその根本から否定する方の説ですべてが書き換わっても、もちろんおかしくはない(これが「信仰」ではなく「科学」である以上、そうなる可能性がなくなることはない)。

 しかし、ダーウィン進化論、あるいはダーウィンの『種の起源』なくして、その後の生物学がないのはやはり事実だ。「間違っているかも」と議論ができるのも、ダーウィン進化論という土台があってこそである。これがダーウィン進化論の最大の「すごさ」と言えるだろう。とにかく生物学は、ダーウィン進化論に命を吹き込まれたことに端を発している。ちょうど生物が、実に単純なものからきわめて美しくきわめてすばらしいものへと発展したように、実にシンプルなダーウィン進化論から、きわめて多くのきわめて実りある研究が際限なく発展し、なおも発展しつつあるのだ。

 

種の起源〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

 
種の起源〈下〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源〈下〉 (光文社古典新訳文庫)

 

 この記事を最初から最後まで読んでいただけている場合、1万字以上をお読みいただいたことになるが、それでもこれはあくまでも、私なりに思うところの「ダーウィンのすごさ」である。一応、ダーウィン進化論の主張の骨子はなんとかお伝えできたかと思うが、「ダーウィンのすごさ」については、まだまだこんなものではないと言い切っておきたい。

 事実、ダーウィン進化論を論じた本におとらず、「ダーウィンのすごさ」を論じた本も未だに続々と刊行されている。ダーウィンから感じるものはそれほど、つまり人の数だけあるということである。だから、少しでも進化論や生物の世界に興味が出てきたという人は、是非とも『種の起源』を手始めに読んでみていただきたい。そして、自分なりにダーウィンの「すごさ」を発見してほしい。

 そもそも、『種の起源』は一般向けに書かれたもので、いわゆるガチガチの学術書ではない。また、生物学自体の始まりの書でもあるので、生物学の専門用語がやたらに出てくるということもない。とにかく、ダーウィンその人を身近に感じられる文章が続いていると言える一冊である。決して読むのがつらくなるという類の本ではない。

 また、ダーウィン自身は進化論を論じるにあたって大著を構想していて、まだまだ準備に取り組んでいたのだが、この記事でもふれたように、そうこうしているうちにウォレスが別のところで同じ考えに至ってしまったから、急いで「要約版」として刊行されたのがこの『種の起源』である。その意味で、ダーウィン自身のノートを読んでいるような気持ちにもなって、それがまたおもしろいところである。

 あるいは、結局もともとの構想の方の大著は出版されることなく、様々な論点がそれぞれ別の本として出版されたのだが、だからこそ、原点としていつまでも重要なのはやはりこの『種の起源』ということになり、また、現在日本語で最も簡単に手に入るのも本書である。したがって初めて読むなら『種の起源』、それも、訳がとても読みやすい光文社古典新訳文庫版をおすすめする。

 一応、文庫で言えばそれより古くから岩波文庫にも訳があり(『種の起原〈上〉』『種の起原〈下〉』)、そちらはそちらで貴重なのだが(例えば、ダーウィン自身が後の版に付け加えた、批判への再反論のために費やされた一章や、用語解説も併せて訳出されている)、今から初めて読むなら、初版に当たるものを底本としていて、かつ、こなれた現代語で訳されている光文社古典新訳文庫版を読むのがいいだろう。もう一度貼っておこう。

種の起源〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

 
種の起源〈下〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源〈下〉 (光文社古典新訳文庫)

 

 

  最後に、この記事自体の「あとがき」のようなものを書いておこう。記事の中でも随所で注意書きしておいたが、この記事はあくまでも、オリジナルのダーウィン進化論の論理だけをなるべく簡潔に紹介することにつとめた。だから「その後の研究ではこうなった」という話はなるべく省いているし、入れている場合も、その後の話であることがきちんとわかるようにした。

 また、ダーウィン進化論の「この点がおかしい」というところも、いっさい書かないでおいた。何であれ、まずは本来の主張を知ることが何よりも重要だからである(よく言われることだが、ダーウィン進化論に対する多くの誤解や的外れな批判が、オリジナルの進化論の論理という共通土台をきちんと共有しないことから生じている)。

 ところで、そこで「オリジナルの主張」だけをもとに「すごさ」を抽出・表現しようとした結果、意図せずしておもしろいことが起こった。『神は妄想である』とハッキリ言い切ることにこだわるリチャード・ドーキンスの気持ちが、どこか体感できたのである(ドーキンスについては、このブログでも一冊だけ紹介したことがある「『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』~リチャード・ドーキンスのユニークさ」)。

 そして、実をいうとそれを感じて以来、この記事をドーキンスになりきって書いたらどんなに楽だろうと何度も思った(この記事は一気に書き上げたのではなく、何度かに分けて、それなりの時間をかけて書いた)。しかし、そんな中でもなんとか「ドーキンスもどき」にならないように、自分の中からドーキンスの影響をとり除いたつもりである。

 逆に言えば、この記事の冒頭ではドーキンスを指して「現代におけるダーウィニズムの宣伝マン」と書いたが、現にダーウィンの「すごさ」のかなりの部分が、作家としてのドーキンスによってすでに表現され尽くしているというのは、あるていど事実だろう。だから興味のある人は、『種の起源』を読んだらドーキンスの科学読み物に進むのもありかもしれない(それで一挙に「科学的思考とは何か」が腑に落ちるかもしれない)。

 あるいは、科学者としてのドーキンスの業績にも、もちろん興味を惹かれてしかるべきである。例えば『利己的な遺伝子』は、ダーウィンの『種の起源』と同じくらい、科学や哲学、あるいは社会全体に対して影響力を持った本であるが、ダーウィン以降の生物学を知るには必読文献の一つである(簡単に紹介しておくと、自然淘汰がはたらく単位が「種」でも「個体」でもなく、「遺伝子」であることを論じた本である。これも一般人が読めるスタイルで書かれており、本人は、書かれている内容は科学に基づいているが、SFを読むように読んでほしいとしている)。

 もちろん、私とて誰の「信奉者」でもないので、ダーウィンにしろ、ドーキンスにしろ、言っていることをなんでもかんでも手放しで称賛するわけではない。しかし、何についての議論であれ、それはすべて重層的な、数多の人々による業績の蓄積の上でなされているのであり、その重層性を知ることの重要さとおもしろさを伝えたかったというのも、今回こんな記事を書いてみた理由である。この記事から何かに興味を持って世界が広がった人がいれば、私としては幸いである。


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