フリー哲学者ネコナガのブログ

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ホッキョクグマの共食いが衝撃なら、現代人の「共食い」はどうなのかという話─「倫理的な生き方」とは何か

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 ホッキョクグマが共食いしている動画が撮影されたらしい。共食い自体はもともと周辺で暮らしている人の間では周知の事実だったようだが、映像は初めてとのこと。

 記事では「気候変動でアザラシ等が食べられなくなったから共食いが増えているのでは」というニュアンスであるが、この真偽は枠に置いて、「共食い」について今回は考えてみたい。

 

 まず、動物界においてなぜ共食いが起こるのか。一言で言えば、食糧がない場合があるからであろう。

 これは当然である。食糧がない環境とは、言いかえれば食物連鎖がうまく成り立っていない状況である。その状況で最も手っ取り早いのは、仲間、つまり最も近くにいて、食べればかなりのエネルギーが摂取できることがわかっている生体を食べることだ。それが最も効率的である。

 意外と見逃されがちなことだが、全てのエネルギーは太陽エネルギーに由来する。地球からみて、それ以外に本質的なエネルギー源はない。その光エネルギーを、まずは植物が化学エネルギーに変換する。光合成である。それを草食動物が摂取する。さらに、それを肉食動物が摂取する。これが食物連鎖である。海の中でもだいたい同じ。

 もっとも、簡単に仲間を食べていては種もろとも絶滅してしまうから、共食いする生物はいたとしても次第に淘汰されていく。結果、基本的には共食いしない種だけが生き残る。つまり「仲間を食べるな」というのは、多くの生物の遺伝子にプログラムされている基本的な命令である。

 とは言え、「絶対に食べるな」では本当に食糧がない時にやっぱり絶滅してしまうから、つまるところ最後は「なんでもあり」のスイッチが入ることがあるということになる。だから時々共食いが起こる。基本的にはこのように理解できる。

 

 さて、ここで考えたいのは人間のことである。

 人間も生物だから、上記のような入れ子構造プログラムはやっぱりセットされているであろう。もっとも、よく考えてみると、人間が共食いするのは食糧がなくなったときだけではない。

 例えば、宗教的信念によるものがある。こちらの方が思いつきやすいであろう。遭難してやむを得ず、というケースは多くはない。典型的には、儀式の時や、部族間で勝った方が負けた方を食べることがある。これは、食べることによって得るもの自体ではなく、その行為の「意味」に重きを置いているから、人間に特有である。

 もっとも、さらに考えてみると、そもそも食べるかどうか以前に、同じ種内でこんなに殺し合うのが基本的に人間だけである。これは重要な点だ。他の生物では基本的に「仲間を殺すな」というのがあるが、人間はしばしば平気で人間を殺す。なぜなら、人間は「生物レベルの命令」に対して、「より高次の命令」によって抗うことができるからである。

 つまり、より抽象的な命令の源泉(価値観、信念、イデオロギー等々)があれば、生物レベルでの遺伝子命令に全く背いて行動を起こす。だからこそ、人命を相対化するような(場合によっては人殺しを肯定してしまうような)価値観で上書きされてしまえば、本能に抗って同種内で殺し合うことになる(「「思想」とは何か」も参照)。

 これは、それだけ脳が進化したおかげだが、その能力はいい方に出ることも悪い方に出ることもあるということだ。また、結果が同じ場合でもロジックは違うということもある(実際に、使っている脳の領域が違う)。

 

 以上は基本的知識だが、それを踏まえて、人間における共食いについて考えてみよう。

 とは言え、過去の未開社会のカニバリズムの話ではない。「人間」というからには、あなたも私も含まれる。ここで考えたいのは、現代において日々起こっている、世界レベルでの共食いである。

 つまり、問いを立てるなら、「現代でも共食いは起こっているのか」である。私は、起こっていると思う。それは、先進国の人々が、貧困地域の人々を食っているという話である。言わば「間接的な共食い」である。以下に説明しよう。

 もちろん、「食べる」以外でも、人は人を殺す。典型的には戦争である。しかし、ここでみるのはあくまでも食糧に特化した話である。その構造をみると、一部の人々は明らかに、一部の人々を食糧として食べていることになる。もちろん大衆洗脳社会だからその事実が明らかにされることは少ないが、論理を追ってみれば、やはり少なくとも間接的には食べているのである。

 

 どこで読んだか忘れてしまったが(政治史か何かだった記憶がある)、むかし、アメリカのトップレベル大学のディベートチーム同士の戦い(ディベート)で、「世界の飢餓はすぐに無くすことができる/できない」みたいな議題があった。

 ディベートだから、本人がどう思っているかは関係ない。肯定か否定か、どちらに転んでも(どちらかはコイン等で決められる)そちらに立って、そちら側の主張が正しいことを論理的に主張しなければならない。そしてジャッジは、どちらがより確からしい結論かを論理を見て判断する。結論が非現実的だとか、非倫理的だとか、そういうことは関係ない。それがディベートのルールである。

 ともかく、そこで肯定側のチームが、「肉食を無くせばよい」という論理を立てた。つまり、牛肉や豚肉や鶏肉を食べるには、食べる当のウシやブタやトリを育てねばならない。そして、育てる段階で相応の穀物をエサとして与えているから、その穀物を穀物のまま人間が食べれば、食糧は足りる、ということである。

 結果的には、この論理はソルベンシー(解決性)が弱いとして通らなかった。つまり、肉食をやめてもただちに肉の生産が止まるわけではないし、食糧が足りていない地域にただちに穀物を輸送できるわけでもない、といった点で反論された(肉で儲かる企業も、大反対だろう)。

 もっともこれは、ディベートというゲームの中での話である。ここが今回はポイントである。

 実際は、本気でやろうと思えば、肉食をやめることで飢餓をなくせる可能性がないとは言えない。要するに政治の問題だからである。現実的にすぐにそうなる可能性が低いとしても、多くの人間にこれを実現しようとする「意志」があれば、可能性を上げることはできる。

 つまり、ディベートでこれが通らないのは、単にディベートでは「意志」を前提にするのがルール違反だからである。だからと言って現実的に不可能だという意味ではないということだ。

 したがって、現実世界での議論という意味では、動く可能性があるということも言える。だったら民意を変えていけばいいということになる。コツコツ働きかけて実践していくことで、それが最善の道かはともかく、一つの可能性は開かれるのである。人が論理ではなく、意志で動くことは歴史が証明している(「ノーム・チョムスキー『我々はどのような生き物なのか』~本人による入門講義」も参照)。

 

 共食いに話を戻して、少し説明しておこう。要するに私は、先進国の人々が「嗜好品」としての「肉」(絶対必要な栄養素は肉じゃなくてもとれるので)を食べるために、家畜に穀物を食わせて他の人間の食糧を奪うのは、間接的な共食いだと言いたいのである。

 なぜなら、現にそれを原因の一つとして世界の飢餓が生まれているのであり、事実、家畜に食わせている分も穀物のまま換算すれば、計算上、全ての人類の食糧はすでにあるからである(さらに先進国では、トウモロコシをバイオ燃料に変えて自動車に食わせたりもしている)。

 つまり、本来は人が摂るべきエネルギーを先進国で先にまき上げて、結果として一部の人々が死んでいるのだから、これは人が人を食べているのと同じであるということだ。これが「間接的な共食い」である。それなら、人類は明らかに共食いしまくっているであろう。これが、今回紹介したかったことである。

 

 もっとも、ディベートの論理であったように、あなた一人が明日から肉を食べなくなったところで、餓死する人がただちに減るわけではない。人間社会の構造は、もっと複雑だからである。つまり構造そのものも一緒に動かさねばならず、だからこそ圧倒的な「人々の意志」が必要になる。

 もちろんそれは簡単ではないが、飢餓をなくすにはこういうアプローチもあるということである。だから、ここで「これは共食いではないのか」という視点を提供するのも意味のないことではないだろう。

 

あなたが世界のためにできる たったひとつのこと―<効果的な利他主義>のすすめ

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  最近、倫理学者ピーター・シンガー氏のこの本が邦訳されたが、こうした話に興味のある人(もちろん、一人でも多くの人に興味を持ってほしいのだけど)にはかなりオススメである。シンガー氏は、「倫理的な生き方」というものを提唱している人である。

 もちろん、「倫理的な生き方」については人それぞれだし、ある意味では誰もが自分の倫理観通りに生きていると言えるだろう。しかし、ふつう「倫理的」という時にその内容が「消極的」、つまり「これをすべからず」というものであるのに対して、シンガー氏は、「積極的」な「倫理的な生き方」があるという。

 そこでは、世界を「全ての人にとって」よりよくしていこうという発想がまず根底にある(自分や自分の周りの人の事しか考えない人は、その時点で非倫理的ということになる)。そして、その上でアクションを起こそうと思えば、「これをすべからず」のリストだけでは絶対に足りないのである。なぜなら、人類レベルでの問題はこの21世紀においても、いくらでもあるからだ。

 つまり、頭を使って、「これをすべき」という内容を自分でどんどん加えて、日々の生き方を考え続けていく必要があるのである。それこそが、本当の意味での「倫理的な生き方」というわけだ(私も、ここで取り上げている限りでのシンガー氏の考え方には、基本的に賛成である)。

 もちろん、そこで何をすべきかは、それぞれの人が自分なりに考えればいい。自分が考え続けている中で、本心から正しいと思うことを、正しいと確信して行うことに意義がある(これが「倫理的」あるいは「道徳的」の定義であることはよく引用されるが、原典はカントの『道徳形而上学原論』である)。その時重要なのは、自分が信じている価値観が、本当に自分で考え抜いて選択した価値観かどうかということである。

 逆に言えば、正しいと確信している以外のことを行っている人は、ホッキョクグマは残酷だ、などと言いつつ、自分も無批判のうちに共食いする側だったりするのである(動物レベルの思考しかしていないということ)。

 もっともこれは、人間が複雑な「社会」に生きることの宿命でもある。現代社会では、「考えない人」は不可避的に悪影響の方に油を注がざるをえない。日本のように豊かな国では特にそうである。思考しないで構造に巻き込まれていると、知らず知らずのうちにとんでもない結果を引き起こしている。あなたは今日から、どう生きますか。

 

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