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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

歴史研究のおもしろさと難しさ─「フレーム理論」からわかること

人間・自然・社会

nekonaga.hatenablog.com

 先日イースター島史の議論について書いてみた。今回はその件を例に、タイトル通り、歴史認識について「フレーム理論」の側面から語ってみたい。簡単に言えば、こうした議論が起こること自体についての謎解きである。

 

 最初に、根拠となる理論について説明しておこう。それは、認知科学でいうところの「フレーム理論」というものである。

 「フレーム理論」については過去にも書いたことがあるが(人を動かす「フレーム理論」とは~George Lakoff 『Don't Think of an Elephant!』)、簡単に言えば、人間の認識はすべて「フレーム」に規定されているということだ。

 これは、日常的な物事の認識についてもそうだし、何かについて他の人が驚くほどの説明ができるのも、反対にとんでもない誤解をしてしまうのも、すべてはフレームの違いである。認識の違いは、フレームの違いなのである。

 

 では「フレーム」がどこにあるかと言えば、それは脳内である。人間は、どんな入力チャンネルからきた情報であれ、最終的には脳において統合することで一つの認識をつくりだしている。その統一プロセスを支えるのが、事前に脳内に蓄えられた膨大な「フレーム」、言い換えれば「認識のパターン」ということである。

 例えば、リンゴが目の前にあるとする。われわれは、それを見たり触ったりして「リンゴだ」と認識する。これは、「リンゴ」フレームがわれわれの脳内にあるということである。つまり、リンゴフレームとは、個人個人の脳内にある「リンゴに関するあらゆる知識の集まり」と言い換えてもいい。ともかく、リンゴフレームが脳内にあるから、リンゴが認識できるのである。

 逆に言えば、リンゴのことを知らないある人が、われわれが「リンゴ」と認識したものを「ナシ」と認識してもおかしくはない。

 それは、その人が「リンゴ」についての知識を十分に持っていなかったということであり、かつ、たまたま「ナシ」についての知識を持っていたということである。だからこそ、「ちょっと変わったナシだ」くらいに認識した。いずれにしても、何かを認識するには、先にそれにふさわしいフレームが必要なのである。

 

 ちなみにだが、こうしてみれば「フレーム」は、哲学で言うところの「イデア」に似ていると思う人もいるだろう。大まかにはそれは正しい。「イデア」とは、プラトンがいうところの「物事の原型」である。例えば、目の前のリンゴはあくまでも具体的な存在である。しかしプラトンは、それとは別に「パーフェクトなリンゴ」なるものがあるという。それがリンゴのイデアである(イデアは英語で言えば「idea」であり、「理想」である)。そして、魂の奥底にリンゴのイデアがあるから、具体的なリンゴをみて「リンゴ」と認識できるという。イデア論は、現代の科学の説明とは前提が異なるが、論理をみてみるとそっくりである。

 

 しかし、以上は概念レベルでの話だが、実は「フレーム」が適用される範囲はもっと広い。何しろあらゆる認識を規定するのだ。したがって、あらゆるレベルで作用する。それが、フレームのおもしろいところである。

 例えば、「ストーリー」である。ストーリーにもフレームがある。われわれは、あらゆる場面で「こうなれば次はこうなるだろう」とか「これが出てきたらこれも当然あるだろう」といった、ある種のパターンを使って認識している。つまり、物事の結びつきの認識である。これも、フレームなのである。

 例えば創作モノで言えば、小説であれ映画であれ、ストーリーの原型が「すべてギリシア神話で出つくしている」というのはよく知られている。どんなに趣向を凝らしてオリジナルなものを作ろうとしても、やっぱりそれは表面的な違いで、ストーリーに関しては核となる部分にオリジナリティは出ない。それは、可能なフレームがすでに全て網羅されてしまっているからである(あるいは作曲家が「あらゆるコード進行はもう出つくしてしまっているから、本当の意味での新曲は作れない」というのも同じ意味である)。

 

 それなら、本題であるが、歴史認識においてはどうなのか。結論から言えば、やっぱりフレームは作用する。つまり、どんな「歴史」であれ、それは一つのフレームに規定される形で認識されたものだということである。前回の記事でついでに触れたことを思い出していただきたいが、「history」とはそのまま「story」なのである。

 したがって、まず重要な点は、客観的・中立的な歴史認識などありえないという事実を知ることである。それは、今は無理とか、事実上無理という話ではなく、人間の脳がこうなっている以上、原理的に無理なのである(不完全性と言いかえてもよい)。だから「真の歴史」と言う時の「真の」の意味は、「極上のスイーツ」と言う時の「極上の」とさほど変わらないということである(つまり「自称」である)。

 次にわかることは、前回みたような相反する二つの視点は、フレームが違うのだということである。だからこそ、相容れないどころか、フレームという大枠が変わることによって、あらゆる細部がひっくり返ってしまうというわけだ。

 つまり、一方では「崩壊に向かうストーリー」が頭にあったからこそ全てが「崩壊の根拠」に見えて、一方では全く異なるフレームを得たからこそ、全て別の解釈に変わってしまったわけである。これが、歴史認識のおもしろさだ。

 それなら、「マタア」についての論争の構造もスッキリわかるだろう。つまり、もし今回の新研究で言われているように「武器ではない」のだとすれば、マタアが「武器」に「見えた」のは、「戦争があった」という「ストーリー(=フレーム)」で認識してしまっていたからということになる。一方、マタアを「武器ではない」と認識したからこそ、「戦争がそもそもなかった」というストーリーを採用することもできるのである。これだから、歴史研究は「難しい」。

 反対に、歴史研究が「おもしろい」のはなぜかというと、こうして「すべてがひっくり返る」爽快感、たった一つの発想の転換によってパズルのピースがつながって「わかったぞ!」となる時の満足感がたまらないということである。それがあるから、歴史研究は永遠に続く。

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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  ちなみに、マタアの話で私が最初に思い出したのは、この本の冒頭にあった興味深い写真である。そこでは、「人類のあり方の歴史」と言ってもよいこの本にふさわしく、はるかな昔と今との類似点と相違点を手っ取り早く比較するべく、50万年前の握斧(ハンドアックス)と、現代のわれわれが使うワイヤレスマウスが並べられていた。

 類似点から言えば、それらは「人間の手にフィットするように作られてる」という点で似ている。だから大きさや形がほとんど同じとなる。一方で相違点は、それを作るのに関わった人の数と知識の量である。ワイヤレスマウスを作ったその後ろには、見通すのが難しいほどの分業体系と、それを可能にする膨大な知識の体系がある。

 もっともフレーム理論の観点から言えば、現代のわれわれにはワイヤレスマウスを「ワイヤレスマウス」と認識できても、当の50万年前の握斧を使っていた頃の人には、ワイヤレスマウスもまた「握斧」に見えてもおかしくはない。なぜなら、「ワイヤレスマウス」などという概念は、まだ存在しなかったからである。

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