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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

川端幹人『タブーの正体!:マスコミが「あのこと」に触れない理由』─そもそも「タブー」とは何か

書評と本の紹介

 川端幹人『タブーの正体!: マスコミが「あのこと」に触れない理由 (ちくま新書)』を読む。かなり売れた4年前の本だが、今読んでも色あせていない。著者はかつての『噂の眞相』の副編集長である。

 

 タブーを扱った本は少なくない。しかし、そもそもタブーとはなんだろうか。それが意外と見逃せない問題なのである。本書は新書でありながら、その点から丁寧に追っているのが特徴である。その上で、メディア上の個々の「タブー」が発生する原因を大きく「暴力」「権力」「経済」の3つに分けて追っている。

 

 まず、タブーとは何かである。一般には「触れてはならないもの」くらいの語感だろう。しかし、同じ「触れてはならない」であっても、本来の意味での「タブー」という言葉と、メディアにおける「タブー」という言葉の意味は、根本的に異なる。つまり、発生の構造が違うのである。その点を最初にじっくりみておく必要がある。

 著者が指摘しているように、元々「タブー」という言葉はポリネシアの「tabu」に由来するもので、航海者ジェームズ・クックが、ポリネシア諸島での禁忌の掟を記したのが始まりであった。それが、広く文化人類学用語として一般化されたのが、現在言うところの「タブー」である。日本語で言えば「禁忌」にあたる。

 念のため、弘文堂の『文化人類学事典』からタブーの定義を引用しておこう:「ある事象(特定の人物、事象、動植物、行為、日時、名称など)が感染性の危険な力を帯びていると見なし、それを見たり、それに触れたりなどさまざまな行為を禁止することであり、これに違反すれば何らかの災厄に見舞われると信じられていること」(p.458-9)。

 ここで、ポイントは最後の「信じられていること」という部分である。つまり、ある種の「信仰・信念」がそこにあるからこそ、人々はそれに触れることを禁止している。それがタブーの定義である。つまり、本人がその帰結を意識していなくても、ただそうすべきと信じているからそうするのである(こうした行為が残るのは、全員がその態度を共有することが、意図せず共同体の存続や秩序の維持を助けるからである)。

 

 一方、メディアでの「タブー」はどうか。著者はまず「皇室タブー」をとりあげている。いわゆる「菊タブー」であるが、どのメディアも皇室について言及するときは細心の注意を払う。本書によれば、皇室記事の場合、たった一文字の誤植ですべてを回収、刷りなおすのに何千万円かけることもあるという。普通なら考えられないであろう。

 しかし、本書によればこの「菊タブー」が、しばしば言われるように「皇室への当然の敬意のあらわれ」に端を発すると考えるのは大間違いである。というのも、著者が観察する限り、例えば、当の記者が飲み屋で天皇を揶揄していたりと、とても本心から尊敬しているとは考えられないからだ。

 そこで問題が別にあることがわかるが、答えは簡単で、「皇室タブー」が存在するのは「右翼の脅し」に原因があるという。これについて著者は、まさに自身の体験を紹介して、その「恐怖」が明白に現実のものであることを述べている。著者は、実際に右翼に編集部を襲撃されたことで、全治三週間の怪我を負ったのである。

 もっとも、「菊タブーの原因は右翼の圧力にある」ということ自体は、メディアリテラシーがある人なら言われなくても知っているだろう。実は、問題はまさにこの「脅しによって」という点なのである。これが著者が指摘する三つの原因のうちの一つ、「暴力」だが、つまり、記者は「恐怖」が原因で自主規制しているのである。

 それなら、実はこうした「タブー」を「タブー」と呼ぶこと自体が一つの問題であるとみることもできるだろう。これがおもしろいところである。なぜなら、「タブー」なら「信じて」いなければならないが、「皇室タブー」の原因は、記者の信仰や信念ではなく、「暴力への恐れ」だからである。

 つまり、本来は「タブー」にはあたらないものであるにもかかわらず「タブー」という言葉を使うことによって、リアリスティックで明白な理由を持つ行為が、あたかも何らかの信仰や信念に基づくものだとみなされてしまうわけだ。そこで、真の構造が覆い隠されてしまうのである。

 

 本書では、こうした「構造」を見渡す手がかりが続々と登場する。例えば、残りの二つである「権力」と「経済」についても少しみておこう。

 まず「権力」でくくられるのは「政界」や「警察」、「検察」の「タブー」である。ニュースを見ていればわかるように、例えば警察なら地方県警レベルでの不祥事ならいくらでも流れてくるが、警視庁のものはまず流れてこない。それはもちろん、情報を握っても、報道しようとした瞬間に「恐怖」に直面するからである(警視庁の場合、情報提供主として優待しなければならないのだ)。

 あるいは「経済」についても多くの業界にふれているが、基本はもちろん、広告主という立場が持つ権力にある。メディアは広告収入がなければやっていけないから、必然的にスポンサー企業の不祥事を書いたりすることはできなくなる(つまり、倒産する恐怖である)。この点はよく指摘されることだが、日本のメディアの問題は、総じて「編集と経営の分離」が進んでいないことである。

 最終章では、メディアがなぜこうした暴力や権力やカネに屈するのかが簡単に考察されているが、著者の答えはきわめて常識的だ。要するに、メディアも市場原理、資本主義に飲み込まれてしまったからである。つまり、ジャーナリズムの凋落である。権力に対抗するのがジャーナリズムの本義だが、今やメディアもまた、自身の権益保持を至上目的とする権力の一部なのだ。

 

 本書を読んでわかるのは、構造を知ることの重要性である。どんな業界であれ、どんな分野であれ、複雑性のあるところには必ず構造がある。何事も、それをわかった上でみなければならないということだ。つまり、自分で情報を集め、自分で考え、自分で出した結論のもとに行動しなければ、操られる側の一員であるほかなくなる。

 ジャーナリズムということで言えば、最近起こった日本でのメディア史上の出来事は、何をおいても3.11後の各メディアの報道姿勢だろう。あの一連の荒唐無稽な報道姿勢は、それまで構造に無知であった人にとっても、「何かがある」ということが確実にわかったという点で意義があった。

 問題はそこからで、それ以来、目覚めて自分で考え始めたか、依然として「メディアがしっかりしろ」と他人事で済ませたかである。後者をとる人が未だに多いことが、日本に民主主義を根付かせることを難しくしているのである。民主主義の大前提は「参加」にあり、何かを誰かに任せた時点で民主主義ではなくなる。

 重要なのは、数々の構造があるとわかった上で情報に接することだ。つまり、「そういうものだ」としてみることである。マスメディアも外から見る必要があるのである。それがリテラシーというものだ。

 「タブー」について言えば、実践的な暴力手段があり、利権にまみれた権力があり、そしてカネの動きがある限り、決してなくならない。それを実感するためにも、本書は読んでおくべき一冊だ。

 

タブーの正体!: マスコミが「あのこと」に触れない理由 (ちくま新書)

タブーの正体!: マスコミが「あのこと」に触れない理由 (ちくま新書)

 

 

 ちなみに、同じちくま新書から出ている『タブーの謎を解く―食と性の文化学 (ちくま新書)』という本が手元にある。こちらは、本来の文化人類学的な意味でのタブーの考察であるが、両者を比べてみると、タイトルはほとんど同じ意味であるにもかかわらず、サブタイトルをみただけでも中身が全く異なることがわかる。

 このことからも、メディアで言う「タブー」がいかに本来の意味での「タブー」と質的に異なるものであるかがわかるだろう。メディアにおけるタブーの構造をより詳細につかみたい人は、文化人類学的な意味でのタブーの発生メカニズムもきちんと学んでおくことをおすすめする。


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