読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「宗教」は今後どうなるのか(4)「資本主義教」の時代

宗教とその周辺覚え書き

nekonaga.hatenablog.com

 

 「宗教は今後どうなるのか」である。

 第1回では「お坊さん便」について触れ、第2回と第3回では二回に分けて、島田裕巳『宗教消滅 資本主義は宗教と心中する (SB新書)』で解説されている各国での宗教事情をまとめた。今回はそれを踏まえて、島田氏の論考にも触れつつ、本題に入ることにする。

 

 これまでみてきたように、大きな力を持っていた仏教やキリスト教といった「既成宗教」は現在、局所的ではないレベルで衰退している。また、一方で新宗教がそれを代替しているかというと、そうとは言い難い。新宗教の成長は経済成長とともにあり、経済成長が滞ると新宗教も衰退していくからだ。

 したがって、特定の宗教ではなく「宗教」そのものからの離脱が、人類レベルで進んでいる、という見方が可能になる。ひいては、島田氏の本のタイトルとなっているように、「宗教消滅」というシナリオも描けるわけである。

 

 しかし、一方で前回みたように、ヨーロッパではキリスト教が衰退する一方でイスラム教が拡大しているという流れがある。また中国でも、宗教が国家によって統制されていながら、依然として宗教が強く求められているという例外的な状況がある。前回言っておいたことからすると、これらはいずれも、「資本主義にどっぷりつかっているかどうか」が分析の勘所となりそうである。

 したがって今回は、ヨーロッパでのイスラム教や中国での問題に触れつつ、一つの整合的な説明を試みるべく、「資本主義と宗教の関係」についてみていきたい。一応、これについては島田氏の本でも触れられているから、島田氏の論考にも触れながら書いていこう。

 もっとも、島田氏の本ではあくまでも「資本主義」と「宗教」の関係の分析に終始しているのに対して、私はさらに進んで「資本主義が宗教」という視点から述べたいと思う。つまり、「宗教」が表から消えていくことと、「信仰心」が失われていくことはイコールではないということである。

 「資本主義も一つの宗教である」という視点自体は特に目新しいものではないかもしれないが、この視点から「宗教の行く末」を考えると、今起きていることはとてもシンプルに説明できるのである。

 

 では、順番にみていこう。まず、ヨーロッパでイスラム教が拡大していることについて触れておきたい。

 これは前回も言ったように、ヨーロッパの人々が改宗しているのではなく、移民・難民として外から入ってくる人口にイスラム教徒が多いという話である。したがって、この流れでまず起こりそうなのは価値観の衝突である。事実、ヨーロッパ社会では、イスラム教徒がイスラム教的価値観を保とうとすることで衝突が起こっているのはよく知られている通りである。

 たとえば、フランスではイスラム教徒の女性がスカーフを被ることが問題となっている。これはイスラム教徒にとってはきわめて日常的で当然のことだが、政教分離が厳しいフランスでは、公共の場でスカーフをかぶるのは「信仰の誇示」だとして「スカーフ禁止令」が出されるまでになった。こうしたある種の「排斥」が起こると、排斥された方はアイデンティティを保つべくますます信仰を強めるから、結果としてその溝も深くなる。

 しかし、そもそも問題は、こうしたヨーロッパでの二教の衝突が「起こったらその都度折り合いをつけていけばいい」という類の些細な問題ではないということである。なぜなら、根本的な問題は、ヨーロッパで支配的であった「キリスト教」と、全く別の社会を形成していた「イスラム教」の、宗教としての「構造」そのものが違うということだからである(この点に興味のある方は、小室直樹『日本人のための宗教原論』という名著がある)。

 まず、キリスト教には「聖」の領域と「俗」の領域の厳格な区別がある。これはつまり、宗教的な教義が社会制度とは切り離されているということである。したがって、およそどんな社会においても「キリスト教徒であること」は可能である。

 これに対し、イスラム教には大前提として聖と俗の区別がない。つまり、国家の法律や社会の規範が、宗教の教義と重なっているのである。したがってイスラム教徒は、イスラム教に親和的な社会でなければ信仰を保つことが難しい。これが問題の根源である。

 もっとも、だから『文明の衝突』だ、という論理はすでに古い。イスラム教も多様化しているからである。これについて島田氏は、「ハラール認証」や「イスラム金融」といった具体例を挙げながら、イスラム教が徐々に現代化していることを指摘している。言い換えれば、衝突問題もいずれは減って行くだろうということである。

 それなら、キリスト教が衰退しているヨーロッパでは、しばらくはイスラム教だけが「残ってゆく」というシナリオは考えられるだろうが、島田氏はこれに一票である。もっともその先は、長い目で見ればイスラム教すらも次第に適応が進んで骨抜きにされるから、結局全世界の「無宗教化」「世俗化」は避けられない、というのが島田氏の結論である。だからこそ「宗教消滅」というわけだ。

 

 さて、ではここで言う「現代化」というのは何を意味するのか、ということである。結論から言えば、それは「資本主義化」であり、現在、世界で進行しているのは島田氏が言うような「無宗教化」ではなく、「資本主義教化」だというのが私が書きたいことである。つまり、資本主義も宗教なのである。順を追って説明するので、とりあえず「資本主義教」なるものがあるということを念頭に置いて読み進めていただきたい。

 

 まず、この観点から言えば、日本やヨーロッパで起こっていることは簡単に説明できる。つまりキリスト教なり仏教からの、資本主義教への改宗である。だからこそ、資本主義がますます社会の隅々まで浸透した地域においては、既成宗教は衰退の一途を辿っている。つまり、「信仰」はすでに資本主義教の方に行ってしまったのである。そして既成宗教は「形式」や「制度」、「文化」や「慣習」といった形でしか残らないことになる。

 これについては、日本ではすでに起こっていたであろう。仏教や神道といった既成宗教が、形式的・文化的立場に終始していて、ほとんど信仰を伴っていないのはご存じの通りである。また、前回紹介したような、ドイツでの「挙式のための教会税」というのもこれと同じであろう。つまり、形だけあればいいのであり、もともと信仰は伴っていないのである。だからこそ、宗教行事は「サービス化」している。

 そう思えば、「教会税からの離脱」と同じようなことが日本でも起こっていないだろうか。起こっているのであろう。その典型が、第1回でみたような「お坊さん便」である。つまり、宗教行事を「サービス─対価」の関係で理解しつつ、代替機能を果たしてくれる「お坊さん便」を利用する。これは、形式的・文化的に儀式を執り行えさえすればいいということであり、「信仰」が主目的ではないからこそである。

 したがって、ここで「お坊さん便」を利用する場合と寺院に直接頼む場合の価格差を、「教会税」ならぬ「寺院税」とみることもできるであろう。そして、このように理解すると、第1回でみたような全日本仏教会の「経営的に困る」という本音についてもさらに理解が深まるであろう。ちょっと詳しくみておきたいが、要するにこれは、「既得権益が失われるのは困る」と言っているだけなのである。

 なぜなら、宗教的・教義的理由なのであれば、信教の自由だから信仰している人たちだけで勝手にやっていればよいのであって、外部(信仰していない人)に向かってとやかく口出しする権限はないからである。お坊さん便がどの宗教かはともかく(表向きは日本仏教の一部だという立場だが)、少なくとも日本仏教会が考える「あるべき仏教」と何か食い違うのであれば、もう信仰が違うということだからそれ以上は問えないはずである。サービスを利用する人は、たとえそれが日本仏教であっても「お坊さん便派」に改宗してしまったと言うほかない。

 にもかかわらず口を出すのは、寺院から信者が離れるのは困るからであり、つまり寺院の存続なり僧侶の収入安定の方が目的になっているからであろう。つまりこれは、日本の寺院が行っているのは、宗教的行為ではなくビジネスだということに他ならない。そして、お坊さんは単なる職業名ということに過ぎないことになる。

 そもそも、宗教的な論理をつらぬくのであれば、信仰のために寺院があるのであり、寺院のために信仰があるのではない。あるいは、信者のために寺院があるのであり、寺院のために信者がいるのではない。それなら、信仰が失われたり、信者が離れていったら、収入が減ったりつぶれたりする寺院が出てきても何の問題もないはずである。それを「問題」だとみる時点で、「寺院ビジネス」の論理なのである。

 これは、国家が少子化を問題だとする論理とのアナロジーで理解するとわかりやすいだろう。つまり、「税収が減るから少子化は問題だ」という主張である。もちろん他にも少子化を問題だとする論理を立てることは可能だろうが、少なくともこれはおかしい。なぜなら、少子化なら人口そのものが減っているということであり、国家のサイズそのものが縮小しているのだから、その運営費である税収も相応に縮小して何の問題もないはずだからである(減ったら減ったで、議員や官僚の人数も調整しなければならないが)。

 にもかかわらず、それ自体が「問題だ」というのは、そこに利権がある人たちが「俺の取り分が減る」と言っているに過ぎないということである(もちろん国家は税収で賄われるべきで、正当に使われているのなら何の問題もないが、今の日本では天地がひっくり返っても正当に使われているとは言えない)。規模は違うが、同じ構造を寺院にみるのは読みすぎであろうか。

 ──追記。この記事をすでに書き終えた後だったが、2月16日付でサイゾー系のメディア「ビジネスジャーナル」から「お坊さん便」に関する記事が流れてきた(ベンツ乗り回すお坊さん、お布施不明瞭…アマゾンのお坊さん便に全日本仏教会が中止要請 | ビジネスジャーナル)。「ビジネスジャーナル」だから記者は当然ビジネスの論理で読み解いているが、そもそも日本仏教界がまずすべきことは、ビジネスなのか宗教なのかはっきりさせることであろう。寺院は宗教法人なのだから(宗教法人の認可を受けていれば非課税である)、ビジネスをやっていては困る。あるいは、ビジネスであるならそれはそれでふさわしいやり方で社会に役割を提供しつつお金を得れば何の問題もないわけである。一方で日本仏教会理事長が表向きで宗教の論理をつらぬいているように、宗教の論理でいくなら「年収」や「経営困難」を気にするのはおかしいし(仏教的に言えば「執着」である)、お布施について云々するのもおかしい。そもそも「お布施」の始まりは、出家修行者(僧侶)はこの世のあらゆる執着を離れ、あらゆる煩悩から自由になるべく悟りの修行に専心しなければならないから、食糧等の確保を気にかけていられない一方、そうした修行に励む人を尊敬する人々が食糧を提供すればいい、というものだからである。上座部仏教国の僧侶などは今でも、午前中にお椀ひとつ持って人々が入れてくれた分だけのものを食べる(午後は食べない)。要するに問題は行為の背後にあるロジックであって、結果論として「稼ぎ」が多いか少ないかではない。(ちなみに、ビジネスと見た場合の僧侶の収入の実態については個人や状況により様々だと思うが、一例として、会計事務所に勤務もしている現役の「お坊さん」が書いた『「ぼうず丸もうけ」のカラクリ』という本がある。)──

 

 さて、ヨーロッパや日本で資本主義教への改宗が進んでいることはわかった。次に前回みた中国に特有の状況について考えてみたい。しかし、結論から言えばこれも「資本主義教」の存在を裏付けていると言えるのである。ということで、中国に進む前に、そろそろ「資本主義教」について説明しよう。

 まず、資本主義教において救われるのは、多くの宗教と同じく、熱心に信仰した人だけである。では資本主義教における信仰とは何かと言えば、資本主義システムのもとでの競争原理に耐えることである。これが「修行」であり、その結果として信者としてのランクが上がったり(出世)、「神の思し召し」(年収)が増えたりする。

 つまり、資本主義教においては、神のはたらきを代替する「聖霊」にあたるのが「お金」ということになる。なぜお金が「神の力」だと言えるのかといえば、資本主義システムのもとでは、およそお金があれば願望はたいてい満たされるからである。つまりお金が「全能」なのである。救われないなら、もっと修行すればよい。これは宗教であろう。事実、使い道がないのに「お金を得ることそのもの」が生きがいになっている人はいくらでもいる。

 したがって資本主義教が信仰しているのは、「資本主義というシステム」であり、「お金の価値の絶対性」ということになる。つまり、資本主義教の「教義」と資本主義教の「神」である。そもそも、お金自体はよく言われるように紙切れであり、その価値は、みんなが信じているがゆえに保たれているのである。言い換えれば、みんな一緒に資本主義教の価値観の中にいるから実体性が生じているのである。

 これは、別の宗教アイテムで置き換えるとわかりやすいだろう。たとえば墓石は、日本仏教を信じている人にとっては、踏んだり蹴ったりできないものである。つまり、何か目に見えないものがリアリティを持って感じられていることになる。しかし、信仰していない人から見れば、それはただの石である。きれいに磨かれているにしても、美的価値もそんなに感じられないであろう。石は石である。

 そして、そこで「これはただの石じゃない」ということをいくら説得しても、同じように感じてもらうのは難しいのである。どれほど難しいかと言えば、あなたが墓石を踏んだり蹴ったりできない日本人だとして、家にやってきた新興宗教の信者の勧誘話を真に受けるくらい、難しい。もちろん、知識として理解することはできる。しかし、「体感」としてそう感じるには、「信仰」がなければならないのである。

 あるいは別の例として、私には敬虔なムスリムの友人がいるが、一緒に神社に行った時、彼は「時間だ」と言ってその場で敷物を広げ、かぶり物をして、方位磁石で方角を確認して、ぶつぶつと祈り始めたのである。日本人の私からすれば、神社でムスリムが地面に伏してお祈りをしているというのはすごい絵だが、彼にとっての神社はただの公園のような感覚だったのであろう。宗教的世界観が違うとは、そういうことなのである。

 もし、「いや、お金の場合はやはり話が違うだろう」と思った人がいたら、あなたは相当どっぷりつかっている信者である。なぜなら、やはりお金はただの紙切れで、その同じ世界観の中にいる人にしか実体性がないものだからである。別に私は、資本主義教であれ何であれ、宗教を信じるのが悪いと言っているわけではない。ただ自分が何を信じているのか(信じていないのか)を自覚していないのはマズいということだ。

 もっとも、逆に言えば、現代日本では「資本主義教」にどっぷりつかっている人が多数派だからこそ、「お金」が「全能」となっているし、「お金さえあれば救われる」と現に思われているわけである。そして、資本主義教の信仰がますます進んでいるからこそ、他の宗教が軒並み衰退しているのだと言えるだろう。お金を使うこと、あるいはお金を追い求めることで満たされるから、神や仏の力は不要なのである。

 

 長くなったが、資本主義教を理解したところで、中国での状況である。前回みたように、中国はもともと「国家により宗教が統制されている」という特異な状況にあるのであった。そして、そうした国家の管理下にある「規制された宗教」は民衆のニーズを満たせないため、一方で非公認の地下教会といった宗教が存在している。

 こうした「新宗教」を信仰しているのは、「経済格差により生じている」と言われることからわかるように、生活に苦しんでいる人である。だからこそ「現世利益」の「疑似キリスト教」となっている。

 しかし、それなら答えは簡単だろう。つまり、生活に苦しんでいない人イコール資本主義教で救われた人であり、逆に資本主義教で救われなかった人が、それ以外の宗教にコミットしているというだけだからである。それなら、経済全体が底上げされれば、いずれは資本主義教への全面改宗が進む可能性も考えられる。

 そして、これは中国だけでなく、どこの地域でも同じであろう。つまり、資本主義が根付いて経済発展が進むほど、「資本主義教化」が進み、それ以外の宗教からは信者が離れていく。一方で同時に、格差が拡大すると資本主義教以外の宗教の信者は一時的に増えていく。

 

 このように、「資本主義も宗教である」とする視点からすれば、中国もやはり例外ではなかったということである。逆に言えば、これまでに見てきたヨーロッパや日本、中国、韓国での状況に限って言えば、全てを整合的に説明できるのは、「あらゆる地域で資本主義教化が進んでいる」という主張のみであろう。これが一応、結論である。

 したがって、「宗教は今後どうなるのか」ということで言えば、「このまま資本主義教化がますます進む」というのが妥当な見方であろう。一方で格差が拡大すると同時に資本主義教以外の宗教の信者は一時的な増減を繰り返すが、それは格差が原因である限り、資本主義教を補完するものではあっても、資本主義教に対抗するものにはなりえない。

 それなら、「宗教消滅」が起こるかどうかは、「資本主義教」の行く末次第なのである。

 

宗教消滅 資本主義は宗教と心中する (SB新書)

宗教消滅 資本主義は宗教と心中する (SB新書)

 
宗教消滅 資本主義は宗教と心中する (SB新書)

宗教消滅 資本主義は宗教と心中する (SB新書)

 

 


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト