フリー哲学者ネコナガのブログ

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エイリアンはそんなにバカじゃないという話

 映画『第9地区』を観ていて思ったのだが、時に、地球にやってくるエイリアン(地球外生命体、宇宙人)というのはどうしてこうもひどく描かれるのであろうか。

 

 もちろん、「フィクションだから」というのはあるだろう。つまり、素晴らしいよりはひどい方がウケるからである。映画の場合は特に製作費が莫大だから、商業的に成功するためにはインパクトのあるキャラクターを採用するのが理に適っている。

 しかし、こういうのをみると個人的にはものすごい違和感を抱くのである。もちろん作りものの世界だから、もとよりツッコミどころは探せばいくらでもあるだろう。しかし、こうした映画ではメインはエイリアンである。それなのに、そのエイリアンがいざ出てくるとたいてい私は落胆するのである。なぜなら、ありえなさすぎるからである。どれだけ入り込んでいても、その瞬間に臨場感が思い切り下がって、全てが茶番と化してしまう。

 もっとも、もともと娯楽だから茶番は茶番でそのまま楽しむが、やはり時間をかけて映画を観るなら、それなりの臨場感があるに越したことはないであろう。映画というのは本来的に臨場感芸術、臨場感表現だからである。ストーリーとか役者とかに注目している人もいるにはいるであろうが(それだけではもったいない)、基本は視覚+聴覚+言語を使ってどのような臨場感を表現しているかが映画のキモであろう。内容がなんであれ、鑑賞体験の主観的な充実度は「没入度」で決まるのである(この点は小説や音楽も同じ)。

 

 さて、エイリアン像がどう「ありえない」のかと言えば、二つのことが言える。一つは見た目である。もう一つは知能面である。

 まず見た目を言えば、どうしてあんなにもおぞましい姿で描かれるのかである。具体的には、もちろん映画によって違うが、先に言った『第9地区』の例で言えば、ついさっき汚染されたどぶ川から出てきたばかりのような、二足歩行の甲殻類のような感じである。劇中では「エビ野郎」扱いだが、一方なぜかキャットフードが好物である。

 そもそもこういう「ひどい系」のエイリアンをみていて思うのは、第一にボディに謎のパーツが多すぎることである。同じ宇宙である限り物理法則は変わらないはずだから(人類がどれほど解明しているかは別として)、やはりダーウィンの進化論ははたらくはずであり、それなら、無駄にエネルギーを消費したり邪魔になるだけの不要なパーツは次第に退化してひいては消えているはずである。

 にもかかわらず、全く何の役に立つのかわからない、むしろ動きづらそうになっているだけのようにみえるパーツが多い(要するに、ただ徹底的にひどくさせようという演出の論理しかないということであるが)。あるいは遺伝子操作とかで自主的にそういう格好になっているのかもしれないが、それなら美醜の基準が地球とは違いすぎるのでしょうということでとりあえず納得はできるけれど。

 

 次に、地球にやってきて即座に地球環境に適応して(もともと地球にいた宇宙飛行士でも、宇宙から帰還すると再び地球環境に適応するまでにはそれなりの時間と訓練を要する)、普通に行動しているということは(まさか不自然な動きは完全には適応できていないことの表現なのだろうか)、もちろん何らかの技術で準備してきたのかもしれないが、もともとの星の環境はそれなりに地球と似通っているのであろうから、それなりには地球の何らかの生物に似たシェイプになっているはずである。

 しかし、やはりたいていは地球にいたとしたら一体どうやって自然選択のフィルターをくぐりぬけてきたんだという見た目である(大前提として、生物の見た目というのはある程度のライフスタイルや性質を反映している。人類除く)。というか、パーツのサイズバランスからしてそもそも物理法則を無視しているし、やたらに存在感がどぎついだけで、見た感じ生物学的な生存戦略などもうかがえない(どぎつい見た目が得をする星なのかもしれないが)。

 

 あるいは二つ目の理由である知能面に進むが、エイリアンが様々な意味で「ひどく」見える別の理由は、知能的にもバカに描かれているからである。これはもう、人類と同レベルかそれ以下の時点ですでにおかしい(もちろんエイリアンの方が圧倒的では話がすぐに終わって映画としておもしろくないというのが実情だろうが、ここでは私が抱いている違和感の説明を続ける)。なぜなら、地球にやってくる(別の惑星へ行く)という、人類が未だかつてやっていないことをまさにやっているほどの知能を持っているからである。

 もし仮になんと今回が初めてのチャレンジだったとしても、人類から見ればハイパーテクノロジーに変わりはない。人類は母星の衛星(月)になら、ごく少人数ならば行ったことはある。しかし、惑星となると隣に行くだけでもうレベルが桁違いである。距離だけで言っても、月までなら約38万kmだが、たとえば金星までは一番近い時で約4000万km、火星なら同じく一番近い時で約5500万kmもある。あるいは地球の物理学者がすでに知っている限りでの、地球から一番近い「生命が存在している可能性がある星」はさらにとてつもなく遠い。彼らは、少なくともそれほど遠くから来れるのである。すごいテクノロジーであろう。

 ところが、知能面ということで再び『第9地区』を見ると、エイリアンは先述したようにキャットフードに目がないので、猫缶一つで人類に手なずけられている。要するに思い切りバカに描かれている(そうでないエイリアンも登場するが、人類より賢くは絶対に描かないらしい)。その描写は私からすればもう、エイリアンの冒涜にしか見えない。地球にやってくるほどの地球外生命体が、そんなにバカなはずがない。エイリアンをバカにしすぎである。

 

 あるいは、そんなにバカっぽく描かれていないにしても、典型的なストーリーや昔からある素人のおそれに「エイリアンが地球に攻めてくる」というものがあるが、これも同じくエイリアンをバカにしすぎである。まず普通に考えて、彼らがドンパチやるために地球にやって来るなどありえないだろう(もとより戦争がそんなに普遍的なものだと思ってもらっても困る)。

 これも「人類よりすごいテクノロジーを持っている」ことからの推測ではあるが、それだけすごいテクノロジーを持っているなら、社会性や倫理性も相応に発展しているに違いないであろう。なぜなら、テクノロジーだけが発展して暴走すると、社会が崩壊するか、種として絶滅するからである(人類も60年代のキューバ危機の時に核戦争で絶滅しかけている)。

 もちろん常にテクノロジーが先で、社会はあとからそれに適応して変化するものだが、逆に言えば、テクノロジーが進歩すれば社会も必ず進歩するということだ(進歩できなかったら、どのみち社会そのものがなくなる)。それなら、人類からみればハイパーテクノロジーを持っているエイリアンは、社会性や倫理性もハイパーに違いないのである。

 ということで、未だに戦争のようなバカをやっている人類と同じに考えていたら大間違いだろう(『第9地区』に出てくる人たちも、どうしてあんなにホイホイと銃で人やエイリアンを撃つのでしょうか。とてもバカに見えないでしょうか)。もちろん人類全員が戦争好きなわけではないが、現代でも地球上のどこかは常に戦争状態であり、同じ地球に住んでいる以上、どこかで起こっていることを永久に無視して済ますことはできないから、これはどう逃げても「人類」の次元での問題である。

 いずれにせよ、あまりにも遠く離れた地球に(エイリアンの方の感覚ではすぐ近くなのかもしれないが、それならなおさら)ハイパーテクノロジーで「わざわざ」やってくる理由が「戦争」だというのはありえないであろう。そんなエイリアンたちが地球を占領したり地球人から搾取する必要性はおよそ考えつかないし、あるいは百歩譲って悪趣味な娯楽だとしたら、何が楽しくてそんなハイパー高コストな娯楽がありうるであろうか(いや、そもそもそんな娯楽はハイパー倫理に圧倒的に反するであろう)。

 

 ということで、「エイリアン(宇宙人)はそんなにバカじゃない」というのが私の確信である。バカじゃないどころか、いろいろな意味で人類よりはるかにすごいことは間違いない。だからこそ、エイリアンがバカに描かれているとものすごい違和感を抱くのである。みなさんも、エイリアンはバカじゃないということを広めてほしい。ちなみに、その意味では『E.T.』でのエイリアン像などはありうるナンバーワンかもしれない。エイリアンにいろいろと教えてもらうくらいの映画がみてみたいものだ。

 

宇宙人類学の挑戦―人類の未来を問う

宇宙人類学の挑戦―人類の未来を問う

 

 こういう話に興味のある人には、この本は結構おもしろい。「宇宙人類学」は宇宙や宇宙人と人類とのかかわりを研究する人類学の一分野だが、どの論文も読みごたえがある。


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