フリー哲学者ネコナガのブログ

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言葉の意味はどこにあるのか─「村上春樹は、むずかしい」

 先日、『いくつになっても年をとらない新・9つの習慣』という本のタイトルを分析してみたが(「新年は謎だらけである」)、それ以来どうも、書店で並んでいる本を見ているとタイトルをあれこれ分析してしまうようになった。

 そこで今回は、加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』というタイトルを引き合いに出しながら、言語のおもしろさを少し語ってみることにしたい。ちなみに、私は同書を読んでいないので内容については触れることができない。ただ勝手にタイトルを拝借するだけである。

 

 さて、注目したいのは、「村上春樹は、むずかしい」という一文の意味である。これはストレートに解釈すると意味がとれない。なぜなら「村上春樹」は人名であり、人名に対して「難しい」というのは、いわゆる学校で習うような「文法」に照らせば正確な文ではないからである。そこで、何かが省略されていることがわかる。

 もちろん、容易に想像がつくのは「村上春樹の作品を読み解くのは難しい」ということであろう。しかし、これでもまだ足りない。なぜなら、おそらく「村上春樹の作品を読み解くのは難しい」といきなり言われても「そうですか」であり、あるいは「村上春樹の作品を読み解くのは難しい」ということをひたすら主張している本だとしたら、誰も読みたくないであろう。実際は「このように読み解くことができる」という、自分では持っていない視点が示されていることを期待するからこそ読者はその本を手に取るわけである。

 それなら、「村上春樹は難しい」という一文は、最低でも「村上春樹の作品もしくは全作品を通した村上春樹の世界はなかなかつかみづらいが、この本では、一般の読者よりもより熱心に読み込んだ著者が、熟考した上で到達した一つの解釈を提示しています」くらいの意味を持っていることになる。つまり、「意味」のほとんどは、言語化されないまま通達されているのである。

 あるいは、著者の加藤典洋氏が文芸評論家であることを知っていれば、もしくは氏のファンであれば中身を想像するのはより簡単になるし、岩波新書から出ていることに鑑みて、他の新書レーベルと比較して岩波新書のキャラクターを知っている人は、中身がそれなりに学術的な形式を踏まえていることも予想できるかもしれない。いずれにしても、この一文からどれだけの情報が引き出せるかというのは、読み手の知識量によるわけである。

 

 それなら、大前提として「意味のほとんどは、文章そのものの中にはない」ということになるが、実際これは現代の言語学の基本的な考え方の一つである。単語や文章には、それ自身に意味などない。つまり、単語や文章をいくら分析しても、言外の知識がなければそもそも意味は伝わらないのである。意味は常に、本人の脳内と周囲の環境を含めた「状況」の中にある。だからこそ、発信者が想定している状況ではない状況で受信者がメッセージを受け取った場合、別の解釈が生まれてしまうことにもなる。

 たとえば、日本のことはほとんど何も知らず、日本に来たばかり、日本語を学習し始めたばかりの外国人を想像してみよう。「難しい」という形容詞くらいは既に知っているかもしれないが、「難しい」というのは基本的に「行為」について言うものであり、最低でも「~することは」といった使い方をすると学習しているかもしれないであろう。そして、「村上春樹」が人名だということすらわからないかもしれない。

 つまり、「村上春樹」を行為の名前だと思って、一つ一つを辞書で引き、「村の上の方で春に樹を植えること」だと解釈する可能性もなくはないのだ。実際、「単語と単語の間にスペースがないから、そもそもどこで切るのか判断できない」というのは日本語学習者の典型的な悩みの一つである。日本人なら、「村上春樹」でひとかたまりでそれが人名だとすぐに判断できるし、有名作家だということもたいていの人は知っている。しかし、そうした知識を共有していなければ、話はそう簡単ではないのである。

 

 あるいは、もう一つ例を挙げると、「村上春樹はどこ?」「机の上だよ」という会話である。ストレートに解釈すると、おそらく部屋の中で、村上春樹が机の上にいるという状況である。しかし、意味はもちろん「村上春樹の作品が収録された本は机の上にある」である。これで意味が通じるのは、状況的に言って「村上春樹」が「村上春樹の本」を指していることが双方にとって明らかだからこそである。いずれにしても、われわれの言語というのは、とてつもない省略から成り立っているわけである。

 ちなみに、話し言葉と書き言葉が常に異なるのも、話し言葉なら基本的には発信者と受信者が状況を共有しているのに対して、書き言葉の場合はいつ誰がどこで読むかわからないことが多いから、より一般的な、形式的な、共有されたフォーマットで書かないと意味不明になってしまうからである(逆に暗号文などは、共有されていないからこそ中身が全部書かれていたとしても暗号になる)。

 

 錯綜しそうなのでこのあたりで終わりにして、「村上春樹は難しい」を言語学的に説明するとどうなるかまとめておこう。「村上春樹は難しい」の意味を最小にとって「村上春樹の本は難しい」と解釈する場合、大きく分けて三つの説明がある。

 一つ目は、「村上春樹は難しい」の「村上春樹」という単語に「作家である」とか「よく知られた作品がある」とかいった意味も同時に含まれていると解釈するものである。これは最も古典的なもので、言語の意味は文章の中で完結するという前提に立っているため、先に言ったように現代の言語学はもはや主流ではない。そもそも、この解釈は論理的に問題がある。なぜならこの解釈では、「村上春樹」であれ何であれ、「人名を覚える際には、同時にその人についてのあらゆる情報を覚えなければならない」ということになってしまうからである。これはヘンであろう。

 二つ目は、いちばん簡単に思いつくものでもあるが、「の本は」が単に省略されていると解釈するものである。つまり、発信者と受信者がどちらもオリジナルの「完全な文章」を丸ごと顕在化させなくても共有可能な場合、一部を削減することがあるというものである。これは本質的には一つ目と同じだが、やはり「複雑な文章の意味は、それを構成する単語と、それらをまとめるルール(文法)に還元できる」というパラダイムに基づいている。

 最後に、現代的な考え方の一つとして、「意味」と「概念」を区別するというやり方がある。つまり、単語があらわすのは「概念」であり、その概念の「意味」は、発信者と受信者それぞれの脳内で独自に決まる、と考えるものである。ここでは、意味の一部か大部分は文章や単語で表現されてはいない。かわりに、先に言ったように、本人の脳内を含めた「状況」の中に意味が生じるということである。

 つまり、「村上春樹」という概念が提示された瞬間に、脳内のネットワークで「村上春樹」という人物の周辺知識、たとえば「作家」「ノーベル文学賞候補」「翻訳も多く手掛けている」「元々喫茶店をやっていた」といった知識(記憶)が芋づる式に呼びさまされ、それら全体、そしてさらにその場の状況も含め、言語化されていないあらゆる情報を使って意味を構築できるからこそ、「話が通じる」ということである。

 言い換えれば、われわれは言語を通してコミュニケーションしているように見えて、実際は脳内ネットワーク同士でコミュニケーションしているのである。そして、言語というのはそれ自体ではほとんど情報量を持っていないということである。事実、対面で会話していてすら、コミュニケーションのうちバーバル(言語的)な部分は数パーセントに過ぎないとされている。

 

 意外と長くなったが、「村上春樹は、むずかしい」というタイトル自体が、解釈すればこんなに奥深いものであるということである。だからこの記事のタイトルは、「『村上春樹は、むずかしい』は、むずかしい」でもよかったのかもしれない。

 

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

 

 


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